5-2

 その後数日、優都は弓は引けない状態ながら毎日部活には顔を出して、雅哉の仕切る練習を後ろで眺めながら、記録を取ったりアドバイスを請われればそれに答えたりと、裏方の仕事を続けていた。弓が引けるわけもなく、主将としての仕事があるわけでもなくとも毎日いつも通り道場に優都が足を運ぶのは、責任感や罪悪感というよりも、単純に、素直に表に出せない焦りを、動いていることで紛らわせたかったのだろうと思う。優都は、なにもできないという状況がなにより苦手だ。「動いてる方が楽だよ」が口癖だった。

 優都が怪我をしてから四日ほどあと、放課後に弓道場の点検が入るということで授業後の練習が取りやめとなる日があった。生徒会の仕事もその日は特に残されておらず、千尋にとってはテスト期間ぶりに授業後に直帰を選択すると、乗換駅のホームには知った顔があった。まだ十一月の初めだというのに、ブレザーの下にセーターを着込み、ネックウォーマーに顔を埋めたままぼんやりと電車を待っているのは、数日ぶりに顔を見る後輩だった。

「風間」

 中央線のホームで柱に寄りかかる彼に声をかけると、拓斗は声のほうを振り返って千尋を捉え、浅く頭を下げたあと、「今日、オフでしたっけ」と問うた。

「耐震構造のチェックがあるらしくて、休み」

「ああ――そういえば、そんなこと聞いたかも」

 千尋を前にしても気だるげな態度を崩さない拓斗は、ブレザーのポケットに両手を突っ込んで電光掲示板を眺めていた。特快はあと十分、遅延はなし。この時間に帰るのも久しぶりだな、と千尋も時計を見上げた。

「古賀とかは中等部に行ったけどな。あんま大勢で押しかけても悪いし俺は帰ってきた」

「中等部と高等部で道場別なのまじで金持ちっすよね」

「場所離れてるし。あっちの道場は狭いけどな」

 優都の前では基本的に愛想の悪い姿しか見せない拓斗が、機嫌さえ悪くなければたわいのない会話にも普通に乗ってくることを千尋は知っていた。千尋も拓斗も東京都の市部から区内の翠ヶ崎に通っており、通学に使う路線が同じだ。部活が終わったあと、乗換で他の部員と別れてから拓斗が先に電車を降りるまでのあいだ、この半年間でそれなりに会話はしてきた。

「優都が、明日医者行ってオッケー出れば、明後日から戻れそうだってさ」

「そうすか。――大事なくてよかったです。俺が言うことじゃないけど」

「喧嘩は手出したほうが悪いってのは鉄則だしな」

 帰宅ラッシュには早い時間で、構内にひとはまばらだ。今日はこれから予定あるのか、との千尋の問いに、拓斗は「別に」と首を横に振った。

 コーヒーでも飲もうと千尋が誘うと、拓斗はその意図も問わず存外素直に後をついてきた。駅構内にあるにしては質素な構えのコーヒーショップには、品ぞろえの悪さもあってか、あまり学生は立ち寄らない。店主は制服姿の千尋と拓斗を見てすこしだけ怪訝そうな顔をしたけれど、なにかを問うでもなく二人を奥のテーブル席に通した。

 しばらく会話もなしに頼んだコーヒーを待っていると、先に口を開いたのは拓斗の方だった。

「――すみませんでした」

 いくらか迷うように視線を巡らせてから投げ出された言葉は、おざなりではあったものの、ある程度きちんと意味を含んでいた。

「なんの謝罪?」

「いや――考えなしに動きすぎて、迷惑をかけたなと思って。森田さん以外にも」

「まあ、おまえらが仲悪いのはいまに始まったことじゃねえし、合わねえ相手がいるのは、それこそ仕方ないけど。殴りかけるまで気に食わないとは思ってなかった」

 運ばれてきたコーヒーに角砂糖を溶かす千尋の手元に視線を逃して、拓斗はまたしばらく黙ったままでいた。こと、自分の内側を言葉にする作業においては、拓斗は優都とおなじくらい不器用だ。

「あのひとに、羨まれるのが嫌で」と拓斗はゆっくりと口にした。

「なにを? ――才能?」

 千尋の問いに、拓斗は「そんな感じです」と頷いた。拓斗が優都に手をあげたのは、優都が彼のことを、と形容した瞬間だった。

「たとえば、坂川は、森田さんのことをだと思ってるじゃねえすか」

「そうだな。是非は別として」

「でも、あのひとはもともとそういうひとじゃないから――意味わかんねえ努力をして、それができるってことで、特別でい続けようとしてる、だけで」

 よく見てるな、というのが千尋の第一の感想だった。まだこの部に入って一年も経っていないのに、拓斗は優都と潮の関係をおどろくほど正確に見抜いていた。逆に言えば、優都にある種の憧憬を抱いていない人間にこそ見えることではあるのかもしれない。この部にいる拓斗と千尋以外の人間は、多かれ少なかれ優都の言葉と背中に救われている、そういう閉じた世界だ。

「そういうふうに、特別だと、勝手に思われるようになるのに必要なものを、才能って呼ぶのかどうかはわかんねえし、それこそ、弓の上手い下手とかそれだけのことでもないんですけど」

 優都は拓斗の才能のことを、だと形容したことがある。「僕みたいなのが片鱗を覗いたところで、果てのなさに恐ろしくなるだけだ」と語った優都は、だれよりも自分自身の可能性の限界には自覚的で、けれどそれを理由に努力を諦めることだけはできない、そういうふうに生まれついた男だ。

「だけど、そういう意味で、俺が持っててあのひとが持ってないものがあるっていうのは、自覚してるつもりです」

 コーヒーに口をつけながら千尋は耳を傾ける。拓斗は、自分に生まれつき備わったその能力と、あたりまえに共存している人間だと思っていた。他人の偶像となるのに必要なもの、底のない可能性という無限性そのもの。それはある側面で、容易に才能と名付けられたものに形を変える。

「だけど、そんなものを、自分から望む神経が俺には理解できない」

「なんか、しんどい思いしたことがあるってことだろ。おまえ自身が、そうされるような――まあ、才能みてえなのを、持ってるってことで」

 羨まれたくない、というのはそういうことだろうと千尋が問うと、拓斗は頷きはしないまま、ほぼ冷めたコーヒーを口元に運んだ。改めて正面から見ると、綺麗な顔の作りをした男だ。記憶に残りづらいほど隙がなく整っていて、どこか無機物じみたところを感じさせる容貌も、彼の可能性の極限を構成する要素のひとつとして必要であったのだろうと思案する。

「あのひとは、――森田さんは、普通には弓の腕もあるし、頭もいいし、人望もあるし、家族の仲もよくて、それ以上、なにが欲しくてできもしねえことやろうとして自滅して、諦めもしないんですか。わざわざ頑張らなくても、あのひとは、十分に恵まれてるし幸せでしょ」

 拓斗がソーサーにカップを置く音がやけに響いた。彼はわずかに目を伏せて、吐き捨てるようにその言葉を投げ出した。

「もともとあれだけ持ってるひとが、自分が恵まれてないみてえな顔をして、努力ばっかり無駄に続けて、俺のことを恵まれてるほう、みてえな顔して見てくるのに、腹が立ったんです」

 そこまで言って、拓斗は口を閉じた。しばらくは沈黙が続き、それを遮るように千尋が二杯目のコーヒーを注文すると、拓斗もそれに追随した。

「手上げる理由になるかどうかは別として、まあ、おまえの思うことは妥当だよな。あいつに実力以上の影響力があるのは、たしかに昔からそうだし」

「――すみません。そっちは、ある程度人望とか性格の問題だから仕方ねえとも思ってたつもりだったんすけど」

「はは。まあ、別におまえに人望がないわけでもねえだろ」

 性格は悪いけどな、と千尋が笑い飛ばせば、「わかってますよ」と拓斗は息を吐いて答えた。無愛想で気分屋ではあっても、拓斗の実力はたしかだし、彼も彼で弓道のことに関しては能う限りは真摯だ。そのことを、雅哉や彼の同期はわかっているし、優都だって気付いていないはずはない。優都が他人と真剣に向かい合い、常に話を聞きながら信頼を築いていく類の人間なら、拓斗はそれ自身強固に他人の指針や憧れとなる存在なのだろうとは思う。そこには対話も理解も存在しないながら、彼はいつだってそうやって他人を誘引している。

「優都は、別に、なにかが欲しいわけではないんだと思うし、あいつもあいつで、隠しちゃいるけど短所は多いよ」

 千尋の言葉に、拓斗はなにも言わないまま耳を傾けた。表情を窺われているのがわかる。

「頭いいくせに不器用で、要領悪くて、得意不得意激しいし、考えてること他人に喋るのも苦手だし、結構身内びいきするしダブルスタンダードなとこあるし」

 親友の短所を指折り数えていく千尋を眺めながら、拓斗は残り少ないコーヒーを飲み干す。

「――でも、そういう、どっか足りてねえとこだけは、おまえらそっくりだと思うけどな」

 そう言って肩を竦めた千尋に、拓斗は「そうかもしれないですね」とだけ返した。その言葉が本心からのものなのか、話を合わせようとしただけなのかは千尋には読み取れなかったけれど、この後輩には、他のだれもが見ようとしてないところがきちんと見えていて、それゆえに苦悩があるのだろうという確信だけはたしかにあった。


 優都が復帰したあと、優都と拓斗のあいだでどのような会話が交わされたのかを千尋は知らないが、新人戦の数日前には部はいつもの雰囲気に戻っていた。一週間のブランクを、拓斗はさほど苦にもしていないようだったが、優都はやはり焦りがあるようで、ほんの数分の時間も惜しんで弓を握っていた。彼らのあいだのその温度差に解決があったわけではないとはいえ、拓斗は優都の弓に対して、攻撃的な意図を持たない意見を述べる頻度が多くなっていた。優都はそれは素直に受け止めて礼を言っていたし、自主練の際などは優都自身が拓斗に助言を請う姿も見られるようになっていた。十一月の新人戦で東日本大会に選抜されなければ、全国選抜に選出されていない優都たちの次の主要な大会は二月まで飛ぶ。引退までの残り時間が徐々に少なくなっていることも、この頃の優都の焦りの一因だっただろうとも思う。

 その努力を嘲笑うように、新人大会の団体戦で、優都はすべての立で四射中一射を中てるのが精一杯で、拓斗や雅哉も前ほどには調子が良くなかったことも相まって、団体は決勝トーナメント進出をかけた同中競射で敗退した。団体予選の成績がそのまま予選の成績に使われる個人戦でも優都は当然順位決定の競射には進めず、一次予選だけは皆中で通過した拓斗が、なんとか個人戦で食らいついて入賞は果たしたが、どのみち東日本大会に選出されるのは団体のみだ。

 試合が終わったあと、優都はいつも通りに試合後の部員をねぎらってはいたものの、二大会連続でほとんど中りもしない弓を引くことになったのがさすがに堪えたのか、余裕のない表情はあまりうまく隠せてもいなかった。

「森田」と、会場を出るとき後ろから声をかけてきたのは、櫻林高校の松原だった。

「久しぶり。なんか顔死んでるけど大丈夫か?」

「松原。え、そうかな、情けないな……」

 優勝おめでとう、と優都に声をかけられた松原は、新人戦を団体でも個人でも制していて、三月の東日本大会も、十二月の全国選抜も出場権を持っている。彼は優都の賞賛をを当たり前のように受け止めて「ありがとう」と答えた。

「おまえが最近全然射詰まで上がってこないからつまんないよ。関東予選は待ってるからな」

「そのまえに遠的があるだろ」

「俺、遠的得意じゃない」

「よく言うよ。去年もちゃっかり入賞してただろ」

 頑張れよ、と松原に肩を叩かれた優都は、一瞬だけなにかをこらえるような表情を見せてから、「うん、また機会があったら一緒に練習させてよ」と答えた。松原はその後、すこし前を歩いていた拓斗を呼び止めて、拓斗は彼に軽く頭を下げて「優勝おめでとうございます」と言った。

「今年、優勝と準優勝以外してます?」

「そういやしてないかも。四月の関東予選くらいかな。なんか調子良くてさ」

「個人戦ってそんな連勝できるもんだと思ってませんでしたよ」

「まあでも、俺の一年のときよりおまえのいまの成績のが良いよ」

 時と場合によっては手がつけられないほど中り続けるものの、中学時代から調子にはムラがある拓斗と比べて、今年の松原は都内でいまのところ比肩する相手がいないほどの強さを誇っている。松原は拓斗の素直な賞賛を軽く受け流したあと、十二月の全国選抜について拓斗に話を振り、「俺が中三のときの全中もおまえと一緒だったな」と言った。

「俺、いまんとこ都内の選手ではおまえがいちばん怖いからな」

「どうも。他の都内の選手はだいたい松原さんが怖いと思いますけど」

「はは。まあ、また選抜でな。あれだったらまたうちの練習入ってくれていいし連絡して」

 あざっす、と返した拓斗は、松原と話をしているときは普段よりこころもち饒舌だった。松原はそのまま、もう一度拓斗や優都や雅哉に手を振って、バスに向かう櫻林の集団の方へ駆けて行った。

 櫻林の選手団が去ったあと、その列から多少離れて歩く私服の男性が、翠ヶ崎の方を窺ってくるのが見えた。それに気付いた千尋がそちらを見ると、彼は千尋に気付いたのか、薄手のコートのポケットから手を出して千尋に向かって振った。

「優都、宮内先輩来てんぜ」

 再び黙りこくって歩いていた優都に彼の方向を指し示すと、優都はぱっと顔を上げてそちらを向き、すこし遠いところにいる宮内の姿を視界にいれて、なにかを噛み殺すように唇を結んだ。宮内は千尋や優都の方に近付いてくるまえに、櫻林の集団の後ろの方から名前を呼ばれ、ごめん、という仕草をしてからそちらに駆け去っていった。優都は宮内に向かって深々と頭を下げ、彼が完全にこちらに意識を向けなくなるまで、立ち止まってずっとその姿勢を保っていた

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