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 考えてから、実行するのは簡単でした。

 ただいつも通り早起きして、先輩とやらの下駄箱に淀川さんが入れた手紙を、ひょいと抜いてしまえば良いだけでしたから。


 これで手紙は届きません。

 淀川さんの想いは伝わりません。

 ほとぼりが冷めた頃、私は気を遣った風に彼女の様子を聞いて、返事のもらえない彼女に、字が汚いから断られたのかもしれない、と神妙な顔で言えば良いのです。


 なんて完璧な計画でしょう。

 そうすれば淀川さんは、また私に師事して字の練習をしてくれるはずです。

 私はその手紙を鞄にしまい込み、安心した気持ちで放課後を迎えました。

 当然、その日は練習なんてしないわけですから、私は家に真っ直ぐ帰ります。

 そして、手紙なんて捨ててしまえば良かったのに……つい、開いてしまいました。


 ……美しい字でした。


 一文字一文字に気持ちを込めて書いたのでしょう。

 時々震え、ペンの滲み方が変わり、またすっと整い始める。

 字は人の本質を表す、と母が言っていましたが、その通りだと感じました。

 手紙からは、何故でしょう。そんな言葉は一言も書いてはいないのに、淀川さんがどんな風に机に向って、どんな風に文字を紡いでいったか……そんな情景が、ありありと浮かんでくるのです。

 自然と、私は自分の行いを恥じました。

 その時になってようやく、自分がしたことの罪深さを思い知りました。

 私はこの手紙に籠められた淀川さんの想いを、踏みにじったのだ。

 ただ、自分が認められた存在でありたい一心に。

 浅ましい。愚かしい。なんて、醜い。

 胸が張り裂ける想いがいたしました。胃の中に鉛を流し込まれるような心地がいたしました。

 自分がこんなに、酷い人間だとは、思っていなかった。

 私は、その日まで、自分が善良な人間であると信じて疑わなかったのです。

 多少凡庸であろうが、その心根は善良であり、真面目であり、他人に非難されうるものではない、と。

 どうして、そう思えていたのでしょうか?

 私はただその日まで、愚かな真似をする機会がなかっただけだったのです。

 ただ縮こまって生きていたから、結果として善良という皮を被れていたに過ぎないのです。

 その事実が、私を苦しめました。

 善良であれと。真面目であれと。人に迷惑を掛けない存在であれと。

 父や母から、厳しく教えられていた私ですから。

 その瞬間に、私は自分が無価値どころか、この世にあってはならないものなのだという気持ちになりました。

 ……大げさ、ではないと思います。何物をも生み出さず、ただ他者に迷惑をかけるだけの存在であれば、それは不要のものであると、私は考えていますから。


 だから、なのでしょう。

 私はそこで、もう一度道を間違えました。

 このことを、誰にも気づかれてはならない、と思ったのです。


 気付かれれば最後、私という人間は社会において、迫害されるべき悪となってしまう。それは避けようのない事で……自分の身を護るためには、手紙の事は黙っていなければならない。

 私は、震える手で手紙を引き裂きました。

 何度も、何度も、文字の一つさえ残すまいという思いで、色のついた可愛らしい便箋を破り捨てました。

 小さな山になった紙くずをゴミ箱に注いで、袋を縛りました。


 私は、自分の罪に向き合う勇気さえ持ってはいなかったのです。

 勇気を持って先輩に気持ちを伝えようとした淀川さんとは、まるで違う。

 何の取り柄もなく、歪んだ性根を持ち、あろうことか他者へ害を齎す。

 そんな私に、唯一残されているモノがありました。


 ……文字です。


 私はまだ、淀川さんより字が綺麗でした。

 それだけが、私の最後の希望でした。

 彼女よりも字が綺麗な間は、まだ私にも、幾ばくかの価値はあるのではないか。

 そんな幻想に、私は憑りつかれました。

 私はすぐにでも字の練習を始めました。テキストを買い込み、誰にも気づかれぬよう、ただひたすら、字を書く事に打ち込んでいきました。

 より正確に。歪みの無い、美しい文字を。

 僅かなズレさえも、今の私には、赦されない。


「ねぇ、今日は暇?」


 ある日の休み時間、淀川さんに尋ねられました。

 もしかして、字の練習の誘いだろうか。期待したけれど、違いました。ただ遊びに行くのだと淀川さんは答えました。

 そんな暇は、ありません。私は字の練習をしなければならないのですから。

 そうでなければ、この世に存在してはならなくなってしまうのですから。

 断った時の淀川さんの顔は、あまり覚えていません。

 直視することが、出来なかったからかもしれません。


 それから、しばらく経ち。

 日も経ち、いい加減淀川さんの中で決着もついたであろうと感じたわたしは、尋ねました。

 あの先輩とは、どうなったの、と。

 手紙が行かなければ、想いが伝わっている筈もありません。

 私はそれを淀川さんの字の所為にして、再び字を教える立場に就こう。

 私の価値を証明するには、それしか……。


「あぁ、うん。早く言おうと思ってたんだけどさ……」


 けれど。

 淀川さんの反応は、私の予想と違うモノでした。

 どこか恥ずかし気に身をよじらせる彼女の顔は、体温が上がったのでしょうか、ほんのりと赤くなっていて。


「付き合うことになったんだ」


 ……何度でも。何度でも、です。

 淀川さんは……私の思いもしないことを、告げるのでした。

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