第12話「水没」
- Say hello to my fate - 12 -
街は、通常有り得ない形で水没していた。空は曇りというより、薄い夕焼けのような、濁ったオレンジ色をしていた。雨は、もう止んでいる。
道路も、田畑も、車も建物も、全て水の中にあった。ダムに埋もれる村…そんな言葉を思い出したが、この状況はそれに近い。
「ちょっと…これ、なに…。」
後ろで彩乃が目を丸くした。無理もないだろう。彼女は自分の車椅子を片手で動かすと、景色を覗き込んだ。
「なんてこと…これじゃ、みんな大変だよ!知らせてきて、はやく!」
彩乃に急かされるまま、俺は冷蔵ルームの中へと戻った。
地震が収まった室内には、直前の張り詰めた空気が戻ってきていた。
"持たぬ者"、"持つ者"、そして星夏の三勢力は、じりじりと距離を詰めていた。
「あんだってェ!?」
事の次第を聞いた竹内が、タバコをくわえ落として叫んだ。
「この…街が…沈む…?」
柚佳が、星夏を庇う手を離した。逃げ場を失くしたように、ペタンとその場に尻餅をついた。
――これはまずいな、力が尽き始めている。おまけに、先ほど膝を蹴飛ばしたあの付き人も、立ち上がりはじめた。
「呪いが暴走してる…あはは、これじゃ…もう、終わりだ…。」
星夏は顔を上げないままそう言うと、顔を手で覆った。ざわざわと、三勢力の中にどよめきが広がった。
さらにくすぶる狂気に火を点けたのは、冷蔵ルームに飛び込んできた男の大声だった。
「大変だ!!急にでっかい地震が来たかと思ったら、一階が水没しちまった!街が飲み込まれるぞ!!」
ワッとあたりに悲鳴が広がって、まず隔離された"持つ者"達がおのおの出口へと走り出した。
どけ!邪魔だ!と他人を押し返しながら、一目散に走る。その先頭に向けて、隊列の一番端にいた"持たぬ者"が鉄パイプを振りかぶった。
「ちょっ!」
俺の飛び出しは、何の意味もない。ガィンという鈍い音がして、先頭の若い男は、声もなく倒れた。
「きゃあああああああああ!!」
狂気。相模原で起きた暴動も、こんなに酷いものだったのだろうか。"持たぬ者"軍の方の男が、耳に障る大きな声で叫ぶ。
「冗談じゃねえ!てめぇらも一緒に、死ね!」
わあわあと、隊列の端と出口に向かう"持つ者"の取っ組み合いが始まった。俺と竹内がそれを止めに輪に入ろうとするが、死ぬ気になった人間は根を張ったように重く、とても俺の力ではどかせない。
俺と竹内の掛け声に気付いた最後尾が、くるっとこちらを振り返ると、俺たちの後ろを――崩れた星夏を指差した。
「あ…ああいつだ!あいつが全部悪いんだ!あんなことしなければああああああ!!」
その声に反応して、三人…いや四人の男女が人垣を抜け出した。咄嗟に足をかけたから、どんな男女かなんて見ていない。気にもしない。
"持つ者"も、"持たぬ者"も、狂乱した人々には関係なかった。まるで火山の噴火のように方向を次々と変えては、イノシシのように突進する。俺は星夏に向けて飛び出そうと立ち上がった男の尻を、もう一度蹴飛ばした。
「おっさん!」
竹内は別の男の腕に、手錠をかけていた。もう片方をプラスチックの板にカシャッとはめると、俺の方を向いた。
「ここはもうヤバい!逃げよう!柚佳!」
柚佳はぺたんと座ったまま、星夏の方を見ていた。チッ、と舌打ちをしてから、竹内に目配せをした。彼も俺を見ていた。目が合った瞬間、怒鳴られた。
「てめェの優先順位は違うだろ!こういうのはな、おまわりさんに任せとけばいいんだよ!」
一瞬、言わんとすることがわからなかった。襲い掛かる人々をキレイにいなしながら、彼は続ける。
「あの子を助けられるのは、お前しかいねェだろうが!!」
別の扉の奥で一人ぼっちの彩乃。誰一人とも"連れて"出ようとはしない、お荷物の彩乃。俺は柚佳の元へゆっくりと駆け寄ると、その体を無理やり起こす。
「ユータ…」
「お前、姉ちゃんを助けにきたんじゃねえのか。今が正念場だ、力入れろ!」
ペチペチ。そう言って、今度は俺が彼女の頬を軽く二度叩いた。柚佳のどこかに行ってしまった瞳に、色が戻った。小走りで戻ってきた竹内が、銃を取り出しながら言う。
「大丈夫だ、若い女の子二人はおまわりさんが保護してやンから、早く行け!」
「いーや、あたしだって戦うよ!お姉ちゃんを守って、お姉ちゃんが作ろうとした世界が変だってこと、教えてあげなきゃ!」
柚佳がそう言って、手元に積まれた鉄のガラクタ――荷物を支える支柱か何かだろう――をつかんだ。俺はふうとため息を一つつくと、星夏の肩をトントンと叩いた。
「なんで…」
星夏が顔を覆う手をどかし、顔を上げた。
「あのなァ…」
竹内がこちらに誰も来ないのを確認すると、タバコに火をつけて、言った。
「世界でお前みてェなのを裁くのは、いつだってオレ達警察・司法だけだ、違ったか?」
柚佳が久し振りに、クスッと笑った。彼女もガラクタをヘタクソに構えながら、言う。
「そうだね、お姉ちゃん。こういう時は、誰も守ってくれない。誰かのせいにしてるだけじゃ、乗り切れない修羅場もあるんだよ!」
ほら、何してんの、と彼女は手をプラプラ振った。シッシッ、と追いやられた俺は、思わず笑って背中を向けた。この場面に相応しくはないが、こぼれる笑みは止められなかった。
「頼むよ!」
そう短く言うと、俺は駆け出した。
「衰弱したおっさんなんか平気だっての!」
という柚佳の声を背中で聞いて、スピードを上げる。何故だか誰もやってこないもう一つの入り口へと、俺は飛び込んだ。
「大変みたいだね、アヤはどうすればいいのかな…。」
後半部分は尻すぼみだ。先ほどから良いとは言えなかった彩乃の顔色は、真っ青になっていた。――これ以上は考えないようにした。
先ほどは窓の下にあったはずの水かさは、いつの間にか窓に差し掛かるか掛からないかのところまで来ている。さあ、どうしよう。どうしようったって、一つしかない。俺は覚悟を決めた。
「え…なに?」
彩乃をゆっくりと、車椅子から下ろす。足は不自由だが動かないことはないので、申し訳ないが俺が支えながら座らせた。これからすることに巻き込まれないように、慎重に窓から離す。
「雄太君…?」
「耳、ふさいでてな。」
俺は彩乃の車椅子を乱暴に持ち上げると、勢いをつけて窓ガラスに向かって投げつけた。ガシャンと長い、ワイングラスと教室の窓ガラスの中間くらいの音がして、水が少し部屋になだれ込んで来た。破片がいくつか俺の足にぶつかった程度で済んだから、彩乃は無傷だろう。
そのまま俺が腰を下ろすと、彩乃は全てを理解した。俺の首に右腕を回して、体重を預ける。背中で持ち上げた彼女は、まるで赤子のように軽かった。赤子を最後に抱いたのは、十五年前くらいだから覚えてないが。
「いっちばん高いところまで、逃げよう。」
彩乃の動かない左手を首に回しながら、俺は言った。戦場となっている向こうの出口から逃げるよりは、この窓からの方が逃げやすいだろう。それにいつだって納得しようがしまいが、彼女はこのように、首を縦に振るのだ。うまく行くかどうかなんて、俺を信じることとは比較にならないようだった。
「うん…おねがい。みんなはいいの?」
「みんな俺たちのために、戦ってるよ。こんなになっても頼れる仲間はいるんだぜ。」
竹内、柚佳、そして星夏、三人が生き残ることを信じて、俺は開けた窓から身を投げた。
割った窓の破片がなかったことが幸運だった。
少しずれた彩乃の左腕を直す。右腕はしっかりと、力が込められていた。
俺は沈みそうな体を懸命に踏ん張って、どうにか腕で水を掻き進んだ。これでどこまで行けるかわからない。途中で力尽きても、誰も俺を恨まないでほしかった。
「だいじょうぶ?」
彩乃の声は少し楽しそうにも聞こえた。うん、なのかあぁ、なのかわからない声で、返事をする。
「お前こそ、あんまり体調良くないだろ。」
彼女の体調の悪さは、何か穏やかな空気を伴っていた。それがじいちゃんの晩年と重なって、すごく怖くなった。
彩乃という人間と、その人間の死を俺は接続できない。たとえ彼女が脳挫傷で運動麻痺だとしても、いつだって屈託の無い笑顔で俺の愛情に答えるその姿からは、絶対に繋がらない、繋げられない事象だった。
「しょうがないよ…もともと…だもんね。」
うぅっ、と後ろで彼女が水をかぶった。勢いをつけすぎたことに反省しながら、俺は慎重に水を掻いて行く。
「星夏はね、」
水をぷるぷると弾いて、口を開いた。眼下にはT字路が映る。川も橋も土手もそこに生える植物も、すべてが下にあった。一部、はぐれた草木が浮いてきているものの、まるで空を飛んでいるような気分だ。その気分は、恐怖しか運んでこない。
「あの子は悪くないの。ただちょっと、頑張りつかれただけって言うか…頑張り方を知らないんだよね。アヤもなるべく、言わないように気をつけちゃったから、責任あるよ。」
「そんなこと、ねえよ。」
泳ぎながら喋るのは、幾分きつかった。浮き上がってきた木に手を伸ばして、ビートバン代わりにする。地震で倒れてしまったものだろう。
本当にそんなことはない、と俺は思っている。頑張り方を知る機会を逃したとはいえ、彼女は既に二十二歳。高校だって卒業している。人としてのノウハウは、体で覚えているはずだ。
「地震が起きるちょっと前にね、病室にアヤを尋ねてきて、『行こう』って言ったの。何のことかわからなくて、一緒にいた男の人は怖かったけど、星夏がいたから大丈夫だった。」
どうやら星夏は、ホーラスとして呪いを発動する前に、彩乃を安全な場所へ隔離したらしい。親友らしい、いかにも甘ったれたセリフだった。
彩乃の言葉は、ゆっくりと、そして段々と小さくなってきた。体力が、危ないのかもしれない。川と民家を横切って(ビートバンは浮き木から、トタン屋根の破片へと変えた)、俺はとにかく『高いところ』を目指した。
この辺りは低地なので、陸は見当たらない。市街地のほうまで――駅のそばにある中学校辺りならば、なんとかなるかもしれない。
市街地へと続く長い上り坂もやはり、既に水に飲み込まれていた。俺は疲れてたまらず、空を見上げた。相変わらず空は、濁ったオレンジ色をしている。
そろそろ手と足が思うように動かなくなってきた。後ろで彩乃が、さっきよりもかすれた声を出す。
「雄太君、いいよ、アヤを置いて、戻って。もう、大丈夫、だから、ここなら、危なくないよ?」
一呼吸おいて言葉を分ける彼女がとても痛々しかった。体力を奪われてるのは自分だけでないことを再確認して、俺は奮起する。
「バカやろう、たまには本音で喋りやがれ。お前は俺の彼女であって、操り人形じゃねーんだぞ。」
それに、俺は星夏に言ってしまったのだ。やれば俺たちでも意外と出来たって。初日の、走り回った事を思い出した。こんな事だって、俺になら出来る!
意気込みに反応するように、観念した彩乃が俺に巻きつけた腕に力を込める。震えているのが、背中の感触でわかった。
「……生きたいよ…。」
久し振りに聞いた彩乃の泣き声で、頭に電撃が走ったような気がした。わかっていたとは言え、入院生活の長い彼女の"願い"みたいな物が、すごいオーラを出している。
「よしきた!」
俺は泳ぐ足に力を入れて、ビートバンにしていた屋根を離した。漂流したどこかの海みたいな景色から、だんだんと陸地が見えるようになった。一番高そうなところに、俺たちの行っていた中学校の校舎がまるまる見える。少し遠いが、なんてことはない。
あそこならば、保健室あたりにベッドでもあるだろう。ゆっくりと彩乃を保温したら、寂しくないようにパーカーとお茶の一つでも入れて、仲間を助けに行こう。
最後の坂の頂上に手をついて、俺は久し振りに水から上がった。彩乃は既に、転がるように陸へと揚げてある。
思わずああああっと息が漏れた。体中がビシビシと音を立てて、痛みが駆け抜けた。
あと数百メートルも歩けば校舎の中に入れる。よく見るとあちこち割れたガラスがあるものの、建物そのものは無事のようだ。あれなら、保健室の備品も使えるはずだ。
「もうちょっとだぞ!」
背中におぶろうと取った彩乃の手は、氷上みたいに冷たかった。
思わず俺は顔を覗き込んだ。丸い目は半分も開いていない。息は小さく小刻みで、唇はパクパクと俺に何かを訴えていた。
「彩乃!」
俺は彼女の両手を握り、何か言いたげな口に耳を当てる。俺の手も相当に冷えているが、彩乃の手を冷たいと感じるということは、俺の手の方がまだ温かいということだ。
「ごめ…ね、ありがとう、…めん、ね。」
ほとんど声にならないようなヴォリュームで、彼女は確かにそう言った。俺のドライアイを貫通して溢れてくるそれは、この洪水とは何の関係もないものだ。
俺の涙が顔に落ちるのも気にせずに、彩乃は口を動かし続ける。彼女は言った。『話したい事がいっぱいあった』と。いいよ、全部、全部聞いてあげるから、もう少し元気を出してくれ。
「久しぶりに、わがまま、を、聞いて、くれないかな。」
条件反射で頷いた。何度も、何度も。聞き間違いのないよう、俺は彼女の首に腕を回して、ぴたりとくっつけるように、耳を当てた。
「いきて、いきて、あと、せいかと、みんなを、たすけて。」
「うあっ――」
嗚咽が聞こえたのは、俺の喉からだ。彼女は、あろうことか俺や星夏の心配をしていた。元気なら一発ひっぱたいてやろうと思ったが――いや、元気であっても泣くだけだと気付いた。
ピクピクと震えながら、彼女の腕が動いた。俺の顔でも触るのかと思ったら、よりによって親指を立てた。
「ゆー、きゃん…どぅ、いっ――」
そう言って、彩乃の手が胸の上にドッと落ちた。俺は彼女を抱きしめながら、声にならない叫びをあげていた。
「ああああああああ――――!!!」
彩乃の口から耳を離した瞬間、自分でも聞いたことの無いような悲鳴が溢れた。いつの間にか閉じた彼女の目の上に、涙がボタボタといくつも落ちた。
俺の腕が勝手に動いて、彼女の胸の上に重ねて置かれた。そこに力を入れようとして、やめた。そういう問題でないことを、本能は覚えていた。そしてどこかで理性を保っている自分に、めっぽう腹が立った。
「くそッ!」
くたくたなタコのようになった彩乃の体を抱き上げて、早足で俺は歩いた。校門の前で彼女を後ろにおぶせて、左手と足で乱暴に学校のドアを攻略する。
保健室をざっと見た。キレイなほうのベッドに向かって、踏み出す。痛いものをいくつか踏みつけたのも気にならない。スニーカーがあるから、どうせ大した傷にはならない。
キャスター付きのベッドが乱暴に引き出されていた。その上に彩乃を寝かせて、俺はしばらく彼女の小さな胸の上で、彼女の手を握って泣いた。とにかく、溜まった涙をすべて出し切るまで、泣いた。
今まで俺がダラダラしながらも生きていたのは、心の隅で考えなくてはならないこいつの事があったからだ。ほんとうに彩乃は、俺の"希望"だったのだ。その"希望"が、頼んだことは二つ『生きて』と『星夏を助けて』だ。
ならばどちらも叶えてやろう。俺の希望がお前だったように、お前が俺に託した希望を叶えてやろう。
どれくらいの涙を流したかわからないが、とにかく涙は止まった。何もする気分になれなかったが、衣服のまま横たわる彩乃を見て、棚から厚めの布団(棚が無事だったので、ほこりなくキレイだった)を取り出した。これなら、寒くないはずだ。性別を考えると、体を拭くのはためらわれた。
「…よし。」
いってらっしゃい、あなた。という彩乃の声が聞こえた。そういうものを信じない性質の俺は、振り返らないまま手を挙げた。
「行ってくるよ。」
俺は校舎を出ると、さっきより幾分か水かさの上がった街を睨みつけた。動かすたびに痛む腕や足を一発ずつ殴ると、ザブザブと音を立てて、元の沈んだ街へと飛び込んだ。
往路より体が軽いことに、今は涙しか出なかった。
沈んだ街をバシャバシャと急いで泳ぎながら、頭をよぎるのは全て、彩乃との思い出だった。
中学の時の出会いから最後の言葉と顔まで、順不同で流れてくる思い出がイヤで、何度も潜って泳いでは水面へと帰る。
水かさは道路に立つ電柱の高さを越えている。このままでは、あの建物も危険だ。
川沿いに浮かんでいた例の家のトタン屋根を再び持ち、俺は目一杯に足を動かした。
彼女とは以前にも、一つ約束したことがあった。
家族で事故に会い、父親は亡くなった。母親は奇跡的に生き延びたが、今でも通院を続けている。
そして長女の彩乃は、脳挫傷を負った。手術で命は取り留めたものの、目覚めた彼女の左手と足が満足に動かなかった。
一人で夜中に泣いていることが見え見えだったので、彼女の病室を去る直前に手を握ると、こう言ったのだった。
「大丈夫。俺がお前の手足になるから。何かが食べたいときでも、どこかに行きたい時も、必ず俺を呼びな。」
結局、叶えてやれない時の方が多かったが、今なら、さっきのわがままとまとめて聞いてやってもいいぞ。
とにかく、ひたすらに俺は泳いだ。体育の授業の成績も関係ない。トタン屋根で手首を切っても、割れた何かの破片が足に当たっても関係ない。
今は、目指す場所がある。そしてそれはもう、目の前まで迫ってきている。運送会社の屋上に、いくつかの人が見えた。霞んでくる視界を、唇を噛んで元に戻した。俺が、やらなくちゃいけないんだ。
「ほらな、やっぱり帰ってくンだよ。」
息も絶え絶えで屋上に揚がる俺に、竹内が言葉をかけた。トーンが優しいから、すごく安心したのだろう。そうやって言う竹内もまた、息は絶え絶えだった。
「ちょーっと相手にしすぎたが、何てことはねェ。昨日模擬戦もやったンだしな。」
死者一人、負傷者うんたらのどこが模擬戦なんだ、という無粋なツッコミはしなかった。彼はきちんと、俺が今守るべき二人――あちこちすりむいている柚佳と、地面に膝を落とす星夏を後ろにして戦っていた。
「ユータ…!」
「天野君…。」
二人とも、安堵と驚愕の混ざった顔をしていた。俺だって出来るんだぜ、と親指を立ててから、竹内の前を見た。まだ五、六人の男がいる。
いずれも"持たぬ者"の側で見た男だった。ということは、残りは全滅もしくはこの下か。――この下ってことは、すなわち全滅と同義だ。俺は歯を食いしばった。
五、六人のうちでも、半分くらいは満身創痍に見えるから、おっさんの敵じゃないだろう。見渡す限り、動けるのはこの十人足らずだけのようだ。残りは壁にもたれるか、倒れている。そろそろ、決着だな。
「おい、姫織!」
俺はその男を向いたまま、星夏に叫んだ。また熱いものがこみあげてきた。この言葉を言うのに、すごく勇気が必要だった。
「彩乃は死んだ。かついで中学校まで行ったんだけど、彼女が耐えられなかった。」
そんな…と甲高い叫びを上げたのは、柚佳のほうだ。星夏は嗚咽をこらえることもせず、その場に再び泣き崩れた。
「泣いてる場合じゃねえ!」
俺は彼女を振り返った。後ろから襲われたって、今の俺には何も関係ない。そう思えた。
「アヤああああ!」
フルフルと震えながら、星夏はさっきとは逆に声を上げて泣いた。柚佳が隣でヘナヘナと壁にもたれる。俺は構わず、続けた。
「さんざ泣いたのに、まだ涙が出るんだよ。俺は彩乃の最後のワガママをきくために、帰ってきたんだ。」
後ろが気になって、竹内の方を向いた。どうやら竹内も相手の連中も、俺の声を聞いているようだ。
星夏が声を殺して、俺の顔を見上げた。その目を見ながら、一字一句、そのまま彼女の希望を代弁した。
「生きて、あと、星夏と皆を助けて。」
「―――っ!」
そこで星夏は限界だった。さらに追い討ちをかけるように、涙声の柚佳が姉の背中を叩く。
「お姉ちゃん…わかった、でしょ…?皆を苦しめても何も生まれないの、生まれないんだってば…。」
「それでも…それでも!」
星夏は手を開いた。先ほど俺がバラバラに砕いた水晶の塊が出てきた。中に、長い緒でジャラリと繋がれた勾玉が入っていた。
「わたしには、これしかなかったのに!」
こんな状況を引き起こしてもまだ、オカルトにすがる星夏についに俺の何かがキレた。彼女のローブに掴みかかって、ぐいっと寄せる。
「ユっ――」
『いい加減にしろよ!』
あばらに響いて痛くなるほどのヴォリュームで、俺はシャウトした。星夏が顔をしかめようが関係ない。
「俺は知ってるぞ。お前はすでに、"この世の中でもやっていけるはず"って希望を持ってんだ。元々お前だって"持つ者"なんだよ!お前が本当に望んだのは"世界を壊すこと"じゃない。お前が"頑張れる"やり方を見つけることだったんだ!本当は失敗したって、わかってんだろ?もう一つ、お前はわかってた。この願いが悪い願いだってことだ!そうでなければ、道に溢れた死体を見ながら、あんな悲しい顔はしねえ!あれは、人の痛みや希望、やっていいこととやっちゃいけない事を知ってる人間しかできない顔なんだよ!元からお前はあの世界と付き合う準備をしてたんだよ!ただその期間が、うんと長かっただけなん――あれ?」
ペラペラと口をついて出る言葉の途中に、俺は激しい耳鳴りに襲われた。
「いってててっ。」
慌てて頭を覆う。すると一瞬で痛みは消えた。柚佳も竹内も、そして星夏も何が起きたかわからずに俺を見た。
もう一度彼女の胸ぐらをつかんで引き寄せた瞬間、今度は頭の中をぜんぶ支配していくような耳鳴りに襲われた。その時、俺は何かを思いついた。そしてそれは、とてつもなく下らないものだった。彼女の胸ぐらを引き寄せていた手は、左手だ。
ふっ、と俺の口元が緩んだ。地震が起きてからこれまでの出来事が、走馬灯のように駆け巡る。それを打ち砕くように、俺は左手を伸ばして、ホーラスの――星夏の胸の真ん中に触れた。
「え――」
「な――」
「ちょ――」
耳鳴りは、さっきよりも強く、俺の頭をぐわんぐわんと揺らすように駆け巡った。星夏の抵抗を手で静止して、俺は彼女を押すように、左手に力を込めた。手首の方に感じる柔らかい感触を、頭をカラッポにして、出来るだけ無視する。
俺の耳鳴りに連動するかのように、星夏が手に持った勾玉が激しい光を放った。しかし誰も目を背けることをせず、"持たぬ側"の連中でさえも、いつしかそれを見守っていた。
激しい光は波紋を描くように周りに広がり、それに合わせて海と化した水面も光りはじめた。いつしか濁ったオレンジ色の空も、周りの景色も、全てが真っ白に包まれた。
仲間の姿も、敵の姿も見えない。ただ一つ、手で触れているからわかる星夏に向かって、俺は今確信していることを言った。
「世界が、戻るぞ。大丈夫だ、お前の行動力はベクトルが違っただけじゃんか。ちゃんと、元の世界でもやっていけるよ。俺も、がんばるからさ。」
言い終わるか終わらないかのうちに、いつの間にか俺の目は閉じていた。手の先に感じる感触も、もうない。
いつの間にか目が閉じていた、ということがわかったのは、目を開ける、という動作があったからだ。気付くと、俺はどこかに寝転がっていた。空が見えないから、あの屋上ではない。
目だけを動かして情報を得ていく。俺は窓から射す強い光を浴び、慌ててうつ伏せになった。前にもこんな事があった、と思い出した。
うつ伏せになって気付いたが、すごく柔らかい感触――自分の、布団だ。
それを確認すると同時に起き上がる。少し懐かしくも感じる、窓、布団、事務机、パソコン、ゲームにテレビ。天井は歪んでいないし、壁にヒビも入っていなかった。
「夢…かよ…え…?」
急激な脱力感と共に布団に突っ伏そうとしたとき、右手が目に入った。激しく焼け爛れて、皮がベロンと剥けている。
もう一度起き上がって、足を見た。ところどころ切った傷が、カサブタになっている。思わず笑って、しゃあと叫んでしまった。俺は、帰ってきたのだ。自分の部屋に、帰ってきたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます