2.

 隣で草履の足をぷらぷら揺らしている少年の横顔をぬすみ見ながら、奈々はこっそり、狐が化かしに来たかしらと考えていた。草太と名のった少年は、奈々の渡した湯冷ましをごくごくと喉を鳴らして飲んでいる。

 二人は、縁側に並んで腰かけていた。人を呼ぶべきかとも思ったが、そんなことをしたら草太はあっという間に連れていかれてしまうだろうから、やめた。奈々が誰かの訪問を受けるのは――それが双方ともに思いもよらぬことであっても――初めてだった。奈々はもう少し、この見知らぬ客人と話をしてみたかった。

「で、結局ここはどこなんだ?」

「おやしろ

 奈々は知っているとおりの言葉で答える。

「……何の?」

「おいえのよ」

「家の社……ってどういう意味だ? ここはあんたの家じゃないのか?」

「暮らしてはしているけれど……ここは本当は、私の家ではないの」

 奈々は女中たちから、あなたはお家の守り神なのですから、と言い聞かせられて育った。けれど奈々はどうしても、己が身を神とは思えなかった。こんな、何もできない、人並みの健やかな日々を送ることさえできない奈々が、神と呼ばれ立派な家にひとりで住むなどおかしいではないか。両親の暮らす家は、もっと町の賑やかなところにあって、大勢の人が住んでいるというのに。

 だから奈々は、「守り神」を、己とは別に在るものと思うことにしたのだった。きっと奈々は、その神に捧げられたお供え物か、あるいは巫女さまのようなものなのだ。それで、ひとりこのお社に住んでいるのだ。

「このお社は、波多野の守り神のものなのよ」

 草太は目をみひらいた。奇妙な顔で、波多野、と呟く。

「そう、波多野。ここは、波多野の家の守り神の社。わかった?」

 奈々は、草太の反応を怪訝に思いつつもくりかえした。草太はしばらく難しい顔で黙りこくっていたが、ふいに、その顔に笑みを広げた。

「ああ、わかった」

 それははっとするほど鮮やかな笑みで、それと同時に、まだ奈々の知らない様々な感情を一度に含んでいて、突然、どくんと胸が鳴った。

 急に暴れだした胸を両手で押さえる。草太が奈々をきょとんと見つめて、奈々は何も考えられずにその黒い瞳を見返して、蝉時雨だけが降るほんの数瞬。

 表で、誰かの話し声がした。

 二人は弾かれたように座敷のほうをふりかえる。奈々には、門番が女中と言葉を交わしているのだとわかった。

 人が来る、と告げる前に、草太は庭に飛びおりていた。

「おれ、行くね。水をどうも」

 半身で奈々をふりかえって礼を言う。奈々は必死に声を絞った。

「また、来る?」

 その問いが思いがけなかったのか、草太は一瞬目をまるくして、それからあの笑みの残滓を浮かべた。そして応とも否とも答えないまま、庭木の向こうに走り去った。

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