三、幸福(オフェンス)な姉(プリンセス)と不幸(デフェンス)な妹(ウィッチ)と。

「……あなたは、いったい」

 まさしく鏡の中から抜け出してきたかのような、自分と瓜二つな巫女服姿の少女の登場に、呆然となり思わずつぶやく、漆黒のゴスロリドレスの少女。

「初めまして、愛明めあさん。私は夢見鳥ゆめみどり魅明みあと申します。よろしければ『お姉ちゃん』と呼んでくださっても、構いませんことよ?」

「なっ⁉」

 いたずらっぽい笑みを浮かべた深紅の唇から飛び出してきた、あまりに思いがけない台詞に、完全に言葉を失ってしまう我が教え子。

「──ちょっと、竜睡りゅうすい先生。あの巫女服の子って、まさか⁉」

 慌てふためいて問いただす僕に対して、これまでになく苦々しき表情を浮かべながら答えを返す、愛明の保護者にして実の叔母。

「ええ。あの子こそ、私の姉にして先代の巫女姫夢見鳥真夜まやの娘──つまり、愛明の双子の姉であり、当代の巫女姫たる、夢見鳥魅明その人なのですよ」

「夢見鳥家の巫女姫が、愛明君の双子のお姉さんですって⁉」

「……しかし驚きました。ただでさえ夢見鳥家の存在自体が国家的重要機密だと言うのに、すべての予言の巫女のかなめ的存在であり、出生と同時に本家の屋敷内に密かに設けられている『聖域』に隔離されて親兄弟ともまみえることなく、生涯一族の里の中で門外不出を旨とするはずの巫女姫御自ら、こんな裏社会アンダーグラウンドの賭け将棋大会なんぞに御出馬遊ばせられるとは」

 つまり幸福な予言の巫女の一族においてはそれだけ本気で、不幸な予言の巫女である愛明のことを潰そうとしているというわけなのか⁉

 そんなこんなの騒ぎの中でもいよいよ今大会の決勝戦が、図らずも何やら因縁浅からぬ実の姉妹対決という形で始まったのだが、本来自分のテリトリーのはずであった俗世の賭け将棋の大会に、同族の幸福な予言の巫女がエントリーしてきただけでも十分驚きだったのに、事もあろうに己の実の姉にして一族の重鎮たる巫女姫までもが登場してきたものだから、愛明のほうは今やこれまでの冷静さをすっかり失ってしまい、何とも危なっかしい手つきで駒を進めていた。

 それに対してあくまでも落ち着き払いほのかな微笑すらも浮かべながら、ただ粛々と定跡通りの手を指していく巫女姫の少女。

 少なくともこうして見ている限りは、彼女の所作には何らかの思惑や策略なぞ微塵も見受けられず、ひたすら対局のみに全力を注いでいるかのようであった。

 そんな彼女と相対しているうちに、愛明のほうも次第にいつもの落ち着きを取り戻していき、これまで通りの完璧なる『受け』の冴えを示し始める。

 まさしく『防御こそは最大の攻撃』を地で行く愛明に対し、巫女姫のほうもついに定跡を放棄しあの手この手の猛攻を仕掛けるものの、竜睡先生の言うところの『鉄壁の専守防衛』を為し得る不幸な予言の巫女の力を駆使して、そのすべてを受け切っていく愛明の辛抱強き様に、このまま例のごとく巫女姫の攻めの手が完全に切れてしまうものと思われた、

 その刹那、であった。

 唐突に手を止め、盤面へ屈み込むようにしてうつむく、巫女装束の少女。

 ……まだまだ打つ手がありそうにも思えるけど、これまで散々愛明の完璧なる『受け』の力を見せつけられたゆえに、すでに闘志を失い心が折れて、ここは潔く投了するつもりなのか?

 結局巫女姫と言っても、世間知らずの深窓のお嬢様に過ぎず、裏社会アンダーグラウンドの賭け将棋大会における真剣勝負なぞ、少々荷が重かったといったところか。

 しかしそんな僕の甘い予想をばっさりと切り捨てるかのようにして、再びおもてを上げた巫女姫は、満面の笑顔であった。

 そして鮮血のごとき深紅の唇から飛び出す、思わぬ言葉。


「──それでは皆様、を」


 そう言い放つとともに、彼女が一度柏手を打つや、

 ──文字通り、世界が一変した。

「……あ、あれ?」

 ほんの一瞬、今がいったいいつで、ここがいったいどこなのか、わからなくなってしまった。

 そう。あたかも何かしら、かのように。

 慌てて隣へ振り向くと、竜睡先生が先ほどよりも更に鋭い目つきで、己の姪っ子たちに挟まれた、将棋盤のほうを睨みつけていた。

 その視線を追って、目を向けてみると、

「なっ、まさか⁉」

 何と、今にも終局寸前だったはずの盤面が、双方共すべての駒が初期配置に──すなわち、対局開始時点の状態へと舞い戻っていたのだ。

「……これって、いったい」

 思わず口をついて出た疑問の声に答えてくれたのは、更なる驚愕の言葉であった。

「ループ、ですよ」

「る、ループう? それってあの、SF小説やラノベなんかによく登場してくる、一定の期間の同じ日時を延々と繰り返すやつのことですか⁉」

「ええ。まさしく以前述べたように、この現実世界を夢として見ながら眠り続けていた『夢の主体』たる黄龍ホワンロンが、ついに目覚めてしまったのですよ。そしてその結果私たちは、あくまでも愛明たちの熱き対局が行われていた世界から目覚めて、まだ対局は一秒たりとて行われていないへと戻ってきたのです」

「……黄龍ホワンロンが、目覚めたって」

「実は我が夢見鳥家にあって、そのおさたる巫女姫こそが、現世における黄龍ホワンロンの憑坐なのであり、そしてまさしく夢の主体そのものとも呼べる存在なのですよ」

「はあ? ちょっと待ってください。夢の主体と言っても実際に黄龍ホワンロンなぞという黄色い龍とかが中国の山奥辺りにいるわけではなく、あくまでもあらゆる世界のあらゆる森羅万象が総体的にシンクロ化したもの──つまりは集合体的存在なのであって、いわゆる『集合的無意識』を象るための仮想の枠組的な存在に過ぎなかったんじゃないのですか⁉ それに仮に黄龍ホワンロンなんかの夢の主体が存在していたとしたら、そいつが目覚めたりしたらこの現実世界そのものが、文字通り夢幻のようにして消え去ってしまわなければおかしいのでは?」

 そんな僕の至極当然の反論に対し、ここでおもむろに表情を引き締め、滔々と語り始める竜睡先生。

「ええ。確かに黄龍ホワンロン──つまりは、あらゆる世界を夢見ながら眠り続けている夢の主体とも呼び得る者なぞ、確たる個体として存在してはいないのであり、前にも申しましたがあくまでも仮想的な存在でしかなく、物理学上で言えばあくまでも思考実験上の存在である『シュレディンガーのねこ』のようなものに過ぎません。よって『あらゆる世界を夢見ながら眠り続けている神様』である黄龍ホワンロンは、あくまでも『あらゆる世界を夢見ながら』ので、我々が一般的に言うところの『目覚め』を迎えることはけして無いのでありますが、それでもあえて黄龍ホワンロンにとっての『目覚め』とは何かと言えば、無限に存在し得る世界の夢のうち、現在見ている世界の夢から別の世界の夢へと変わること──例えるならゲーム等で言うところの、いわゆる『ルート分岐』を行うようなものでしょうね」

「はあ? 黄龍ホワンロンの『目覚め』が、ノベルゲーやギャルゲーで言うところの、ルート分岐のようなものですって⁉」

「つまりですね、もし黄龍ホワンロン、ただ『目覚める』だけで、過去の世界へでも未来の世界へでも異世界へでも派生世界パラレルワールドへでも遠宇宙へでも小説や漫画やゲーム等の創作物の世界へでも、いつでもどこでも行き放題ということなのです」

「過去の世界って…………あっ、つまりさっきいきなり世界そのものが対局開始時点に──つまりは『過去』に戻ってしまったのって、そういうからくりだったわけなのですか⁉」

 ようやく合点がいき思わず興奮気味にまくし立てるものの、目の前の女性は苦笑を浮かべるばかりであった。

「いいえ、そうではありませんわ。何度も申しますように、黄龍ホワンロンなぞ実際にはいやしない仮想的な存在に過ぎず、どのような形であろうと『目覚め』たりはしないのです。それに仮に夢の主体たる黄龍ホワンロンが目覚めて過去の世界へのルート分岐を為し得たとしても、過去の世界へと『目覚める』のは黄龍ホワンロンただ一人であり、あくまでもこの世界こそに従属している存在である我々この世界の森羅万象は、そのままこの世界に存在し続けるのみなのです」

「……ということは、こうして我々を含む世界そのものが対局開始時点に後戻りしてしまったのは、夢の主体の『目覚め』に基づくルート分岐によるものでは無かったわけなのですか?」

「いえいえ、夢の主体の『目覚め』に合わせて、『目覚めて』ルート分岐しさえすれば、まさしく先ほどのような、全員参加型のループを実現し得るのですよ」

「みんな、って?」

「もちろん我々人間を始めとする、文字通りこの世の森羅万象すべてですよ。──言ったでしょう黄龍ホワンロンのような夢の主体とは実は万物の集合体的存在なのであり、この世界の誰もが──それこそ人間に限らず何物であろうが、この世界を夢見ている主体である可能性があり得るのです。まあ言ってみれば、この世界に存在している森羅万象は皆この世界を夢見ているようなものなのであり、一斉に『目覚める』ことによって、みんな一緒に別の世界にルート分岐する形で、過去や未来へのタイムトラベルや異世界転移や小説や漫画やゲーム等の創作物の世界へのダイブをしてしまう可能性があり得るというわけなのですよ」

「え、それってつまりは、例えばこの僕にも、いつでもタイムトラベルしたり異世界転移したりできる可能性があるってことですか⁉」

「………だから、『目覚めさえすれば』と言っているではないですか? あなたも私もあくまでも夢の主体たる黄龍ホワンロンを構成している一端末に過ぎないのだからして、自らの意志で『目覚める』こと──つまりは世界のルート分岐などという大それたことを、実現したりはできないのです」

「いやでも、さっきのループ現象って、そこの巫女さんの仕業だったんでしょう? 何で彼女は一個人でありながらあのようにして、恣意的に世界のルート分岐をすることなんかができたのです? まさか彼女にだけ黄龍ホワンロンそのものの、特別な力が備わっていたりするわけなんですか?」

「おや、中々いい勘をしてられますね。実はそうなんです。彼女──すなわち夢見鳥の巫女姫こそが、いわゆる『黄龍ホワンロン象徴シンボル』とも呼び得る存在なのです」

黄龍ホワンロン象徴シンボル、ですって?」

「確かに黄龍ホワンロンは集合体的存在ですが、最近流行りの大所帯のアイドルグループにリーダー──いわゆるその集団における『顔』が存在しているように、黄龍ホワンロンのような集合体的存在においてもいわゆる象徴シンボル的な存在がいても、別におかしくはないでしょう? つまり魅明は我々同様に黄龍ホワンロンの一端末でありながら、同時に象徴シンボルとして黄龍ホワンロンそのものの役割をも担っているようなものなのであって、この世の森羅万象すべてからなる大集団アイドルグループ構成員メンバー全員を代表して、黄龍ホワンロンそのものの力を行使することによって、世界そのものをルート分岐させることを為し得ているのですよ」

「な、何ですってえ⁉」

 たかが小学生の女の子一個人が、この世の森羅万象を代表して、世界そのものを別の世界へと入れ替えることができるだと⁉

「……そんなことまでできるなんて、いったい夢見鳥の巫女姫って、何者なんですか⁉」

「え? もちろんですよ? 『もしかしたら黄龍ホワンロン等のこの世界を夢見ながら眠り続けている神様がいるかも知れない』なんて思い込んでいる、少々可哀想なの」

「はあ? 妄想癖の女の子って。いやいや、だって現に彼女は、こうして時間を巻き戻して見せたではありませんか⁉」

 竜睡先生のいきなりの手のひら返し的発言に泡を食って物申せば、その眼鏡美人さんはむしろほとほとあきれ果てたかのようにため息をついた。

「……やれやれ、お忘れになっては困りますよ。『あらゆる異能は集合的無意識へのアクセスによって──つまりは突きつめれば、自分自身の脳みそでのシミュレーションによって創出されている、に過ぎない』ということを」

 ……あ。

「言わば我々はほんの一瞬だけいわゆる白昼夢状態となり、未来の無限の可能性の集合体である集合的無意識にアクセスして、文字通り可能性の一パターンを垣間見ただけなのであり、実は先ほどのあの熱き対局は実際には行われていなかったのです」

「へ? この場にいる大勢の人たちが、一斉に白昼夢状態になるなんてことがあり得るのですか?」

「だからそれを実行したのが、黄龍ホワンロン象徴シンボルたる夢見鳥の巫女姫である魅明なのですよ。実は黄龍ホワンロン象徴シンボルたる巫女姫は、他の一般の巫女たちのように自ら一瞬だけトランス状態となって白昼夢的に集合的無意識にアクセスすることができるだけでなく、何と他人を強制的に集合的無意識にアクセスさせることが──つまりは、自分を含む万物を恣意的に総体的シンクロ化させることができ、ほんの一瞬の間において自ら算出シミュレートした疑似的演算シミュレーション世界を体験させることを為し得るのです。言わば先ほどの対局も、魅明自身が脳内で創造した仮想世界を私たちにも無理やり体験させたわけで、しかもそれはほんの一瞬の出来事に過ぎず、現実世界においては何事も起こっておらず、一秒も時間は進んでいないのですよ」

 そんな馬鹿な⁉ さっきのあの大熱戦が、実は仮想世界での体験のようなものに過ぎなかっただって?

「まあ言ってみれば、将棋の超トッププロ級の達人たちが己の頭の中で展開することのできる脳内将棋盤の、世界そのものを仮想演算シミュレーションした拡大版のようなものなんですよ。そもそも脳内将棋盤とは、将棋の達人が己がこれから指そうと思っている手に何らかの齟齬がないかを、脳内で仮想演算シミュレーションすることによって確認するためのものなのなのであり、それに対して黄龍ホワンロン象徴シンボルたる魅明は単なる脳内将棋盤上での仮想演算シミュレーションにとどまらず、対戦相手である愛明を始めとする人や物やひいては空間セカイすらもすべてひっくるめて、仮想演算シミュレーションすることによって、『本物の世界』を構築してしまったという次第なのです」

「……つまり僕たちはみんな、彼女によって幻覚を見せられていたようなものなのですか?」

「と言うよりも、言わば私たちはまさしく、いわゆる『現実世界という夢からの目覚め──すなわち、世界そのもののルート分岐』を体験させられたようなものなのです。ただしここで何よりも留意していただきたいのは、先ほどの仮想的な対局中に存在していた私たちも、けして夢の産物や疑似的演算シミュレーション世界における仮想人格なんかではないことなのです。何せたとえそれが夢の世界であろうが疑似的演算シミュレーション世界であろうが、現代物理学を代表する量子論──中でも特に多世界解釈に基づけば、皆等しく『別の可能性』と言う名の世界なのであって、そこに存在していた私たちも『別の可能性の自分』と言う名の自分だったのであり、だからこそ魅明が算出シミュレートした疑似的演算シミュレーション世界内にあっても、何よりも肝心な対局相手の愛明を始めとして、誰もが自分の意思で言動できていたわけなのですよ。まさに今現在の私たち同様にね。──いえ、ひょっとしたら私たちはいまだ、魅明による疑似的演算シミュレーション世界の中にいるのかも知れませんよ?」

「……え」

「だって魅明としては愛明に勝つためにこそ、こんな七面倒なことをやっているわけなのであって、あらかじめ勝負に勝つまでは、シミュレーションによるループををやめることはないでしょう。何せ一度でも負けてしまえば、その時点ですべてはおしまいなのであり、いかに黄龍ホワンロン象徴シンボルたる巫女姫とはいえ、あくまでも本物の現実世界においては、すべてを無かったことにして過去をやり直すことなんてできないのですからね」

「いやでも、いくら疑似的演算シミュレーション世界の中の対局で勝ったところで、それこそ現実に勝負がついたわけではなく、まったくの無駄ではないのですか?」

「もしかしたら魅明は勝つこと自体が目的ではなく、愛明の心を折ることこそを狙っているのかも知れませんね」

「え、心を折るって……」

「これからも今やったように延々とループを繰り返して、すべての対局を無かったことにすることによって、愛明に無駄な徒労を繰り返させることで、闘志をへし折ってしまおうとしているのではないかと思われるのですよ。そのようにたとえ疑似的演算シミュレーション世界の中の出来事とはいえいったん完膚なきまで心が折れてしまえば、現実世界に戻ったところでもはや勝負を続けることなぞできないでしょうからね」

 なっ。愛明の心を折るために、これからも無限にループを繰り返すつもりだと⁉

 そのとても肉親の為せる業とは思えない情け容赦ないやりように、僕は完全に言葉を失ってしまうものの、まさにそんな竜睡先生の言こそが正しかったことを裏付けるようにして、その巫女姫の少女はそれからも延々とただひたすらにループを繰り返し、毎回同じようにして後一歩で愛明が勝利を得ようとした寸前に、すべてを御破算にしていったのだ。

 そうなると愛明はすっかり己の手口を読まれてしまったことになり、魅明のほうはそれを踏まえてこれまでとは異なる戦法を選んで勝負に挑むことができるわけであって、つまりはループを繰り返すごとに愛明のとるべき手段が減っていき、魅明のほうが一方的に有利になっていくといった次第であった。

 ──そう。そのであったのだ。

 しかし愛明のほうはと言えば、普段通り相も変わらず、ただ相手の指した手を『受け』続けるだけで、そこにはほんのわずかの焦りも動揺も疲労もまったく存在していなかった。

 もちろん魅明のほうはループするごとに、矢倉、角換わり、一手損角換わり、相掛かり、横歩取り、中飛車、三間飛車、四間飛車、向かい飛車、相振り飛車──等々と、居飛車系振り飛車系を問わず文字通りあらゆる戦法を繰り出してきたのだが、それに対して愛明のほうは淡々と『受け』続けるばかりであったのだ。

 それも当然であろう。

 竜睡先生もおっしゃっていたように、『己の未来の可能性』をすべて予測し得る不幸な予言の巫女である愛明は、ただその場その場において相手の指す手に対して『己が負ける可能性がまったく無い手』を指し続ければいいのであって、別に自分のほうから戦法を決めているわけではなく、いくらループを繰り返されることで対局を御破算にされようがどんな戦法を繰り出されようが、文字通り凌いでいくだけであった。

 ──そう。ループを繰り返すごとに使える戦法が無くなり苦しくなっていくのは、むしろ魅明のほうであったのだ。

 実際に僕らの予想と反して今や疲労の色を濃くし焦燥感に駆られた表情を隠そうともしないのは、ループなどという超常の反則技を繰り返し一方的に『攻め』続けていたはずの、巫女姫の少女のほうであった。

「──どうして、どうしてなの? どうしてあなたは、私がループを繰り返すことで何度も対局そのものを御破算にされて、それまでの苦労がまったくの無に帰しているというのに、けして心折れることなく、闘い続けることをあきらめないの⁉」

 あたかも悲鳴のような実の姉の疑問の叫びに対して、対面に座している禍々しき黒衣の少女は盤面に視線を落としたまま、ぼそりとつぶやいた。

「……あなたには、わからないでしょうね」

「え?」

 そこでいきなり顔を振り上げる、不幸な予言の巫女の少女。

 その端整なる小顔の中で鋭く煌めいていたのは、怒りと憎しみに燃える黒水晶の双眸であった。

「生まれた時から幸福な予言の巫女として──しかも将来の巫女姫として、人生のすべてにおいて祝福され続けてきたあなたに、物心がつくと同時に不幸の予言をしてしまったために、出来損ないの『くだんの娘』として蔑まされ忌み嫌われて、生まれた里を追い出されてしまった、この私の気持ちがわかってたまるかあ‼」

「──っ」

 まるで鬼神のごとき裂帛の大喝を浴びせかけてきた実の妹に、完全に気圧されて言葉を失ってしまう双子の姉。

「私はもう、将棋で勝ち続けるしかないの。それも受け将棋に徹することによって、不幸の予言の力を──つまりは私自身の存在価値そのものを、示し続けるしかないのよ! 全知そのものの幸福な予言の巫女の無限の未来の可能性の演算能力によって実現される、シミュレーション系の異能だろうが別人格化系の異能だろうが多世界転移系の異能だろうが恐れるものか! 将棋の達人ならではの無数の脳内将棋盤──すなわち集合的無意識へのアクセスによって導き出された将棋の勝負の場における、『大局観』や『最善手』や『定跡』や『先読み』なんて知ったことか! 私はあくまでも不幸の予言による『己の負ける未来』の予知能力を信じて、ただひたすらその場しのぎの『受け将棋』に徹することで、幸福な予言の巫女にして真に全知なる黄龍ホワンロンの巫女姫たるあなたに、必ず勝ってみせる!」

 そんなSF小説界が誇る代表的な各種の異能はおろか、将棋界における最も根本的かつ絶対的なセオリーすらも全否定するみたいなことを言い放つや、まるでその決意の程を示すようにして、全力で駒を盤面に叩きつける不幸な予言の巫女の少女。

 その瞬間、巫女姫の少女のほうの攻めの手が、ついに完全に切れてしまう。

「……ま、まだよ。まだ勝負はついていないわ! 私だってあきらめるものですか。私は巫女姫なのよ! 出来損ないの不幸な予言の巫女なんかに、負けてたまるものですか! ──いいでしょう。こうなったら私が勝つまで、無限にループを繰り返すのみよ!」

 そう言ってこれまで同様に、ループ能力発動の合図として柏手を打とうとした魅明であったが、

 生憎とそれは、果たされることはなかった。


 なぜならその少女はいきなり力尽きたかのようにして、盤面へと倒れ込んでしまったからである。


 四方八方に駒をまき散らしながら四肢を投げ出し意識を失う己の姉の無様な様を、冷ややかな表情で見下ろす双子の妹。

 ──まさしくこの瞬間、出来損ないとも不吉なるくだんの娘とも呼ばれ蔑まされてきた不幸な予言の巫女が、一族の最高実力者である巫女姫に、真正面からのガチの異能勝負において勝利したのである。

 そして術者であった魅明が倒れたために、この場にいる我々全員が今度こそ間違いなく、疑似的演算シミュレーション世界から現実世界へと帰還できたのであった。

「……いやそれにしても、何でループを実行していたはずの巫女姫のほうが、力尽きて倒れてしまったんだ? いくらループの中で対局を繰り返そうがそれはあくまでも仮想的な出来事に過ぎず、ループを行うごとに気力体力共にリセットされるのだから、倒れてしまうまで疲労が蓄積したりはしないはずなのに」

 僕は目の前で起こったことがいまだ信じられず、思わずうめき声を漏らした。

「まあ『将棋体力』と言うものは、実際の身体的体力とはまた別のものですからね。ループによってリセットされること無く、蓄積されることだってあり得るでしょう」

「将棋体力、ですって?」

 こちらの疑問の言葉にすかさず答えてくれた竜睡先生の一応はもっともらしい台詞に、しかし僕は怪訝な表情を隠さなかった。

「だったら愛明君だって倒れるまでとは行かないとしても、それなりに疲労が蓄積されていないとおかしいのでは? 確かに彼女は攻め手側の巫女姫に対して常に受けに徹していたから負担が比較的少ないとはいえ、あれだけループ中に対局を繰り返しておいて、実際の肉体的疲労はともかくとして、あなたが言うようにループごとにリセットされることが無いらしい将棋体力とやらに関しては、もっと疲労を感じているはずでは?」

「それはですねえ、実は不幸な予言の巫女たる愛明こそは、特に効率化を果たすことで幸福な予言の巫女の弱点を完全に克服した、『進化した幸福な予言の巫女』とも呼び得る存在だからですよ」

 なっ⁉

「進化した幸福な予言の巫女ですって⁉ それに幸福な予言の巫女の弱点って……」

 思わぬ言葉に呆気にとられる僕を尻目に、まさに水を得た魚そのままに嬉々として語り始める、蘊蓄大好き眼鏡美人。

「実はですね、まさしく真に理想的な量子コンピュータや全知なる神様そのままに未来の無限の可能性を常にすべて予測計算シミュレーションできる幸福な予言の巫女って、むしろ自分が負ける未来等しか予知できない不幸な予言の巫女よりも、非常に非効率な存在でしかないのですよ。しかもそうやって苦労して導き出した『幸福の予言』が百発百中当たるとは限らないのだから、まったくもって報われないのです」

「へ? 幸福な予言の巫女が、量子コンピュータどころか神様そのままな全知の力を有するのに、予言を必ずしも的中させることのできない、非効率で報われない存在ですって?」

「巫女姫を始めとする幸福な予言の巫女たちは、幸福の予言を行う際には常に未来におけるあらゆる可能性を予測計算シミュレーションすることによって、我が国の財界のトップ等の相談人に対して、経営戦略等において彼らが最も望むと思われる成功の方策を授けているのだけど、何度も何度も言うようにこの現実世界の『未来には無限の可能性があり得る』のだから、『絶対に成功する方策』を予言することなんて絶対に不可能なのであり、特に今回のような将棋の対局の場で言えば、受け一本槍である愛明に対して魅明を始めとする幸福な予言の巫女たちのほうは、常に攻め手側に立ち盤面を主導するために幸福の予言を使っていたのですけど、対局の途中において重要な岐路に差しかかるたびに、そのつどあらゆる分岐の可能性パターン予測計算シミュレーションして戦法の選択をしているものの、それによって導き出されるのはけして『必勝の策』なぞではなく、常に負けに繋がる可能性オトシアナさえも秘められているのであり、非常に非効率と言うか、むしろ『幸福の予言なんてするだけ無駄じゃね? それよりも普通に将棋の腕を上げたほうが早くね?』とすら言えたりもするのです。しかもこれまた先に述べたように、未来予測を含むすべての異能は現実的には自前の脳みそでの計算処理シミュレーションによって弾き出されているようなものだからして、重要な分岐点ごとにあらゆる可能性を予測計算シミュレートするという幸福な予言の巫女のやり方では、将棋の対局という長丁場においては心身共に耐え切れるはずがなく、特にループなんかの仮想的とはいえ世界そのものを創り出すなぞという大技を何度も繰り返していたのでは、個人の脳みそのキャパシティ的に限界を迎えて倒れ込んでしまうのも当然の仕儀なのですよ」

 な、何と。常に真面目に未来の無限の可能性をすべて予測計算シミュレートしているからこそ、片手落ちの『不幸の予言』なんかよりもむしろ間違いが起こりやすくなって、しかも気力体力共に使い果たしてしまうことになるってわけなのか。

 ……確かにそれじゃ、割が合わないよな。

「それに比べて不幸な予言の巫女のほうは、一見自分や他人の負ける未来や失敗する可能性パターン等のマイナスの未来しか予知できないので、予言を与える相手に対して幸福をもたらすことができないようであるけれど、実は『リスク対策』という観点からすると、幸福の予言と違って的中するかどうかにかかわらず、予言を授ける相手に対して多大なるメリットを与えることができるのです。例えば我が国の財界のトップ等に経営戦略上の助言を与える場合においては、どこぞのインチキ占い師みたいに結局のところ当たるか当たらないか定かではない『幸福のお告げ』なぞではなく、企業内の専門の部署セクションが作成した各種の戦略案に潜んでいる『不幸な未来』を洗いざらいえぐり出して、あまりにもリスクが多い案に関しては丸ごと却下し、それほどリスクの無い案に対しては十分なる対応策を講じることによって、具体的な経営戦略における欠点を事前にすべて潰し、必ず成功に導くことを可能にできるのですよ。更には何と言っても現下のような将棋の対局の場においては、『己の負ける可能性のある未来』をすべて予知できる不幸の予言を使うことによって、ほんのわずかでも負ける可能性のある手を指してしまうことを完全に防止でき──つまりは、最初から最後までノーミスを貫くことができ、その上特に『受け将棋』に徹していれば、『攻め手』側のように自ら盤面を主導する必要も無く、常に相手の出方に合わせてその場その場で不幸な予言を使うことですべての『敗着の可能性』を回避すればよく、幸福な予言の巫女や将棋の超トッププロ級の達人が行っているような、すべての未来の可能性の予測計算シミュレーションによる、『大局観』や『最善手』や『定跡』や『先読み』なぞまったく必要とせず、最小限の不幸な未来の予測計算シミュレーションだけで勝利を得ることができるという、非常に効率的な未来予測を実現しているのですよ。──そう。言わば不幸な予言の巫女こそ、何かと心身に負担をかけがちな幸福な予言の巫女の弱点を克服し、しかも真の意味での『幸福の予言』の実現すらも為し得た、『進化した幸福な予言の巫女』とも呼び得る存在なのです」

 そ、そうか。不幸な予言の巫女って、完璧な『リスク対策』を真に効率的に実現できて、実際のところは不完全で非効率でしかない幸福な予言の巫女なんかよりも、よほど『優れ物』だったってわけか。

 確かにこの世のあらゆる出来事のあらゆる局面において必ず何らかの『リスク』が存在していることを鑑みれば、そのすべてを事前に把握して排除あるいは回避することができる『不幸の予言』こそ、人々に必ず幸福な未来をもたらすことができる、『真の幸福の予言』とも呼び得るかも知れないな。

 竜睡先生のお説に心から納得しうんうん頷きながら、ふと対局場のほうを見やれば、愛明とどうにか無事に復活を果たした魅明が、対局後恒例のいわゆる『感想戦』を行っていた。

 いや、あれは感想戦と言うよりも、むしろ──

「……これまで生き別れとなっていた実の双子の姉妹による、人生初の語らいか」

 闘い終わりお互いの間にわだかまっていた軋轢も忘れ、この世に二人しかいない姉妹同士で素顔になって言葉を交わす姿は、やはりそこはかとなく微笑ましいものがあった。

「『巫女姫』だ『不敗の女王』だと言ったところで、あいつらはまだほんの小学生の幼い女の子に過ぎないんだしな」

 そんなことを思いながら、耳をすまして二人の会話を拾ってみれば、


「──しつこいわね、は絶対に渡さないと言っているでしょう? 負け犬巫女姫さんはとっととしっぽを巻いて、山奥の隠れ里にお帰りあそばせ!」

「そういうわけには参りませんわ。何よりも巫女姫である私がこのような俗世の場に赴いたのも、あなたから明石月先生を奪い取るためなのですから」


 ……なぜだか僕のことを引き合いにして、姉妹が激しく口論していたのであった。

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