第16話「記憶は今も、護ってる」

 防災サイレンの絶叫が、霧崎迅矢キリサキジンヤの肌を泡立あわだてる。

 抜けるような青空は今、飛び去る影が残した不安と恐怖でにごって見えた。

 間違いない……あれは現代人が知ってはいけない驚異、ストラトストライカーズが処理すべき存在だ。現在の科学では解明できない、ゆえに認知させていない生物である。

 その獰猛どうもうな翼を目で追っていた迅矢は、突然の言葉に驚き振り向いた。


「こっ、こうしちゃおれん! 出るぞ! 回せーっ! ワシの零戦れいせんを回すんじゃーっ!」


 突然、老人が叫び出した。

 その目は、先程のうつろで乾いたものではない。

 爛々らんらんと輝く瞳には、燃える闘志が揺らいでいた。

 すでにもう、枯れ果てた老体の雰囲気は霧散してしまった。彼は間違いなく、今この瞬間だけパイロットへと変貌してしまった。同じパイロットとして、迅矢にはそれがわかる。

 翼を持ってなにかを守る、空の戦士の面持おももちがそこにはあった。

 慌てて落ち着かせようとする、八谷奈美ヤタニナミの声。


「おじいちゃん、落ち着きましょう? ね? 戦争じゃないから、大丈夫だから。零戦って、ええと……」

「ワシの零戦じゃ! 零式艦戦れいしきかんせん52型! 奈美さんや! ワシは飛ぶぞ……ワシが家族を、拓海タクミ達を守ってやるんじゃ!」

「お爺ちゃん……」

「ささ、奈美さんは防空壕ぼうくうごうへ急ぐんじゃ! なに、国も家族もワシが守る!」


 以前、迅矢はなにかの本で読んだことがあった。

 高齢で記憶や意識がはっきりとしない、恍惚状態こうこつじょうたいの老人にも人格、そして意思と精神がある。それは、ちょっとしたきっかけで以前の自分を覚醒かくせいさせるのだ。例えば、老人ホームが火事になった時、サイレンを空襲警報くうしゅうけいほうと勘違いして……職員や他の仲間達を誘導して助けたお年寄りがいた。

 忘れた記憶は、失った訳ではない。

 それはきずであれ勲章くんしょうであれ、その人間の奥底に眠っているのだ。

 そして、迫る危機に呼び出された時、過去と現実が入り混じってゆく。


「落ち着け、爺さん! 奈美、大丈夫だ。こういうのは時々あるって……な? 爺さん。軽い記憶の混濁だ」

「当然じゃ! 若いの、おぬしもパイロットじゃろうに、なにをやっておる!」

「爺さん、それは」

「ワシに続け! 背中に羽根はねぇくくりつけてでも上がってこい! 今がその時じゃ!」


 老人は明らかに興奮状態だった。

 だが、かつてそうであったろう、偉大な空の守護者の気迫を取り戻している。

 かつてこの国が、無謀な戦争をやった、その代償を払わされた者の一人だ。倫理も道徳も捨てた精神論で、空飛ぶ棺桶かんおけに乗せられて、それでも戦った戦士なのだ。

 そして、そのことを記録で知るしかない迅矢にも気持ちが伝わってくる。

 それは、その頃も記憶を連ねて800年生きてきた、魔女まじょも同じようだ。


「了解、それでは……迎撃行動に移りましょう」


 とても静かで、冷たく透き通った、声。

 それでいて、熱く強い意思が込められた言葉だった。

 猛る老人の前に歩み出て、ストレガは優しくその手に手を重ねる。


「お爺さん、私が行ってやっつけてきす。ですから、お爺さんは家族を……奈美さんを守ってください」

「ワシもいくぞ、ワシも飛ぶ!」

「私がもし危なくなったら、その時はお願いします。それまで、奈美さんを……


 思わず迅矢は「へ?」と、間抜けな声が出てしまった。

 老人も突然の言葉に、目を丸くする。

 奈美だけが、お腹に手を当て赤面にうつむいた。

 だが、ストレガは構わずそっと手を伸ばす。彼女に呼ばれるように、目の前の八谷家がガタゴトと騒がしくなった。そして、庭の物置からなにかが大量に飛び出てくる。


「お、おいっ! 魔女子まじょこちゃん!」

「ウォーロック、ここをお願いします。あの敵は私が排除しましょう。ご心配には及びません、私は魔女なので」


 くわすき熊手くまで物干ものほ竿さおと、いわゆる棒状の道具が無数に乱舞した。それらはストレガを取り巻きくるくると周り出す。まるで主に仕える騎士が、勅命ちょくめいを待つかのようなおごそかさだ。

 ストレガは荷物を全て迅矢へ預けると、それらを一瞥いちべつしてつぶやく。


「デッキブラシ、は、やめておきましょう。では……貴方あなたをお借りします」


 残念ながら、馳せ参じた中にほうきはない。

 だが、彼女はいつものすずしい表情で熊手を手に取る。秋になれば落ち葉を掃いたりするアレだ。そして、彼女はそれにまたがり、老人へと向き直った。


「行ってまいります。お爺さん」

「お、おおう。……お嬢ちゃん、死んではならんぞ! 若者は、死ぬのだけはイカン!」

「了解。ご心配なく……魔女は死にません。死ねないんです」


 それだけ言って、敬礼けいれいする老人にストレガも敬礼を返す。

 そして、彼女は「では」と真顔で身構えた。

 だが、むなしい静寂だけが周囲を包む。

 いつものように風をはらんで、ストレガが宙へと舞い上がることはなかった。

 少しバツが悪そうに、ストレガは握る熊手を片手でペイとはたく。


「飛びなさい。今のあるじは私です……お飛びなさい!」


 瞬間、竜巻のような風と共にストレガが消えた。

 見上げるともう、空の彼方へと彼女は飛び去ってしまった。

 遥か向こう、中央市街地の上空で空中戦が始まる。ストレガとて、ストラトストライカーズの一員だ。不用意に人口密集地での戦闘は避けるはず。人命優先は勿論もちろん、その戦い自体を人の目に触れさせてはいけないのだ。

 目を細めてストレガの戦いを見詰め、そういえばと迅矢は振り返る。


「な、なあ、奈美。その、さっき魔女子ちゃんが言ってたこと……」

「あ、うん……霧崎先輩、わたし……あの人との子供を、授かりました。今、三ヶ月です」


 素直に驚いたし、嬉しかった。

 市街地の空へ号令と応援を叫んでいた老人も、はたと気付いて奈美に寄り添う。


「そうじゃったんか……なら、拓海が戻るまではワシが守らねばならんのう!」

「お爺ちゃん……拓海さんは、もう。でも、わたし、大丈夫です。だから、お爺ちゃん。わたしと一緒にこの子を守ってくださいね。家族や親族も力になってくれますから」

「当然じゃ! ああ、こうしてはおれん! 急いで防空壕に行かねば」


 ばあさん婆さんと叫んで、老人は家へ走り去ってしまった。

 先程まで、杖を突いていたとは思えぬ健脚ぶりである。

 それを見送り、奈美は微笑ほほえみながら迅矢を振り返った。


「さっきの、あれ」

「あ、ああ、その……なんだ、守秘義務しゅひぎむってのが」

「じゃ、聞かないほうがいいです、よね?」

「すまん。そういうことなんだが」


 クスリと笑って、奈美は迅矢に並んで遠くの空を見やる。

 サイレンが響く中で、慣れぬ熊手に悪戦苦闘するストレガが見えた。小さな点でしかない彼女を見ても、迅矢には手に取るようにわかる。いつも一緒に飛んでる時の、あの安定感がない。周囲の空気を従え統べるような、圧倒的な支配空域プレースメントが感じられなかった。

 やはりいつもの箒でないと、本気が出せないようだ。


「あの、魔女なんだって?」

「そ、そう、なんだ、けど、よ」

「それで、魔女子ちゃんなんだ……名前でよんであげてくださいよ、先輩」

「いや、それがまた、なんというか……」

「ふーん、魔女かあ。それって、ってことかも。ふふ、楽しみですね、霧崎先輩っ」

「なにを呑気のんきな……って、こっちに戻ってくる!」


 遠くのビル群を縫うように飛んでいた影は、こちらへと猛スピードで戻ってくる。

 ストレガはどうやら、郊外へと追いやってから撃墜するつもりだ。

 再び風を引き裂き、頭上を竜と魔女が飛び抜けてゆく。そう、竜……ワイバーンだ。今度ははっきりと見えた。かざした片手に魔力を集めて、プラズマをスパークさせるストレガ自身もはっきりと。

 だが、事態は予想だにせぬ事態を迎える。

 迅矢はそのことを、長年つちかったパイロットの鋭敏な感覚で察した。

 あるいは、直感とでも言うべきものが働いたとも言えた。


「なんだ……ストレガ達の他に、なにか……来たっ!」


 暴風が荒れ狂う。

 咄嗟とっさに奈美を抱き寄せ庇った迅矢は、見た。

 ワイバーンとは比較にならないくらい、巨大な影。それが飛び去ってはじめて、遅れて轟音が通り過ぎた。音速マッハを超えた飛翔は、周囲の家の屋根を残らず引っ剥がしてゆく。

 トタンや瓦が舞う空へと今……巨大なドラゴンが浮かんでいた。

 最も神に近い眷属けんぞく、龍。

 その巨体が持つ質量が嘘のような、鋭く疾い旋回、そして急加速。

 あっという間にワイバーンも、それを追うストレガも捕捉されてしまった。


「逃げろ、ストレガッ!」


 思わずタックネームを叫んでいた。

 だが、遅かった。

 周囲の気圧が急激に下る中で、巨大なドラゴンの顎門アギトが真っ赤に割れる。

 地獄の底のような真紅の口に、燃え盛る火球が膨らんでいった。

 それは発射されるなり、ストレガごとワイバーンを飲み込む。

 突然の瞬殺劇……大爆発は、ワイバーンに断末魔の絶叫さえ許さない。一片いっぺんの肉片も残らず、ワイバーンは文字通り消滅してしまった。

 勝ち誇ったように一声鳴いて、ドラゴンは飛び去る。

 間違いない、あの日迅矢達を襲い、拓海の命を奪ったあのドラゴンだ。

 地上に立って翼がなくとも、迅矢にははっきりとわかる。


「見てください、先輩っ! さっきのが!」


 はたと我にかえって、迅矢は自分に恐怖した。

 今、仇敵きゅうてきを前に憎しみに支配され、復讐のことで頭がいっぱいになっていた。仲間であるストレガの危機すら、考えず感じなかったのだ。

 奈美の指差す方向を見れば……まるで木の葉のように気流にゆられて、自由落下する人影がある。そこにもう、魔法の力は感じられない。

 あわてて迅矢は走り出しながら、一瞬前の自分を恥じずにはいられなかった。

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