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 それから放課後には、淀川さんの字の指導をすることになりました。

 といっても、私がすることなんて殆どありません。

 ただお手本を元に字を書く淀川さんに、ここはもっと詰めた方が良い、ここの角度が曲がっている、と口を出すだけです。


 やる気があるなら、何か専門のテキストをやるのが良いんじゃないでしょうか。

 そう聞いてみた事もありますが、淀川さんの答えはこうでした。


「一人でやってっとつまんないじゃん」


 だからといって、友達でもない私と放課後顔を突き合わせても、面白くはないんじゃないでしょうか。

 そう思ったのですが、淀川さんはなんだか、満足そうな顔をしていました。

 字が上手くなっていくのが嬉しいのでしょうか。それとも……。

 確認する勇気が、その時の私にはありませんでしたけど。


 さておき。

 淀川さんの字は、それはもう酷いものでした。


 ミミズののたくったような字、というのはああいうモノのことを言うのでしょうか。形は歪んでいるし、繋がらないはずの線が繋がっているし、時としては謎の省略をされていて、元の形が分からない。

 どうしてそんな字を書くのですか、と私は尋ねました。

 昔から、字を綺麗に書こうと努めていた私ですから。淀川さんの字が汚いことが、不思議に思えたのです。

「なーんかさ。……手が、おっつかないんだよね」

 淀川さんはそう答えました。

 書きたい事に、手が追い付かない。だから指先ばかり走って、気付けばあんな字になっているのだ、と言います。

 分かるような、分からないような気持ちでした。

 私はそれほど、何かに迫られて字を書いた覚えが、無いのです。

「んでさ。字が汚いーっていろんな人に怒られた」

 当然でしょう。読むのにさえ苦労する字を見せられれば、誰だって苦言の一つくらい口にしたくなるものです。

 それが小さい頃から何度も何度もあった……と、淀川さんは言います。

「汚いから書き直せ、とかね。一生懸命考えて書いても、それが伝わらないまま、ダメだって言われて。焦って、ゆっくり書こうとするんだけど……綺麗な字書こうとすっとさ、力籠っちゃうんだよね」

 だから疲れるんだ、と淀川さんは言いました。

 力なんて必要ないのに。と私は思いましたが、先走る指先を抑えるには、それくらいの力が求められるのかもしれません。

「そんで……嫌になった」

 字を綺麗に書くのが。

 いやいっそ、字を書くのが。

 嫌になった。面倒になった。疲れるし、怒られるし。

 それで勉強もあんまり手に付かなくなったなぁー、と淀川さんは笑いました。

「勉強ってさ、字ぃ書くじゃん。字なんか書いたらさ、汚いのが目に入るじゃん」

 淀川さんの気持ちは、私にはよく分かりませんでした。

 だって、私は字を書く事が嫌だと思ったことがありませんから。

 勉強するのだって、学生であるなら当然の事です。それをしないで平気な淀川さんが、私には全然違う人種に見えました。

 でも、だったら。

 どうして手紙なんて書く気になったんです、と私は尋ねました。

 いえ、最初は書く気が無かったみたいですけど。

 私に断られてもなお、手紙にこだわる理由が、知りたかった。

「……先輩の前だと、ふざけちゃうんだよね」

 手を止めて、淀川さんは小さな声で答えました。

 普段は大きな声で喋る彼女も、好きな先輩の話となると、いつもこうです。

 彼女のそんな様子が可愛らしいと、私は感じていました。

「一緒にいんのが楽しくて、つい楽しい方に話しちゃうからさ。……そっから真面目な雰囲気にって、なんかヤバいじゃん」

 ヤバい、の意味は分かりませんでしたけど。

 要は、面と向かって言うのが難しいから、だというのです。

「でもま、LINEとかでやんのも違うじゃん?」

 顔を合わせる事は出来ない。電子のやり取りでは味気ない。

 だから手紙、なのだそうです。

 驚きました。理由が、思っていたより可愛らしいので。


 そして、手紙を出すなら、ちゃんと綺麗な字にしたい。

 だからこそこうして字の練習をしているのだと、淀川さんは改めて言いました。


「美山さんの字が、あたしの目標だかんね!」


 はっきりとそう言われて、悪い気はしませんでした。

 ……いいえ、違いますね。悪い気はしない、どころじゃない。


 私はその時、優越感を覚えていたのです。

 クラスの中で、何となく自分より格上なのだと思っていた淀川さんが、字の上手い下手というただ一点だけを理由に、私の下についている。


 放課後のこの時間は、すぐに私の楽しみになりました。

 教室内では怖いモノ知らずのような顔をしている淀川さんが、私の言うことを素直に聞いて、字の練習に励んでいる。


 もしかして、先生というのはみんなこんな気持ちなのかな、と感じました。

 俯いて紙に向かう相手のつむじを見下して。


 けれど、そんな甘い時間は、長く続きませんでした。


 思えば、当然のことです。

 淀川さんの字が、みるみる綺麗になっていったのですから。


「あたし、そろそろ先輩に手紙出してみようかな」


 その言葉を。

 聞きたくなかった、と……思ってしまいました。

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