3-2

 風呂を終えて夕飯に向かう際に、「先輩に謝っとけよ」と潮に諭された拓斗は、多少は気を静めもしたようで、夕食の席につく前に、存外素直に優都に頭を下げていた。その後拓斗を部屋に残してミーティングに向かい、それを終えて戻ったときには拓斗は電気も消さないまま眠り込んでいた。

「風間怒ったときの優都先輩、久々に怖かったな」

「それは思った。中学んときにうーやんがすげえ機嫌悪くて練習適当にやってたとき以来じゃね」

「俺の黒歴史掘り返すのやめて。まじで怖かったからあんときの先輩」

 拓斗が、多少横で喋ったくらいでは目を覚まさないのは前日の時点でわかっていたから、声は抑えつつも潮と京はいつもの通り談笑していた。優都は部活の最中、不真面目であったり礼を欠いたりした態度には厳しいが、感情に任せた理不尽な物言いをすることはない。常に冷静だからこそ彼の叱咤は怖い、というのは由岐にもわかる感覚だ。

「うっしーも京も、先輩たちと仲いいよな」と呟くと、二人の視線は由岐に向いた。

 中学時代からの付き合いの長さもあるだろうけれど、潮と京の二人は優都と千尋に特によく懐いていて、道場の外ではかなり屈託なく会話をしている姿が目に入る。由岐自身は、どちらかというと同じ高等部入学組の雅哉に声をかけてもらうことが多かったものの、潮や京が優都と千尋に対してしているような距離の取り方は、比較的喋るほうである雅哉に対してすらできる気がしない。

「俺、森田先輩も矢崎先輩もちょっと近寄りづらいなって思っちゃうんだけど」

 布団にシーツを敷きながら由岐が零した言葉に、潮は目を丸くして「なんで?」と問うた。

「あんま考えたこともなかった」

「いや、なんていうか、うちの先輩たちがすごいいいひとなのはわかるんだけど、そもそも先輩と仲良くするって感じがあんまりわかんないっていうのも、ある。先輩のこと下の名前で呼んでるのとか、最初ちょっとびっくりしたし」

先輩という存在に対する感覚が、由岐とこの二人とはそもそも違うのだと思う。由岐にとって先輩とは、もっと絶対的で、言われたことには迷う間もなくはいと答えるか謝罪を返すかしかない相手だった。雑談をしたり、笑いあったり、あまつさえ反論をする相手では絶対になかったし、友人のようにたわいない会話をすることなど考えられもしなかった。

「ゆっきーの中学んときの部、上下関係厳しかったんだっけ」と京が問うてくる。

「うん。言われたことは絶対だったし、後輩から先輩に喋りかけるのとか基本ダメだったし、先輩の方はひとりでも後輩に甘くすると全体がダレるからってのも言われたし。怒られた以外の記憶ないや」

まじかよ、と潮が眉をひそめる。「相談とかだれにしてたの?」と続けて問われたけれど、それこそ、先輩という選択肢は当時の由岐にはなかった。

「じゃあ、ゆっきーも後輩怒鳴ったりとかしてたの?」

「してたよ。でも、監督に、おまえは後輩に甘いってよく怒られた」

「ゆっきー怒鳴るとこ想像できねえ……」

「たぶんあんまり怖くなかったと思うけど」

 苦手だし、と呟けば、潮と京が同意を示すように揃って頷いた。

「でも、ここではそういうのないってわかってても、そもそも、森田先輩は、努力家すぎて俺付いてけねえやってなるときあるし、矢崎先輩はなに考えてんのかあんまよくわかんないし」

 優都と千尋が中等部の一年だったときを最後に、翠ヶ崎の弓道部には、中学高校合わせて、優都たちより上の代の先輩はいないと聞いている。それまでの部を知る先輩もおらず、顧問には具体的な協力はさほど仰げないなか、伝統の途絶えた部を立て直してきた彼らの存在は、弓道すら高校から始めた由岐にとっては、どうしてもどこか遠い。

「あー、まあ、千尋先輩がなに考えてんのかは俺もあんまよくわかんねえけど、少なくとも怖いひとじゃないよ。……優都先輩は、たしかにめっちゃめちゃ努力家だけど、自分と同じだけやれとは言わねえぜ」

「わかってるんだけどさ。絶対優しいひとなのもわかってるし、尊敬できる主将だなとももちろん思うんだけど、ちょっと怖い」

 怒っているときのことを指しているわけでもなく、怖いという形容詞が優都に付されることに対して、潮はまったく理解ができていないようで首を傾げていた。けれど、毎日のように朝七時には部室を開けて朝練の準備をし、当たり前のような顔をして部と後輩を支え、それでいて自分がだれよりも弓道に真摯でだれよりも練習量を確保する優都の姿は、尊敬に値する反面、どこか恐ろしさを感じるのも事実だ。

「俺はゆっきーの言いたいこと半分くらいはわかるけど。つか、あの二人はまじで頭いいから、俺らにはわかんねえし教えてくれねえこともいろいろあるんだろうなってとこで、距離感じるのはちょっとわかる」と、潮の隣では京が軽く由岐に同意を示す。

「それもあるのかも。俺、部のなかでいちばん弓道のこと知らないしできないし、中学のときのこともわかんないし、森田先輩とかと距離あるなってのは思う。先輩と仲良くしたことないから、どうすればいいかもあんまわかんないし」

 京の言葉に頷いて、由岐は自分と同様に高等部から入部してきた拓斗の方を一瞬見遣った。拓斗は由岐たちには背を向けて布団に横になっている。シーツを皺なくかけた自分の布団の上に腰を下ろし、潮は悩むような声をあげたあと、「それはちょっとはしょうがないのかもだけど」と口を開いた。

「俺が言うことかわかんねえけど、優都先輩、相談とかそういうのめんどくさがったり適当に流したりとか絶対ないし、ゆっきーが真面目に関わってったらその分真剣に返してくれると思うよ」

「うん、それはそうなんだろうなとは思う。……ってか、まじで、うっしーって森田先輩関連の話になるとめっちゃ語れるよな」

「え、そりゃあだって、敬愛の度合いが違えしな」

「うーやんまじで気持ち悪いくらい優都先輩好きだからな」

 茶化すような京の言葉に潮は深く頷いて、「世界で一番尊敬してるから」と言い切った。

「優都先輩の生き方は、俺の理想そのまんまなの。……なんかの見返りのために努力するんじゃなくて、ちゃんとそれそのものに価値が見いだせてるから、うまくいかないときあっても腐らずにずっと努力し続けられるの、めちゃめちゃ強いひとだなって思うし、俺はずっとそこに憧れてんの」

 いつでもへらへらと適当に物事をいなしているように見えて、潮が意外と自分に厳しいのは、付き合いの浅い由岐ですら見ていればわかる。そういう人間ほど、胸の奥に抱えているものがその態度のようには軽くないことをあまりはっきりと表には出さない。いつもは茶化すように口にする優都への敬愛を珍しいまでに真剣な顔で語る潮の姿には、由岐の知らない時期のなにかが埋め込まれているように思えた。

「ほんと、見た目の千倍くらいストイックよな、うーやん」

「それ褒めてんの? 貶してんの?」

「両方」

 京が潮をからかったとき、視界の端で拓斗が寝返りを打ったのが見えた。仰向けになった拓斗は腕を顔に乗せたままひとつ息を吐いた。「ごめん、起こした?」と問う間もなく、彼はもう一度横向きに体を丸め、なにをするでもなくまた布団に潜り込んだ。


 前日よりはミーティングが早めに終わったこともあり、消灯まではまだ時間があるのを確認した潮は、「ミーティングのときに先輩たちに聞き損ねたことあるんだよな」と言って立ち上がった。

「ゆっきー、一緒に来る? 引き分けで悩んでたとこあったじゃん、聞いといたら?」

「え、いいかな。ごめん、俺ほんと先輩にもの聞きに行くのとか苦手で……」

「この際だし行っとこうぜ、先聞いといたほうが絶対明日からの練習とかにもいいし」

 潮がある程度は自分のためにタイミングを作ってくれようとしていることは明白で、気を遣わせたことに多少の罪悪感はあったものの、潮はけろっとした顔で由岐が立ち上がるのを待った。「けーくんは?」と問うた潮に、京が「用はないけど行く」と答え、結局三人揃って部屋を出た。

 二年の部屋の入口で襖の横をノックし、潮が名乗ると、優都の声で「入っておいで」と聞こえてくる。優都たちはテーブルの上に明日の練習メニューやミーティングの内容を並べてなにか話し合っていたようだったけれど、潮が「いま大丈夫でしたか?」と聞くと、「もちろん。どうかした?」と即答が返って来た。

 潮は優都と雅哉にさきほどのミーティングの内容についていくつか短い質問をして答えをもらったあと、「ゆっきーも優都先輩に聞いときたいことあるらしいんすけど」と由岐を促した。優都は「うん?」と体ごと由岐に向き直り、いつも通り背筋を伸ばして由岐に視線を合わせた。その、一分の隙もなくまっすぐな視線からどうしても一瞬逃げ出したくなる。このひとが、真摯でまっすぐでだれからも信頼されるようないい先輩が、自分のことを正面から見てくれているという事実がうまく受け止められなかった。怖いという感情のなかに、たしかにその感覚が含まれている。

「あ、えっと、優都せんぱ……」

 乾いた喉の奥から声を絞り出し、優都に話を切り出そうとしたとき、京や潮が彼をそう呼ぶのに引きずられたのか、いままで口にしたことのなかったその呼び名が思わず滑り出た。自分でそのことに驚いて口をつぐんだ由岐に対し、優都の方も一瞬目を丸くしたけれど、彼はすぐにいつものように微笑んで、「どうしたの?」と問うた。

「あの、前から、あんまりうまくいってないなって思うところがあって、よかったら相談乗っていただきたいんですけど、」

 不自然なまでに緊張しているのは自分でわかっていたし、考えていることは思ったよりも言葉にならなくて、相談の内容も、たしかに実力も実績もあるこのひとに対してなにか的外れなことを聞いているのではないかと思うとどうしても回りくどい言い方にしかならなかった。由岐がしどろもどろになりながらもなんとか絞り出した、聞きやすくも理解しやすくもなかったであろう言葉のあいだ、優都は相槌を除いては一度も由岐の言葉を遮らなかったし、聞き終わるまで真剣な表情を崩しもしなかった。途中途中、何度か言い淀んだ問いを最後まできちんと待ってから、優都はいくぶん時間をかけてそれをゆっくりと咀嚼し、「なるほどな……」と呟いた。

「そうだな、由岐がそれで悩むのはたしかにわかる気はするんだけど、僕も意識して見てたことはなかったからな……。由岐、明日十五分早く朝練来れる?」

「え、はい、大丈夫ですけど――すみません、わざわざいいんですか?」

「もちろん。きつかったら無理しなくてもいいけど、来てくれたら見るよ」

「すみません、ありがとうございます。先輩も、お忙しいのに」

「たかが十五分を遠慮されるほど忙しくないよ。それに、由岐が頼ってくれてちょっとうれしい」

 はにかむように笑って肩を竦めた優都の表情と言葉に由岐がぽかんとしていると、雅哉が横から、「こいつ、由岐が自分にはなんかよそよそしいって若干悩んでたんだぜ」と優都をからかった。「余計なこと言うなよ」と雅哉を小突いて、優都は照れたようにこころなしか由岐から視線を逸らした。

「森田は後輩に頼られんのわりと喜ぶタイプだし、怖がんなくて平気だよ」

「えっ、僕、怖がられてたの」

「あ、いや、違うんです、……中学のときの部が、上下関係すごく厳しくて、先輩と話すときなんて怒られるときくらいしかなかったんです、それで――」

 慌てて弁明する由岐に、優都はなるほどと笑って、テーブルの上の湯飲みからお茶を一口飲み、ちらりと潮のほうを見やった。

「こいつを見ろよ、大抵僕に対して敬意の欠片もないだろ」

「ちょっと優都先輩? 俺世界でだれよりも先輩のこと尊敬してる自信あるんすけどひどくねえすか、俺の愛は伝わってねえんすか、増量キャンペーンします? 望むところっすよ?」

「おまえが優都先輩に見捨てられてねえのまじで奇跡だと思う」

「けーくん俺には辛辣よな?」

 京と潮の恒例のやりとりに優都は表情を緩め、「そんなに元気ならおまえたちも朝練早く来る?」と茶化した。

「ありがとうございました、森田先輩。明日よろしくお願いします」

 部屋を出るとき、由岐がもう一度優都に頭を下げると、優都は「うん」と頷いてから思い出したように由岐の名前を呼び、「優都でいいよ。さっき呼びかけてただろ」と言っていつもの仕草で首を傾げて微笑んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る