第5話「防人達の園」

 初めての出撃は、霧崎迅矢キリサキジンヤにとって衝撃の連続だった。

 それでも、ストレガの背中に張り付く荷物である以上の、迅矢にしかできない仕事をしたとも思える。そして、彼が言葉に乗せた想いは、仕事である以前に彼の生き方そのものだった。

 神との遭遇、そしてかすかな相互理解と、別れ。

 迅矢が小八州島こやしまとうに戻って報告を終えると、それで今日の任務は終わりになった。クサハェルは親切に宿舎を教えてくれたし、その頃には知らぬ間にストレガは消えていた。


「で、だ……本当に小さな島だな、おいおい。コンビニのない場所なんて初めてだぞ?」


 すでに時刻は正午をとっくに過ぎており、遅めの昼食をと思っても食欲がない。なにか食べないと体力がと思うが、あまりに驚きの連続で空腹など感じられなかった。

 水分補給だけでもと思っても、空港を出るとなにもない。

 本当に、人間の生活圏たる文明がなにもないのだ。


「さあ、迅矢。こいつでも飲んでくれ。日本の缶コーヒーは甘いから、ワシゃ大好きじゃよ。カロリーも高くてパイロット向きじゃ!」

「お、おう。バロン、因みにあんたは」

「ワシも宿舎に住んどるよ。今日からは同じ釜の飯を食う仲間さ、ワッハッハ!」


 これまた、酷くクラシカルなビートルを走らせ、バロンが笑う。当然のように真っ赤なビートルだ。彼が声をかけてくれなければ、港がある町の方まで歩く羽目になるところだった。

 空港で買った缶コーヒーのスチール缶は、プルトップを切り離して取るタイプだ。

 まるで昭和の昔に迷い込んだような島である。

 木々が並ぶ森の中を走って、車は海沿うみぞいの道へ。

 徐々にその先へ、港を中心にした小さな町が見えてきた。


「すげえところだな、バロン」

「なぁに、お前さん達日本人の言葉にあるじゃろ? 住めばみやこってな」

「違いない……俺はまた飛べる、それだけで十分だ」

「で、どうだった? ストレガに抱き着いてのフライトは?」


 ガッハッハ、と豪快に笑いながら、バロンはひじで迅矢を小突いてくる。

 どうと言われると、それはもう天にも昇るような気持ちで、実際に天空をせるほうきの上は夢見心地ゆめみごこちだった。鍛え抜かれた迅矢が抱けば、それだけで砕けてしまいそうな程にストレガは華奢きゃしゃで柔らかかった。

 だが、男として生まれた迅矢は、神様を見送っての帰り道で悶絶もんぜつしたのを思い出す。


「箒にまたがっててあれ、女は痛くないのかよ……俺ぁもうゴメンだね」

「ハッハッハ、違いない! ストレガも長距離を飛ぶ時は、脚を揃えて腰掛けとるよ。そう、あのほっそりとした脚線美きゃくせんびを組んだりしてのう」

「バロン、目がやらしいぜ」

「お前さんものう! ホッホッホ」


 白い魔女は名乗らない。

 ストレガというのはタッグネーム、いわゆる空でのコードネームのようなものだ。

 硝子細工ガラスざいくのようにはかなく、どこかうれいを帯びた表情は芸術のように美しい。そして、彼女は800歳以上も生きてきた本物の魔女なのだ。

 開けた窓から海風が吹き込む中、気付けば迅矢はストレガのことを考えていた。

 そうこうしていると、車はひなびた漁村といった風情ふぜいの中を突き抜けて、一軒の洋館の前で止まる。海に面した三階建てで、酷く古い建物だ。


「さ、ここがワシらストラトストライカーズの宿舎じゃよ」

「へえ……映画のセットみたいだな」

「中身はぼちぼち最新版じゃ。なんじゃったかのう? ハワイ……いや、ワイキキ? そういう環境もあるんじゃ」

「……Wi-Fiワイファイ、かな?」


 大きな門をくぐって、庭のガレージにビートルは入る。

 まるでこれでは、ちょっとしたバカンスだ。

 田舎いなかの港町で、のんびりと休暇……そう思えば、つたの葉が適度に茂った白い洋館も、歴史のあるホテルに見えてくる。

 無論、迅矢に休息などはない。

 あの空で全てを奪った驚異、新しい仲間達がケースDと呼ぶ存在との戦いが始まるのだ。


「さて、千小夜チサヨの奴は帰っているかのう。夕飯前に軽く食べたいとこじゃ」

「……すげえな、バロン。食欲あんのか」

「パイロットは身体が資本じゃからな!」

「ま、そうだな。で、その千小夜ちゃんていうのは――!?」


 確か、バロンが仲間にアニメ等が好きな娘がいると言っていた。その人物が千小夜なのかと思った、その時である。

 またしても仰天の光景が目に飛び込んでくる。

 今日、絶句するのは何度目だろう?

 驚くことに慣れ始めている自分が少しおかしかった。


「バッ、バロン! まただ……あんた、身体が!」

「おお? いやあ、すまんすまん。歳を取るとな、ボケてくるんじゃよ」

「違う……ボケてるとかってレベルじゃねーだろ!」

「うんむ、まあ……どっちかというとボケてるというより、けてる……、かのう」


 古びたかしのドアを、するりとバロンはすり抜けてしまったのだ。

 そう、まるで煙のように開けずに向こう側へと入ってゆく。

 呼び止めた迅矢の声で、再び閉まった扉の中から戻ってきた。


「言い忘れとった。ワシゃ幽霊じゃよ」

「お、おう……そうか、それでフォッケウルフに乗る時も」

「ついつい忘れてしまうんじゃよなあ。便利なもんじゃから」

「でもよ、脚がある!」

「ああ、それは千小夜に初めて会った時にも言われたのう。日本の幽霊には脚がないらしい、ホッホッホ」


 好々爺こうこうやのように笑っているが、バロンは当然のように自分が幽霊だという。霊魂れいこんなので、自分が実体化したい時は質量を持ち、そうでない時は霊体になって漂うことができる。車のハンドルを握ることもできるし、飲み食いも自在だ。

 それで迅矢は、唐突に思い出す。

 現代のパイロットで、その名を知らぬ者はいない。

 赤い男爵レッドバロンと呼ばれた、人類最初のエースパイロット……恐らくそれが彼だ。第一次世界大戦の空を、当時まだ複葉機ふくようきだったフォッカーで支配した真紅しんくの騎士。


「なんてこった……あんたはじゃあ」

「おっと、その名は捨てたわい。今はただの飛行機爺ひこうきじいさん、バロンじゃよ。さ、こっちじゃ」


 バロンは笑って、今度はドアを開いてから入る。

 その背に続いた迅矢は、広いエントランスの天井を見上げた。吹き抜けになっていて、ささやかだがシャンデリアがぶら下がっている。

 隅には、迅矢が自衛隊の官舎から発送した、引っ越しの荷物がまとめられていた。

 新たな我が家は、風情に溢れた雰囲気で迅矢を迎えてくれる。

 そして、昭和というよりは大正浪漫たいしょうろまんな室内の奥から、パタパタと小柄な女の子が走ってきた。


「あっ、おかえりなさいませっ! バロンさん、さっきのサイレン……大丈夫でしたか? わたし、丁度ちょうど学校で授業だったので」

「なぁに、大したことない案件じゃったよ。こっちの若いのが、えらく勇ましい啖呵たんかを切ってのう……聞かせてやりたかったわい」

「まあ……ということは、あなたが霧崎迅矢さんですね? わたし、倉木千小夜クラキチサヨと申します。ストラトストライカーズの一員なんですが、仕事はもっぱらおさんどん、ですね」


 千小夜はおたまを持ったまま、笑顔で頭を下げた。

 長い黒髪をみに結って、眼鏡めがねをかけた少女だ。年の頃は十代、丁度高校生くらいだろうか? 童顔で瞳がくりくりと大きく、とてもかわいらしい印象がある。

 割烹着かっぽうぎ姿も不思議と似合っていて、古き良き日本のおふくろさんの雰囲気があった。


「千小夜や、なんかすぐに食えるもんはできんかね? ワシも迅矢の奴も、腹ペコじゃよ。昼を食いそびれてしまってのう」

「あら、でしたらすぐに用意を。おにぎりとお漬物つけものくらいしか出せませんけど」

「冷蔵庫にビールが冷えてるじゃろ?」

「まあ! バロンさん、まだ日が高いですけど?」

「なぁに、プロイセンじゃあ飲める時に飲んどくもんじゃよ。パイロットなんざ、いつ落っこちるかわからんからのう!」

「ふふ、じゃあ一本だけ。迅矢さんも、お疲れ様でした。ちょっと待っててくださいね」


 柔らかな笑みを残して、千小夜は台所へと行ってしまった。

 なるほど、彼女が宿舎で家事一切を引き受けているのかもしれない。生活力には自信のない迅矢だったが、前時代と言われようがありがたい。温かい飯が出るのも、掃除や洗濯を任せる女性がいるのもだ。

 それが若くてかわいい女の子なので、なにも言うことはない。


「どれ、じゃあ迅矢。お前さんの荷物を部屋に運ぶかのう。丁度空いてる部屋がある」

「あ、ああ。いいぜ、じいさん。あんた、さっき飛んだばかりだろ? 休んでなって。俺一人でも十分だからよ」

「ホッホッホ、若いくせに遠慮するでない。幽霊の身体ものう、存外便利にできておるのじゃ。例えば……」


 よいしょ、とバロンがダンボール箱を持ち上げる。

 そしてそのまま、彼はふわりと浮かび上がった。


「お前さんの部屋は二階、こっちじゃ! 三階は男子禁制、女子の部屋になっとるから気をつけるんじゃぞ」

「お、おう。って、バロン!?」

「先に行っとるぞ、ガッハッハ!」


 ダンボール箱を抱えたまま、するりとバロンは吹き抜けの天井を飛んでいってしまった。案外、あれは幽霊生活をエンジョイしているのかもしれない。

 やれやれと苦笑しつつ、迅矢も一番大きな荷物を持ち上げた、その時だった。


「新入りかい? ……ふぅん、なるほど。心に翼を持ってるじゃないかあ」


 不意に声がして、迅矢は両手でダンボール箱を抱えたまま振り返った。

 そこには、小さな男の子が立っている。

 小学校低学年くらいで、仕立ての良さそうなシャツに半ズボンだ。しかし、幼い声が酷く老獪ろうかいな言葉を伝えてくる。

 そして、彼は確かに言った……


「ま、歓迎するよ。人手は多い方がいい。僕も手伝おう」

「あ、ああ……っと、俺は迅矢、霧崎迅矢だ。元イーグルドライバー、自衛官。お前は?」

「お前などと呼ばないでくれるか? 人間ごときが。心の翼を憎しみでにごらせてるようでは、先が知れる。ま、せいぜい撃墜されないように頑張るんだね」


 少年はヘリオンと名乗った。

 そして、ヒョイと片手で荷物を持ち上げる。力を入れた素振りは見られないし、階段へと歩く足取りも軽やかだ。

 迅矢を人間如きと言うからには、彼は怪異かあやかしか、少なくとも人間じゃないらしい。

 改めて迅矢は、バラエティ豊かな仲間に恵まれたものだと、溜息ためいきこぼすのだった。

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