第三章
3-1
合宿に向かうバスの中は中学三年間いつも憂鬱だった、と由岐は後ろに流れていく田んぼと畑の繰り返しを眺めながら思い返していた。もっとも、二十二人乗りのマイクロバスをひとりで二席占領できるこの部の人数は中学の頃の記憶にはそぐわない。後ろから二列目の窓際に座る由岐のちょうど反対側では拓斗が窓に寄りかかって眠り込んでいて、ひとつ前の列では潮と京がわざわざ隣同士に座って携帯のゲームに興じている。そのさらに前の席では、優都と雅哉も並んで座っていて、こちらはなにやら合宿についての話し合いを重ねているようだった。彼らの横の列では千尋も書類に目を通しており、優都がたまに通路に身を乗り出して千尋の意見を求める姿も目に入ってくる。普段はほとんど練習に姿を見せない顧問の数学教師は最前列を陣取っていて、いつも通り優都たちの話し合いに口をはさむこともしていなかった。
車内をぼんやりと見渡し終えて、再び窓外に目を向けると、ちょうどバスがトンネルに差し掛かり目の前の景色に一瞬でブラインドがかかる。学校を出発してからおよそ一時間、道程はもう半ばほどだろうか。長いトンネルを抜けたあとも風景はあまり変わらなかった。視界の端で、千尋がクリアファイルを隣の椅子に投げ出して、後ろが空席なのをいいことにリクライニングを思い切り倒した。
「ゆっきーって中学んとき合宿あったんだろ?」
前の席から身を乗り出してきた潮が、ふいに由岐にそう問うた。
「うん。夏と冬に一回ずつしてた」
「まじか。強いとこってそうなの?」
「どうだろ。うちは結構、合宿とか遠征とか多かったけど。うっしーたちって合宿したことないんだっけ」
「そうなんだよ。まあ、そもそもひと少なかったし、やったことある世代も残ってなかったし。今回のは優都先輩がめっちゃ先生説得してくれたらしい」
「ふうん。じゃあ、森田先輩と矢崎先輩もないんだ」
「おうよ。今回のがうまくいったら、次からは中等部にもやらせてやりてえなって感じっぽい」
間延びした声でそう言いながら、潮はバスの前方の席で話し合いを続けている上級生たちに視線をやった。生徒の自主性を重んじると言えば聞こえはいいが、翠ヶ崎は基本的に放任主義の学校で、合宿であろうとも顧問は最低限の助言と外部との仲介以外はしてくれないし、弓道部は指導者もいないために練習の内容もすべて上級生に一任されている。それは外部の中学から翠ヶ崎に進学してきた由岐にとってはかなりの驚きだったものの、内部中学からの生え抜きである潮や京はさも当たり前のようにそれを受け止めていた。
「ゆっきー空手部だったんだっけ? 合宿どんな感じだったの」
会話に加わってきた京の問いに、由岐はすこし眉をひそめて数秒眼を閉じた。思い出せることはいろいろあるものの、思い出したいことはさほど多くもなくて、結局いくら記憶を辿っても、最後に残るのは溜息だけだった。
「考えてみたけど、全然いい思い出なかったわ……練習吐くほどきつかったし、監督怖いしみんな疲れてピリピリしてたし……」
「ゆっきーまじ中学んときの部活に闇抱えてんな……」
中学の空手道部は、都内の公立中学の中ではそれなりの強豪だった。小学校のときに習い始めた空手は、やりがいはあったし嫌いになったわけでもないけれど、部活そのものにはあまりいい思い出もない。高校に進学したあと、部活を替えることにほとんど躊躇しなかったのもきっとそれが原因だ。競技を好きでいることと、部活を好きでいることはたぶんまったく違うことで、いまでもテレビで試合を見たり、中学時代の友人の応援に行ったりということは自然にできるものの、空手を続けている友人たちを羨ましいとは自分でもおどろくくらいに思わなかった。
「だから、合宿とか楽しみって思ったことないし、今回も付いてけるかなって不安はなくもないけど、でも中学んときよりはちょっとわくわくしてるかも」
「いや俺はこの合宿中にゆっきーから例の女子高の彼女の話聞くまでお前のことは寝かせねえって決めてってから覚悟しとけよ。なあけーくん?」
「それはたしかに譲れねえな、ゆっきー早く寝たかったら喋るネタ考えとけよ」
「え、一瞬で帰りたくなった……」
腕を組んで至極真面目な顔で言ってのけた潮に京が同調する。由岐はあからさまにいやそうな顔を作って見せ、背もたれに身を預けた。山道に差し掛かったバスが短い間隔でカーブを繰り返す。窓の外の景色はいつのまにか緑一色になっていて、車体が向きを変えたとき、太陽の光が直に窓から入ってきて眼が眩んだ。
「あー……すまん優都、酔ったわ……」
「ちょっと、大丈夫? まあ、山道長かったしな」
目的地に到着してバスを降りると、千尋がひどい顔色でしゃがみこんで優都に様子を窺われているのが真っ先に目に入った。「大丈夫ですか?」と由岐が声をかけると、「吐くほどじゃない」と曖昧な答えが返ってくる。初等部の頃から千尋はあまり身体が強くないという話を京から聞いていた。事実、生徒会の仕事があるのも合わせても、弓道部の練習に穴をあけることが断トツで多いのも彼だ。
「いいよ、昼ご飯食べられるようになったら練習入って」
「悪い、ありがと」
中等部時代からずっと一緒なだけあり優都は彼の扱いには慣れたもので、手早くいくつか指示を出すと千尋もすぐにそれを呑みこんだようで礼を言って頷いた。優都は練習や部の運営の点では雅哉に助言を求めることが大半で、千尋がそう言ったことに口を出す機会はさほど多くない。けれど優都は千尋のことをかなり手放しで尊敬しているし、見ている限りでは逆もしかりだ。タイプも性格も似ているようには思えないわりに、この二人の会話が部内では一番短い。
宿のひとへの挨拶をすませたあと、優都から鍵を受け取って部屋に向かう。畳張りの和室は多少年季を感じはするものの、一年生四人で寝起きするには十分な広さだった。部屋は一年と二年で分けられていて、「なにかあったら遠慮なくおいで」と優都が言った二年の部屋は、由岐たちの部屋のちょうど真下に位置する一階の客室だ。
大きな窓の向こうには、バスの中から見たのとさほど変わらない山の景色が広がっている。「虫が入るので網戸を開けないでください」という張り紙に由岐が視線をやったと同時、潮が蚊を叩こうと手を鳴らし、「仕留め損ねた」と文句を言った。
合宿所は長野県の山中で、東京の中心に比べればたしかに多少は涼しい気もするが真夏の気温には変わりない。弓道は体を激しく動かす競技ではないが、的前では常に集中を要求されつつ、型に気を配って軽くはない弓を引き絞るのには見た目以上に体力も精神力も必要だ。朝六時開始の朝練に始まって、休憩をはさみつつも午前練、午後練と、風呂や夕食のあとのミーティングをこなし、夜十一時に布団に入るころにはだれもかれもが疲れ切っていた。練習が午後の半日だけだった初日こそは休憩時間や消灯前の自由時間にゲームをしたりくだらない話をしたりという余裕もあったけれど、二日目の夜には潮と京は「疲れた」が発話の大部分を占めるようになっていたし、由岐自身も体力的にはまだしも、いろいろな面で余裕があるとはとても言えなかった。
「こういうのって二日目くらいが一番きついよ。もうちょいしたら生活には慣れるもんだと思う」
「それ古賀先輩も同じこと言ってたわ……信じるぜゆっきー」
「っていうか、ゆっきーよく練習付いてくるよな、俺らでもきついのに。元の体力の差?」
「いや、全然付いてけてないよ。やっぱ手加減というか、配慮してもらってるなってのはあるし」
四月に初めて弓を握った由岐は、的前に立てるようになってからまだ日が浅い。入部してからしばらくは優都や雅哉に基礎を叩きこまれる日々が数か月続き、同期と同じ練習ができるようになったのはつい最近のことだった。自分だけが初心者であることに負い目があるというわけでもないし、先輩も同期も由岐にそれを感じさせないように気を遣ってくれていることもわかっているが、単純に三年の差は大きいと、こういうときに強く感じる。
「いやでも、俺中一の夏で絶対こんな引けてなかったし、ゆっきーまじすげえと思う」
「うっしーに褒められるとなんかうれしいな、ありがと」
「ゆっきー俺に褒められてもうれしくねえの?」
「けーくんのことはあと一か月くらいで抜くから首洗って待っとけって」
「言ってねえよ! 早く追いつけるようには頑張るけど……」
横になって談笑する由岐たちの横で、拓斗は部屋の一番奥を陣取ってすでに布団に潜り込んでいた。そもそもあまり口数の多いほうではない拓斗は、こちらから話を振らない限りは雑談に入ってくることも多くないが、この合宿中はそれがさらに顕著だ。練習中はいつも通り、恐ろしいまでの的中率で矢を的に叩き込んでいるものの、休憩中や自由時間はいつも隅のほうで目を閉じて眠たそうにしているばかりだ。ミーティングでも集中力に欠けた態度をときおり見せる拓斗に、優都や雅哉が厳しい声で注意を促す場面も何度かあった。
夏合宿の三日目はどんよりと曇った天気で、午後からは雨が降ることも危惧されていた。雨雲が近いせいもあってかかなり蒸し暑く、立っているだけでも体力がじりじりと削られていく。ハードな練習と暑さの中、最初に参ったような様子を見せたのは、初心者の由岐でも体のあまり強くない千尋でもなく、経験も体力もあるはずの拓斗だった。
「風間今日中んねえな」
午前の練習の休憩時間に潮が呟いた声を聞きとめて、的中を記録しているホワイトボードに目をやると、たしかに拓斗にしては的中率が低いように見えた。拓斗自身もそれには苛立っているようで、「機嫌悪いな」と京が返したのに潮は頷いた。もともと彼は気圧の変化が苦手らしく、天気が悪いときは比較的調子も悪いが、それを加味したうえでもいつも以上にうまくいっていないのが由岐からですら見て取れる。休憩時間もだれとも話をしようともせず、声をかけられても生返事だけを返す拓斗に、優都はわずかに眉をひそめていたけれどその場ではなにも言わなかった。
「風間、体調でも悪いのか?」
見かねた雅哉が声をかけると、拓斗は「いえ」と煮え切らない返事をした。
「調子悪いだけなんで。……すみません」
「それは謝ることないけど。あんまり集中切れるんだったらすこし休むか?」
「――大丈夫です、ありがとうございます」
軽く拓斗が頭を下げたところで、優都が集合の合図をかけた。一部始終を一緒に眺めていた潮がこっそりと肩を竦める。
午前の練習いっぱい拓斗の調子は上がらず、雨が降り始めた午後の練習ではそれに輪をかけてひどいありさまだった。中学のときから調子にむらの出やすい選手ではあったという評は耳にしていたものの、由岐は拓斗がここまで中らないのを見たことがなかった。的中表に連なるバツ印の数には、拓斗自身が相当に苛立っているようだった。
「風間、さすがに雑になりすぎだ。そのまま引いてもなににもならないのはおまえなら自分でわかるだろ」
それまでは助言の類は雅哉に任せて、概ね黙って様子を見ていた優都がついに拓斗に口を出したとき、拓斗は「すみません」とぶっきらぼうに返しつつほとんど優都と目を合わそうとしなかった。拓斗は弓道に限らず運動全般の基礎能力がもともと高く、結果を出すのに必要な技術だけを選んでそれを磨く能力に非常に優れているし、由岐がときおり話を聞く限りでも彼はその効率を重視する性格だ。それもあって、彼は地道な努力をひたすらに積んで自分の基盤を固めていくタイプの優都とは、性格においても弓道のスタンスにおいてもそもそもひどく相性が悪いのだろう。
「――一度道場を出て頭を冷やして来い。いまのおまえの態度はさすがに看過できないし、体調にしろコンディションにしろ、自分で管理できない状態なら的前には立たせない」
いつになくきっぱりとそう言い切った優都の声を聞いて、道場全体が一瞬静まり返った。勢いを増した雨が庇を叩く音が響く。拓斗は無言で優都の横を通り過ぎると、道場の入り口で浅く頭を下げて、そのまま足早に立ち去り、午後の練習中戻って来なかった。
片付けが粗方終わるころ、練習が終わったあたりからいつの間にか姿を消していた千尋がふらりと戻ってきて、「風間と話してきたわ」と優都のところに近付いて行った。彼は二年生のなかでは一番拓斗と仲がいい。千尋は優都や雅哉に比べて、相手にあまり深入りしようとしない印象を受けるが、拓斗にとっては千尋のドライなところが余計な面倒を感じさせず楽なのかもしれない。
「あいつかなり睡眠時間長くとんねえと動けないんだって。短くても八時間は寝かせろって感じらしい。だから、体調悪いってわけでもねえにせよきついんだろうな」
そんで苛々してたのもあるんだろ、と肩を竦めた千尋に、優都は「なるほど」と呟いてすこし眉をひそめた。
「そっか、そういうのもあるのか。ちょっと言いすぎたかな」
「いやまあ、あいつの態度も態度だったし。とりあえず、今日はミーティングはいいから早く寝ろって言っといたけど、それでよかった?」
「うん、ありがとう。助かる」
優都は横で話をしていた雅哉にも目配せをしたあと、下級生のほうを振り返って「そういうわけだから」と言った。
「おまえたちは体調とか大丈夫? なにかあったら無理するまえに言ってね」
その問いに、三者三様に頷くと、優都は安心したように笑って、「あんまり部屋で騒いでやるなよ」と、主に潮のほうを見ながら釘をさした。
「めっちゃ俺の方見て言いません? 大丈夫っすよ、俺が優都先輩の言うこと聞かなかったことあります?」
「ないとは思わないけど」
「いやまあそれはそうかも。すんません。でも、さすがに風間起こしちゃ悪いんで大人しくします」
「うん、頼むな」
夕飯遅れないように、という優都の言葉に道場を追い出されたあと、一度振り返ると、優都が雅哉になにかを言われて肩を竦め、小さく溜息をついたのが見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます