第7話「情報」

国道一二九号線は右へ左へだけでなく、上へ下へと、起伏の激しいでこぼこ道になって俺達の前に立ちはだかった。

とは言っても、倒れた建物をいちいち進路変更で避けねばならないこんな道路は、"国道"なんてご大層な名前で呼べるようなものでもない。

あれから俺達は一旦自宅に戻り、奇跡的に生き残っていた原付を引っ張り出しエンジンをかけ、平塚方面へと道路を下りに下っている。

両側に書店やアミューズメント施設…跡…の並ぶ区域を抜けると、倉庫街が視界に入ってきた。もしかしてこの中に、彩乃がいたりするのか?

「二人乗りなんて今じゃなきゃできないよねー。」

後ろで柚佳が楽しそうに言う。二輪の後ろに女の子を乗せるのは、俺の小さな夢だった。原付は一人乗りだから彼女さえ乗せたことがないのに、なかなかしくじったなぁ。

「おまわりの目を盗めば、いつでもできるけどなー!」

エンジン音に消されないよう、俺は声のヴォリュームを上げて言った。

「わたしは就活生ですぞー、内定取り消しになっちゃうよ。」

正直、この状況に内定もクソもない、と思った。"この状況"がいつまで続くかは、わからないけれど。


- Say hello to my fate - 7 -


この状況で道路交通法もクソもない。俺はフルスロットルで道路を直進し、すべての交通整理の方法を無視して、TVKのビルの隣にあるコンビニの前に原付を止めた。

TVK――テレビ神奈川・平塚支社のビルは、駅のロータリーから見て右向かいに聳え立っていた。何階建てなのか数える気もしないほど――というより、意地か競争かと思うほど――現代の建物は縦に長い。

やや傾いている(それが目でわかる、というのは大問題だ)。…二○一○年に建てられたビルとは言え、あれだけの大地震で無傷、というわけにはいかないらしい。

この分だと、都内のどでかいガラス張りの大学だとか、絶賛建設中の何たらツリーもわからない。上にスペースを求めていく文化は、人間に破滅しかもたらさないのではないだろうか?

「うわぁ…斜塔、みたいだね。」

ヘルメットを外すのに手間取って、やっとの思いでハンドルにそれを引っ掛けてきた柚佳の第一声はそれだった。

「なんとなーく、中も想像つくな…パンプスじゃなくてよかったな。」

彼女はまだ、俺のスニーカーを履いている。俺は裸足のままだったので、原付を拾うついでに廊下にばらまかれた適当なものを失敬してきた。

失敬した、という言い方にしたのには理由がある。一応自分のものと思って履いては来たものの、有名なシリーズのものだし、同じサイズの別の家庭のものかもしれないので、確信が無いのだ。

「自動ドア、閉まったままだけど、入れるかな?」

「ホーラスはあそこから放送してんだ、入れないわけがないだろ。」

テレポーテーション、そんな言葉が浮かんだ。だが、ホーラスのやることは『いちいち人間っぽい』ので、そんな超能力の線は自分の中で伏せていた。こんな大地震を引き起こせるあたり、そっちを信じてみることのほうが説得力がありそうではあるが。

「どっかのガラスを割れれば、そこから入れるな。」

俺は原付車両の盗難を防止するためのU字ロックを取り出した。そのついでに、原付をコンビニの中に停める。もし向こうが出入りするのなら、俺たちの存在を勘付かれたくなかったからだ。

俺たち二人で太刀打ちしようにも今は彼女の事を知らなさ過ぎるし、柚佳の言った"SP"とやらの存在も頭の隅をチラつく。

慎重に、ビルに沿って歩き出す。どうにかアラームを鳴らさずに割れるガラスがないか確かめるためだ。壁になっているガラスはまず割れないだろうし、入り口は入り口で、確実に警備会社に気付かれるだろう。警備会社に気付かれても今は何も起こらないだろうが、アラームでも鳴ってホーラスに気付かれては命を失いかねない。

「ここなんかどうかな?」

最後の辺――最も割りたくない、傾き側の壁沿いを歩いているとき、柚佳が一枚の壁を指差した。中から押して開けるタイプの窓。蜘蛛の巣状にヒビが入っている。その奥で花瓶が割れているから、それがぶつかったのだろう。鍵がないので能力は使えないが、何度か頑張れば、外から割れるかもしれない。

「なあ、やっぱりお前は逃げた方が――はいはい、どっち道、危険なんですよね…。」

ものすごい形相で柚佳に睨まれて、後半部分は独り言のようになった。どうせ、そう思っていた部分もあったわけだし。

U字ロックのパイプ部分を持ち、ふう、と一息ついてから、俺はスナップを使って、思いっきりそれを叩き付けた。それを二回、三回繰り返す。

ワイングラスが割れる音が好きな人は、けっこう、いると思う。

ただ、窓ガラスが割れる音は中々鈍くて気持ち悪いと思う人も多いのではないだろうか――ちなみに俺は、どちらも好きだ。

バァンというやや篭った音がして、ガラスが建物の中に飛び散る。アラームは――よかった、鳴らない。

「中学生のヤンキーって、こういうことするよね。」

飛散したガラスを指差しながら、柚佳が笑った。

「俺がそうだって言いたいのかよ。」

「やだなぁ、引きこもりのユータには似合わないよぉー。」

ホントいちいち…こいつは何のために、俺についてきたのだろうか。


バリバリッと音がして、踏んだガラスの破片が割れる。ほんとうにスニーカーでよかったと、二人で目を合わせた。

一階のホールは想像通り、閑散としていた。というか、まあ、来るまでの道のりで大体想像がついたのだが、平塚についてから人の影が一つも見当たらないのだ。

もしかして、"持つ者"を隔離したのと同じように、"持たぬ者"たちもどこかに集まっていたりするのだろうか?

柚佳がホールをぐるっと見回してから、小さな声で言った。

「エレベーター…は危なすぎるか。階段かなんか、あるのかなぁ?」

「あるみたいだぞ。」

俺は壁づたいに歩き出した。後ろを柚佳がついてくるのを確認しながら、ナナメに吊られた非常階段の看板を指差す。

非常階段につづくドアは馬鹿になって、開きっぱなしになってしまっていた。中にダンボールや資料らしき書類が散乱していることから、使われていないかもしれない。

なるべく足音を立てないように爪先立ちで歩き、周りを注視しながら、先に素早くドアをくぐった。安全を確かめてから、続く柚佳の手をグンと引っ張って引き寄せる。

「ウワオ、大胆っ!」

「バカやろう。」

無理に明るく見せようとする柚佳の声も、苦笑いでそれを制する俺の声も震えていた。

後ろに据えた拳銃を握る。だいじょうぶだ、だいじょうぶ。


「次が…五階だっけー?」

この局のメイン・スタジオは六階にある。そこまで慎重に、上と下を見ながら昇るのは中々大変な作業だ。

とくに就活生のはずの彼女にはなかなかキツそうで、既に二、三度ロールアップされたパンツをさらに巻き上げ、もはや洒落っ気のかけらもない姿になっていた。

「そうだよ。一回休んでくか?」

「はー、はぁー、だいじょーぶ、ちょーっと待っててね…。」

「いや…無理すんなって。あと一階だし。」

階段の壁に体重をかけて、よろよろと一段ずつ登ってくる姿に呆れ果てた。その情け無さが、俺の同級生である彼女の姉と重なった。

「ほんとにお前ら、姉妹ともども体力無いよな。」

「うるさーい!これは母親の血だい!」

どうやらそうらしい。彼女の母親はヒザを悪くして激しい運動は出来ない、彼女の姉も不登校に加え運動神経が悪く、体力が無い。

と来れば、この次女に体力が無いのも、まあ、仕方がないといえばそうだった。

「そういえば姉ちゃん、どうしてんの?」

懐かしいついでで、容姿だけは恵まれたと思う姉――別にどうこう、って訳じゃないが――の近況が気になった。なにしろ隣に住んでるのに、年に数回しか顔を合わせないのだ。

「んー?なんか外国と日本で食料のやり取りをする会社に就職したみたい。あんまり大手じゃないけど。」

「お前もそこ行けばいいじゃん。姉妹で同じ職場、みたいな。」

「お姉ちゃんは会社の近くのアパートで一人暮らしだよ、うらやましい。アイス専門だったらそこに行くんだけどねー…。」

舌なめずりをする彼女(幼少期からこよなくアイスを愛している)の足は完全に止まっていた。

「まあお前は美容師になるんだもんな――おい、柚佳!」

耳が良くて助かった。コツ、コツという隠す気配も無い足音に気付いて、俺は慌てて柚佳の手を引っ張り、辺りを見回す――この五階からだ。何故!?

俺は急いで辺りを見回す。踊り場の隅に積まれた適当な荷物の中に柚佳を誘導して、音を立てぬようフタをしめる。ダンボールだから呼吸はできるだろう。

「誰か来る。じっとしてろよ!」

一言置いて、その上にもう一つ箱を乗せ、同時に俺は靴を脱いだ。少しでも足音を隠したかったからだ。

猛ダッシュで階段を昇る。六階の踊り場で身をかがめ、拳銃を引き抜いた。体が後ろに持っていかれそうになるから、こっちが"傾き"の側なのだろう。柚佳がもたれかかっていたのも、こちら側の壁だ。

二回、三回と深呼吸をし、俺は身を乗り出して声の主を待った。足音はもう、すぐそこに来ていることを示していた。

「――それにしても。」

声の主に、俺はハッとなった。ここ最近聞き慣れた――というか、聞かされた…。やはり、お前か。


足を踏み入れてきたのは、紛れもなくテレビで見たあの<占星術師ホーラス>だった。

ただ、放送の中でいつもすっぽりとかぶっているフードがない。その代わりに、顔の下半分を黒いフェイスマスクで覆っていた。髪色も含めて、全身、黒だ。

前髪をパッツンにしたさらっさらのロングヘアーを耳にかけ、彼女は言葉を続けた。

「やはり、階段は不便ですね。そろそろエレベーターの修理でもさせた方がいいでしょうか。」

彼女の会話の相手――男の声だ――はウーンとうなった。少しずつ身を乗り出してその相手を確かめた。女の勘を称賛すべきか、ご丁寧に大男を後ろに二人もひっつけてご参上だ。

どちらもその辺の現場から引き抜いてきたような、どこにでもいそうなタンクトップの男で、その絵のギャップが可笑しく見える。

その思考と裏腹に俺の手足が震え出す。さすがにこんな大地震を引き起こした女と、大男二人に打ち勝つ自信は無かった。だから、俺は立ち向かうベクトルを変えた。

奴らが、柚佳に気付いてしまったら先制攻撃を仕掛けよう。そう決めたことで、心に隙間ができた。気付かなければ、だいじょうぶなのだから。

「いいんじゃねえですか?これが最後の放送になるんでしょ?」

「あくまで最後のお知らせということであって、いずれまた使う羽目になりますからね。」

――最後のお知らせ?どういうことだ?

俺は階段を数段昇ってから下を覗き込み、無駄な露出を減らした。上の階にはどうやら何もいないから、安全だろう。

ホーラス達がもう一歩踏み出した。このまま柚佳に気付かなければ、あとは上に来るか、下に来るかだが――

「まあ、このあたりに散らかったモノを片付けるだけでも、幾分か気分が楽になるでしょう。後日、やりましょう。」

「そうだな。」

助かった。彼らが踏み出した一歩は、降り階段のほうだった。小さくため息を漏らす。

「さあ、急ぎましょう。彼らを集める準備と、残り物の始末をしなくては。」

俺の心臓がバクンと一つ打った。始末――まさか、彩乃!

あまりにも鼓動が強すぎて、奴らに聞こえてしまうんじゃないかと思った。俺は彼らが階段を降りるのにあわせて慎重に、一段ずつ裸足で階段を降りる。

俺が五階の踊り場に戻った瞬間、ホーラスが一度くるっとこっちを振り返った時は、心臓が凍りついたかと思った。

咄嗟に身を隠したのでバレてはいないと思うが、その後の彼女の言葉はやけに恐ろしく聞こえた。

『さあ、次は……東京に……そして全国に、呪いを、広げましょうか。』

声は近づかないから、きっとあの場から言っているのだろう。再び始まった足音は、だんだんと遠くなって、消えた。

しばらく間が空いて、思い出したように靴を乱暴に履いた。生きた心地のしないまま、慎重にダンボールをどかす。中で柚佳が涙目になっていた。

「ほーんと、バレるかと思ったんすけど…。怖かったぁー…。」

そうため息をつくと、「わぁっ」と手に持った拳銃に肩をすくめた。俺自身もすっかり忘れていた。どうりでダンボールをどかしにくかったわけである。かつてない緊張感で、どこかがおかしくなってしまっていた。

が、それも束の間。ガクガクした足で箱をヨロヨロ脱出するひ弱な女の姿を見て、逆に俺は目を覚ました。こいつの生死は、俺にかかっている。まるで乳児の娘を持つ父親のような気持ちで、俺はホーラスが出てきた階層を探索してみることにした。


「おっかない声してたねえー。」

柚佳が五階の廊下を先立って歩きながら、こちらを向く。さっきまでの怯えはいくらか消えているが、安心できるわけではない。ホーラスがいなくなったとは言え、まだそのお付きがいるかも知れないのだ。

「なんか、ヘリウムガスの逆バージョン使ってたみたいな声だよな。やっぱり本物じゃないのかも。」

俺は拳銃を引き抜いたまま答えた。

五階には四つの部屋があり、廃墟と化した資料庫が二つと、もう一つは同じく廃墟と化した機材庫のようになっていた。俺たちは最後の部屋のある、少し長めの廊下を歩いていた。

廊下が長めということは、この先にある部屋はたぶん、そこそこの広さのあるスタジオか何かなのだろう。もしかしたらそこから、ホーラス達が新たな放送をしていた可能性がある。

思わず唾を飲む。一番奥の部屋の上に『5F SECOND STUDIO』と書いた看板があるのを見て、俺は首を傾げた。

「ここかな…セカンドって、この階に他にスタジオなんかあったっけ?」

四つの部屋を一つずつ思い出してみたが、どうにも見当たらない。とか思っていたら、そんな俺の表情から察した柚佳が答えてくれた。

「さっきのカメラとか置いてあった部屋が、たぶんここのメインスタジオだったんだと思うな。ドアの近くに『故障中』って札があったよ。」

どうやらそうらしい。言われてみれば確かに、機材置き場にするにはあの部屋は広すぎるぐらいの面積があった。ということは、ここが実質のメインスタジオか。

柚佳を後ろに置き、俺はゆっくりと部屋のドアを開ける。カギはかかっていなかったので、能力を使うまでもなかった。

誰かが中にいる、そんな想像で一歩大きく踏み入れた。銃を前に向ける。

「誰もいないね…って、うわー…。」

確かにそこには人はいなかった。俺は銃を下ろす。

そこに五階・二番スタジオ、という形跡はもはやなかった。上の階層の床が落ちてしまっていて、地面にカメラやセットの残りが散乱していた。壁にめり込んだ三脚が、衝撃の強さを物語っている。

抜けた六階の床は折れて、すべり台のようになっている。パラパラとコンクリートのカスが流れてきて、何となく、ここも危なそうだ。

「なるほどねー、上のメイン・スタジオが落ちちゃって、ここをその代わりにしてたのかー。」

柚佳が後を追って入ってくる。手に持った俺のU字ロックは、とうに下ろしてぶらさげていた。

それにしてもこんな所を使うなんて、と俺は辺りを見渡した。まだ無事だった片隅に、放送で何度も見たあのロゴとモニターを見つけた。

「なるほど、やっぱりここね。」

実際に全国のテレビに発信するのはココじゃないんだろう、見渡した限り、そんな感じの機械は見えなかった。

というと、ここは収録をするための場所ということか。そこには興味がないので、考えないことにした。

「ユータ!これ!」

デスクの上に散りばめられた紙を、柚佳がひっつかんで拾ってきた。白…ではない、少し水色がかったような、安っぽいA4紙だ。縦横を整えることもしないまま、俺はそこに書かれた文章を読み上げた。

「『こんにちは、神奈川の皆さん。わたしは、占星術師ホーラスです。不安な夜を過ごされた方もいらっしゃる…』って、これ二つ目の原稿じゃねーか。」

「違う違う、裏みて裏。あたしの学校でも、原価ケチってオリジナルのコピー用紙作ってるんだけどさ。」

俺は紙を裏返した。通常のコピー紙と違い、そこはチラシのようになっていた。有名な会社のキャラクターが、会社の小さな自慢大会を繰り広げていた。着目点はそこではなかった。

「この会社って…さ…。」

「うん、そうだよ。有名な運送会社。たぶん、食材とかも運んでると思う。」

同時に、外で大きなセル音とエンジン音が聞こえた。この建物の中まで聞こえるなら、トラッククラスの大きさしかない。

俺と柚佳はダッシュで音の聞こえる方――部屋に、たった一つだけある小さな窓へ向かった。やや傾斜があって前に進みづらい。どこかのからくり屋敷を思い出した。

思ったとおり。先ほどの原稿と同じロゴの四トントラックが、環境に悪そうな黒い煙を吐き出しながら、俺と同じようにすべての交通整理の方法を無視して走り出すところだった。

「あそこなら…冷蔵倉庫があっても不思議じゃあ、ないよね。」

柚佳が窓枠に手を掛けながら、顔だけを俺に向ける。

俺は黙ったまま滑る様に床を下り、原稿の一番文字の少ないもの(ホーラスに勘付かれにくいように)を拝借し、四つ折りにしてポケットに詰めた。

奴らと邂逅してからトラックが発進するまでに、少しの時間があった。俺の原付に気付かなければいいが。



幸いにも原付は、俺が乱暴に隠したそのままの形を保ってコンビニの中に放置されていた。

俺たちは往路とは違う、荒れ道を全速力で走り抜け(大通りでホーラスに遭遇するのを避けたかった)てバイト先に戻った。既に陽は落ちかけていたが、俺に店をくまなく調べるための少しの時間をくれていた。

『帰ってきたら全ての部屋をチェックしろ。』という竹内の言葉の意味を、俺はその途中で理解した。ここには生きていくための設備が整っているが、施錠の効く自分の家とは違うのだ。

俺たち以外の生存者がいたって不思議では無いし、それと仲良くなれる保証だってないのだ。おまけに、抑止力となるあのおっさんを欠いた今、戦力はゼロだ。

比べること自体が無意味なことではあるが、支局を探索した時と同じ――いやそれ以上の神経をすり減らしたかもしれない。やはり、ここは"俺たちの拠点"にしておきたかったのだ。

幸いにも、"俺たち以外の人"の侵入の形跡はなかったようで、一通りすべての精神力を使い果たした俺と柚佳は、まだ電気の点いていないフロアーに腰を据えた。

『禁煙席』と書かれたプレートを見て、今朝まで座っていた席も禁煙席だったことを思い出す。そして竹内はどうやらヘビースモーカー。だがこの状況下に於いてはそんな些細な事を、誰が咎めることができよう。

柚佳が大きなあくびとため息を一つして、テーブルに突っ伏した。右の掌だけをぱたぱたと振って、俺に言う。

「んー…あたしちょっと寝てもいいかな、なんだか、すごく疲れちゃって。」

「ああ、構わないよ。何か飲んでからにするか?」

「うーん、ホットミルクか何かでいいかも。あのおっさん帰ってきたら、起こしてよ。」

俺はホットミルクを作るべく立ち上がった。やはり、俺みたいなどこかが吹っ飛んでしまった者でない限り、この状況は酷なものなのだろう。もっとも、考えることが多すぎて疲れている時間がないのもまた、事実なのだが。

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