第10話「出陣」
- Say hello to my fate - 10 -
最後…になるであろう、朝を迎えた。別に今日死ぬとか、そういうわけではないが。
今日は丁寧に顔を洗って、三人分のトーストと目玉焼きを焼いてみる。午前九時半…"日常"の俺からすれば、早すぎるぐらいの時間だ。
竹内も柚佳も、客席でまだ眠ったままだ。途中で二度、おっさんと交代したのだが、最後の晩は特に積もった会話もしなかった。それが男と男が背中で語っているような気がして、少し照れくさかった。もっとも俺の背中は、彼のように逞しいとは言えないが。
いつもより長めにドリップしたコーヒーを持って、俺はキッチンを出た。
「これはやっぱり、目玉焼きをパンに乗せてから、目玉焼き、パンの順番で食べるべきだよね!?」
寝ぼけまなこをキラキラさせながら柚佳がトーストを手に取る。やれやれ、と俺は視線を竹内に向けた――思わず笑ってしまう。
「おっさん、好きなんだな。」
「悪ィかよ。もう、クセなんだ、これ。」
ペロッと既に平らげた目玉焼きを追いかけるように、パンを放り込んでいた。ちなみに俺の食べ方は、乗せたまま噛み付く。それだけだ。
夜明け前からあいにくの雨が降ってきていた。パツパツと窓ガラスを叩く音がする。四月の雨だから、きっとしばらく止まないだろう。弱まった瞬間さえ狙えれば、それでよかった。
食器を片付けることもせずに、俺たちはぼんやりと外の景色を見ていた。本当なら、土砂崩れや落盤を気にしたいところだが、頭の中は今日のことでいっぱいだった。
ホーラスに色々聞きたいこともある。もしかしたら、争わなくちゃいけない事態にだってなるかもしれない。
それでもよかった。彼女が知り合いとわかった以上、俺も遠慮はしない。なんとなく、殺されたりはしないだろう。そうも思った。
「いいのか?」
二本目のタバコを消しながら、竹内が柚佳を向いた。景色に目をやっていた彼女は、ゆっくりと視線を戻すと、二度、頷いた。
「だいじょぶ。ひっぱたくのはあたしの役目だよ。」
彼女はどちらかと言うと本番には強いタイプだ。実の姉を諭すという点を天秤にかけても、五分五分と言ったところか。
窓ガラスを叩く音は、いつしか弱くなっていた。俺は最初に立ち上がる。
「じゃあ、行こうか。」
「車があったんなら、地震が起きたときから使えばよかったんだ。もっと市の端の方の生存者まで探せたのに!」
シートを目一杯深くしたパトカーを運転する竹内に、俺は道を指差しながら言った。半分は、地震直後に数時間かけてあちこち走り回った俺の単なる嫉妬だ。
「地震直後の運転は得策じゃねェ。小回りの効く徒歩が一番いいんだよ。相模原に行くって言うから、署から引っ張り出して来たんだ。」
なるほど。四輪車に乗ってみるとわかるが、道が予想以上に狭い。道路の割れている部分や木や建物の倒れこんでいる部分を避けるのに適していた原付とは、わけが違った。
そして案の定、長い下り坂の直後に車は止まった。昨日徒歩で来た、星夏の住むレオパレスが左手に見える。
「こりゃ、無理そうだな…。」
そう言って竹内が車を降りたので、俺も続いた。
目の前で陸橋が陥落していた。自動車専用道路を飛び越えるそれを渡らないと、星夏のいる倉庫街へはたどり着けない。
特に理由もなく、陸橋に向かって俺は歩き出した。雨はサラサラと、少しずつ俺の短い髪を濡らしてくる。
「おい。」
竹内の止める声も聞かずに、陸橋として残った坂ギリギリまで行ってみた。当時夜の九時頃だった自動車専用道路は、まだ車が多かった。
止まった、あるいは壁にめり込んでいる車の中までは見えないが、中はおおよそ察しが付く。――うちの車の中と一緒だ。
車の方に戻ろうとしたとき、その専用道路の側道へと続く道の上で、やや年のいった女性が倒れているのが見えた。
これまで倒れている人すべてに目を背けてきたのが後ろめたくて、思わず近づいた。きっと、降っている優しい雨のせいだ。
「死んでンよ。」
「わかってんよ!」
振り返って竹内に叫ぶ。女性は手に赤い綱を持っていた。先が切れてるから、その従者――たぶんには犬だろう――は既に去った後か。
辺りを見回して何も無いことに舌打ちをすると、女性の肩から腕を入れた。そのままズルズルと引きずって、陸橋の坂を屋根にした下にもたれさせる。
「濡れたままじゃ、さすがに可哀想ですよね。」
返事の無いことをわかっていながら、呟いた。申し訳なく早足でパトカーに戻ったが、竹内の舌打ち一つでどうにか許してもらえそうだ。
さっきからレオパレスの誰もいない真っ黒な部屋を、子供のように見つめ続けている柚佳を見ながら、俺は言った。
「インターチェンジの方の陸橋から行ってみよう。」
既に竹内は、その側道へと向けてハンドルを切っていた。
二つ目の陸橋は、ヒビが入っていたのを俺が指摘する前に、竹内が猛スピードで通過した。
ちゃんと向こうまで渡れた事に安堵する頃には、既に車は元のルートへと戻っていた。
「はァ…生き残ったか。」
「保証なかったのかよ!」
後ろで柚佳が叫んだ。もう一つため息をついて、彼はアクセルを踏んだ。
川沿いの道路を走る。雨が降っていても、まだ流れは穏やかだった。これがホーラスの機嫌次第で、氾濫するというのだろうか。
とてもそうは思えなかった。俺が変になるぐらい、この雨も、その川の流れも優しかったのだから。
「ここだよな。」
竹内は(警察官にも関わらず)ほとんどの交通整理を無視して、テレビの映像で見た場所の敷地内に車を乱暴に止めた。
会社のロゴと、星夏の勤め先のロゴが同じように並んでいるから、ここで間違いないだろう。ほぼ三人同時に、車を降りた。
俺たちが入ってきた道をゆっくりと走ってくるセダンが見えて、俺は何か違和感を感じる。その車を見ながら言った。
「あのさ…。」
ずっと気になっていた事があった。優しい雨は、三人の肩に小さな水玉模様を作っていく。
柚佳とTVKに偵察に行ったとき、俺は偶然にもホーラスと邂逅してしまった。その時彼女は、『残り物を始末』と言ったのだ。竹内にも話してあるし、柚佳もダンボール箱の中でそれを聞いたはずだ。
「残り物、が隔離した"持つ者"の事だとしたら、すごく彩乃のことが気になるんだ。何となく危ない気はしてないんだけど、万が一ってこともある。」
彼女の心変わり…自棄に近いものを起こされてしまったら、俺はこのモチベーションを保っていられる自信が無い。
堂々と正面玄関に立って、俺が一番最初に中へと入った。正面の部屋に大勢の人が集まっている。――雰囲気で感じ取ったが、どっちかって言うと多分あれは"持たぬ者"のほうか。左手には小さな廊下が続いていた。
ここで俺は、先ほどの違和感を解決した。俺たち以外で生きて動いている人が久し振りで、慣れなかったのだ。
ドアを開けて、会釈をしながら正面の部屋に入る。ガヤガヤと騒がしい室内が少し静かになって、痛いほどの視線を感じた。警官と若い男女、"希望を持たぬ者"といえば、中々そぐわないメンバーだと今気付いた。それが堕落警官、ニート、そして元凶の妹ということさえなければ。
入ってすぐが受付カウンターになっていて、その奥は事務所になっていた。ということは、ここが集合場所か。
「よし、俺と雄太は手分けして冷蔵ルームを探す。姫織はここで、なるべく奴らから離れて待ってろ。」
竹内が小さな声で言った。威嚇か何かだろう、自分の警帽を柚佳に渡した。彼女は喜んでそれを手でクルクル回している。持たぬ者の集団をチラ見する限り、どうやらなかなか効き目がありそうだ。
「ありがとうな。」
俺は竹内の背中を小突いた。無理やり俺から顔を背けた竹内を差し置いて、廊下の一番手前にあった急な階段の手すりに手をかける。
「無理すンじゃねェぞ。」
大きく二段飛ばしで上がった時、彼がぼそっと呟いた。お互いに、と短く言って、俺はダッシュで階段を昇った。
トイレと非常口の看板のあるドアを省いて、俺はただ一つ何の看板もないドアを引いた。
部屋の真ん中に机が向かい合わせて五つ、置いてある。ということは、これも事務所か。その机の一つに、男が突っ伏している。顔は見えないが肩幅が広いので、ホーラス側の人間だと直感した。
部屋の左にはもう一つ部屋があって、倒れた自販機とテーブルがいくつか置いてあった。どうやら休憩スペースのようだ。中に何もないので、俺はそちらに背を向けた。
ゆっくりと部屋を見渡す。ロッカーが十個ちょっと置いてあり、出入り口は俺の今入ってきたところと、すぐ右手にあるアルミ製のドアだけのようだ。
男は突っ伏したまま寝息を立てている。そいつを起こさないように、俺はそのドアを開けた。
ドアの先は畳二つ分くらいの奥行きしかなく、横幅はない。奥の壁が銀色なだけで、一体全体、ここが何なのかもわからなかった。
慎重にドアを閉め、念のため会釈をして俺はその部屋を出た。
「ユータ!」
「しっ。」
何かが目の前に飛び込んできた。声で柚佳と確信したので、俺は口の前で指を立てた。
「何もなかったよ。中でいかつい奴が寝てるから、気をつけろ。」
「冷蔵ルームの入り口は二つあって、ここにもあるみたいだよ?」
「何だって?」
柚佳がうんうんと頷いた。
「あの人たちは入るなって言われたみたい。それに特殊なロックらしくて、出入りもできないみたい。」
特殊なロック、と聞いて俺の左手がピクッと動いた。それを見逃さなかった柚佳が、また一つ頷いた。
「ユー・キャン・ドゥ・イット。」
俺はその部屋へと向き直った。
銀の壁――冷蔵ルームへと繋がるドアに触れた瞬間、思わず顔をしかめた。
耳鳴りは何度くらっても結構癪に障るものだが、この時ばかりはさすがに口元が緩んだ。
「道を開くためのものだからな。」
うん?と首をかしげる柚佳を尻目に、俺は呟いた。
「初めて見せてやるよ。俺の開錠能力をさ!」
ピーーッと音がしてから、ガーーッと銀のドアは横にスライドした。足早にそのドアをくぐって、思わず身震いした。
とにかく寒い。雨に濡れた肌が、ひんやりと冷めていく。ずっといると、風邪を引いてしまいそうだ。
寒い上に、ものすごく広かった。床がコンクリでなく芝なら、野球でもサッカーでも出来そうだった。
「これが…冷蔵倉庫?」
「さむぅ…。」
後ろで柚佳が呟く。俺は手をもんで歩き出した。
荷物――食材か何かわからないが、とにかくプラスチックの板の上に積まれた箱だ――と荷物の間をくぐり抜けながら進んだ。奥行きがあったが、部屋の奥の方に人だかりが見えた。
いつの間にか柚佳が出遅れている。しかし今の俺は、それにかまっていられる時間はなかった。
広い部屋の左手にはエレベーターと、それからもう一つドアがある。冷蔵ルームがあるってことは、冷凍ルームもあるのだろう。もしかしたらそこに。中のことは考えたくなかった。
エレベーターの手前ではゴゥンゴゥンとうるさい音を立てて、何かの機械が作動していた。タルみたいな形で、ワインを足で踏んで備えの蛇口から搾り出すあの機械に似ていた。
「おい…あんた…。」
スーツ姿の中年の男に話しかけられたのを、俺は完全に無視した。視線を浴びるのも気にせずに、人と人の間を真っ直ぐ抜け、その隅を目指す。
車イスに座ってこっちを見ているショートボブと目が合ったとき、思わず瞳が潤んでしまった。俺はドライアイだから、急に涙は出ない。
「あ…」
ゆっくりと近づいて、目の高さを合わせる。頭を二度慎重に叩いてから、思いっきり抱きしめた。
「彩乃…よかった…生きてた…。」
「雄太君…雄太君だぁ…。」
病気の治療中の上に冷蔵倉庫に放り込まれて数日、最後に会った日よりも、幾分声がかすれて聞こえた。自分の方がよっぽど怖かっただろうに、あろうことか彼女は、俺を心配してきた。
「地震怖くなかった?話したいことが、いっぱいあったんだ。あっちのメール見てくれたの?」
「メール?」
俺は思わず聞いてしまった。"あっち"と言うことは携帯ではない、普段は、動画サイトを見るくらいしか開くことのないパソコンのほうだろう。ちなみに、最後にパソコンでメールボックスを開いたのはいつだったか、覚えていない。
「ううん、何でもないの。雄太君が会いに来てくれたから、いいんだ。あったかいね。」
薄手のパーカーの中に手を入れながら、彩乃が呟いた。動く方の手だから、右だ。その手はひんやりしていて、冷蔵庫にぶち込まれた恐ろしさを放出していた。
パーカーのジップを全て下ろし、彩乃に前からかぶせる。それをギュッと抱きしめるのが右手だけなのが、久し振りの痛々しさを思い出させた。
「そうだ、星夏に会わなかったかな?雄太君が生きてたって、知らないみたいだから。」
俺に両手で手を包み込まれながら、彼女は言った。心なしか、顔色が戻ってきたような気がする。
「姫織も生きてたのか。」
初めて知ったように、そしてホーラスは星夏だと確信して、俺は言った。知り合いを信じる最後の一線が今、断ち切れた。柚佳は柚佳と呼ぶが、それと対照して星夏を星夏とは呼んではいなかった。しばらく会わない今となっては、関係のないことだ。
周りの視線はずっと俺に向いていた。俺が彩乃ばかりに夢中になってしまったが、よく周りを見渡すと、テレビの映像よりも七、八人程少なく感じる。――ということは、"始末"されたんだろうか。
それを思い出して、自分の理性を取り戻しつつあった。彼女の手をギュッと握って、ずれたパーカーをかけなおした。
「それじゃ、探しにいこうかな。車イス押そうか?」
「いいの、アヤはここで大丈夫。あの人たちは、アヤに見向きもしないから…。何か気になるんだね?行ってきて。」
彩乃の気遣いに、さすがにドライアイも負けた。俺はこくこくと涙を拭いながら頷くと、もう一度彼女を抱きしめて背中をトントンと軽く、叩いた。
「ゴメンな、ちょっと待ってて。」
「いってらっしゃい、あなた~。」
入り口に向かって歩き出す間、俺は振り返らなかった。振り返ったら、寂しいのを抑えておどける彩乃から離れられなくなってしまいそうだったから。
「ちょっとー!」
冷蔵ルームの入り口に響く声に、俺は猛ダッシュした。
荷物の間を飛び越えたとき、プラスチックの板を掴んで抵抗する柚佳が見えた。もう片方の腕は何かに引っ張られている。
もう一つの荷物を抜けて、その腕の主を見つけた。――さっき寝てた男か!
男の身長がそれ程高くなかったのを決め手に、俺は柚佳と男の間に飛び込んだ。そいつが初めてこちらに気付くその頃には、既に俺の拳が鼻にヒットしていた。
こっちを向かなければ当たらなかったのに!男がよろけて、手が一瞬離れた。そのスキに柚佳が抜け出し、乱れた肩を直す。
「んだてめぇ!」
顔を抑えながら物凄い形相で俺を睨む。俺も、もう怯むことはなかった。
さっきのパンチで吹っ飛ばなかったあたり、非力さが目に見えている。だがそんなことはどうでもいい。大事なのは、柚佳から注意をそらすことだったから。
腰が引けて荷物にもたれたままおどおどしている柚佳を尻目に、今度は俺が男に捕まった。抵抗できず組み倒される。
そのまま、キツいのを何発か喰らった。前にくらったおっさんの制裁は、生易しいものだと痛感した。俺はケンカ慣れはしていない。
どこが殴られたのかわからないぐらいの痛みが顔中を駆け抜ける。口の中は血の味しかしないし、呼吸が満足にできない。必死で何かを掴もうとする手は、空を切っていた。
急に、男の手が止まった。冷蔵ルームの空気が、口からこぼれた血を乾かしていくのが気持ち悪い。
そのまま男は俺の横へドサリと倒れた。動く気配がない。何が起きたかわからないまま、俺は起き上がった。
「大丈夫か!?」
声に振り返った。エレベーターがいつの間にか上に開いていて、竹内のおっさんが銃を構えて立っていた。その後ろにも、誰かいる。
男を撃ったことは考えないようにした。膝に手をついて息が切れているから、何も答えられない。代わりに血の味のツバを二度、そばに吐いた。
ようやく動けるようになった柚佳が、慌ててハンカチを当ててくれた。竹内が後ろの誰かを振り返って、容赦なく言う。
「悪ィな?だが、構わねェな?」
「ええ、かまいませんとも。秩序を乱す者は、不要ですから。」
その声に俺は顔を上げた。柚佳も俺と同じ場所を見た。
クリプトン・ガスを使っていないから、二人とも聞き覚えがあったのだ。
「やっぱり…お姉ちゃん。」
柚佳の最後の一線も、今断ち切られたようだ。ローブを纏ったフェイスマスクの女、占星術師ホーラス――もとい<姫織 星夏>がそこにいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます