5


 淀川さんは。

 手紙が届かなかったことを、知っていました。

 数日経って、あまりにも先輩の様子に変わりがなかったから。

 自分から、切り出したそうだ。あの手紙は、読んでくれたんですか、と。

 ……ああ、考えてみれば当然だ。何にも反応が無ければ、確かめようとするだろう。どうしてそんな簡単なことにさえ、頭が回らなかったのだろう。


 そして。手紙の内容を尋ねる先輩に、淀川さんは思い切って想いを告げた。

 電子でもなく、誰かの筆でなく、自分の口から。


 途方もない勇気が必要だったのでしょう。

 きっと、先輩の顔をまともに見ることも出来なくなったに違いありません。

 けれど淀川さんはそれを、乗り越えて。


「したらさ。先輩もあたしの事、ホントは前から気になってたみたいで……」


 付き合うことになった。

 あまりにもすんなりと。当然のように。二人は結ばれた。

 喜ぶべき、だったのでしょう。

 私は、彼女の想いを先輩へと届ける為に力を貸していた身ですから。

 だというのに、私はそれを、受け止められなかった。

 だって淀川さんが結ばれてしまったら。もう字を練習する必要が無くなったら。

 一体私は、どうやって自分の価値を見出したらいいのでしょう?


 先輩って、本当に良い人なんですか。


 私は口にしました。

 淀川さんと、目を合わせる事は出来ませんでした。

 なんで。と淀川さんは不思議そうに、けれど確実にざらついた口調で、聞き返してました。


 だって。前から気になっていたなんて。前々から淀川さんを汚い気持ちで見ていたという事でしょう。だのに、淀川さんに気持ちを伝えることもしなかったような、腰の引けた人なのでしょう。

 第一、男の人というのは。特に同じ年頃の男子というものは。あまり、綺麗なモノではないではないですか。不純な心の持ち主だそうじゃないですか。

 見た目がどうあれ。貴方の気持ちがどうあれ。一度冷静になって、見つめなおしてみる必要があるのではないですか。


 必死に、食い下がりました。

 けれど言い募るごとに、淀川さんの表情は厳しく、険しく変化していきます。

「そんなことないよ。先輩はすっごく良い人だって。凄く優しい人だし、それに……手紙の事話したらさ……」

 淀川さんは少し言いよどんでから。


「字が汚いくらい気にしない、って言ってくれたんだよ」


 そう、続けました。


 字が汚いくらい。

 気にしない。


 いくら歪な字を書こうが、淀川さんの価値は下がらない?

 だったら、私は? ただ字が綺麗なだけの、私の価値は?


 別れましょう。私は強く、言いました。

 私が。淀川さんと過ごし、字の練習を重ねてきたあの時間。

 それを先輩は無下にしたのです、と叫びました。

 いえ。叫び声になってはいなかったでしょうか。声がかすれて、あまり大きな声量にはならなかったと思います。でも、叫びました。

「なんで、そんなこと言うの……」

 淀川さんはショックを受けたようですが。

 もうそんなことで、私の気持ちは止まりませんでした。

「美山さんなら喜んでくれるって思ってたのに!」

 その一言には、怯みましたが。

 それでも。だとしても。何を言われても。

 私の最後の価値を。

 淀川さんと過ごした時間を。

 何処の馬の骨とも知らぬ男に、否定されてはならない、と。

 私は思いつく限りの言葉で、淀川さんを止めました。


 きっと相手は遊びだ。先輩だし、卒業したら自然と別れることになる。

 もっと広い視野を持つべきだ。この先になればもっといい人と出会える。

 第一、前から気になっていた?

 ならのだって。一人で校内を迷う貴方に優しくしたのだって。ただ可愛い後輩を狙っていただけかもしれないじゃないですか!


「……待って」


 ハッとした顔の淀川さんを見て。

 しまった、と私は思い至りました。


「どうして美山さんが、その事を知っているの?」


 淀川さんと先輩が、初めて会った日の事。

 私が知っている筈はなかったのです。淀川さんはのだから。なら、何故私が知っているか?


 です。


「もしかして、手紙が届かなかったのって……」


 全身の血が引きました。

 さっきまで全身を覆っていた熱が、全て無くなってしまうようでした。

 失敗した。私はそれを誤魔化すことが出来ません。

 押し黙った私を見て、淀川さんは理解したのでしょう。

 私の悪行を。浅ましい裏切りを。

 そして涙を浮かべて。一言、絞り出すように。


「……最低」


 ただ、それだけを告げて。


 淀川さんは、去って行きました。


 もはや私に、彼女を繋ぎとめる力なんてありません。

 ただ字が綺麗なだけの私には。何も出来ません。

 私は淀川さんを失ったのです。

 そしてその時、初めて一つの感情が胸に湧きました。


 ――寂しい、と。


 ああ、私は。

 自分の価値がどうだという気持ちに惑わされて。

 一つの事を、見失っていたのです。

 私は、淀川さんと一緒にいて、あんなに楽しかったのに。


 謝ろう。

 口では謝れなくても、せめて手紙を書いて謝ろう。

 赦されなくても、己の罪を認めて、全てを淀川さんに委ねるのだ。


 私は息を切らせながら自らの机に向かい。

 紙を前に、ペンを取り。

 一文字を書いて、思ったのです。


 私の字は、こんなに……歪んでいたのか、と。


 こんな字で。この程度の字で。私は淀川さんに謝れるのか。

 何の感情も感じない字。醜く、気持ちの悪い字。

 私の眼球の中で、字は見る間に意味を失い、溶解していく。

 吐き気がしました。汚い字。歪んだ字。恥ずかしい字。

 書けない。もはや一文字も書く事が出来ない。


 それは、私が私自身に課した罰なのでしょう。

 私はどうしてか、自分の文字が酷く醜いものに見えるようになってしまったのです。


 それから私は、ただの一文字も字を書けずにいます。


 ……。えぇ。ここまでが。


 *


 美山朝子は、小さく息を吸う。

 わたしはメモする手を止めて、じっと彼女の瞳を見つめた。

 目は、やはり合わせてくれない。長い話の中で、ただの一度もだ。


「ここまでが。……あの日、私の感じた全てのことです。

 ……でも、どうしてそんなことを聞くのですか……淀川、杏さん」

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