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 結局、七月の予選会では優都は全国大会への出場権をわずかのところで逃し、その後彼は中等部での主将の職を一旦潮へと譲った。中等部と高等部の敷地が離れている翠ヶ崎では基本的に部活動も別の体制をとっていることが多く、内部進学は決まっていたがそれに則って形式上の引退をした、というかたちだ。優都は目標が叶わなかったことを悔しがっている様子ではあったけれど、立ち直るのも存外早く、「次は高校総体インターハイかな」と言って、中等部の練習にときおり顔を出しつつ、高等部の方の道場を借りて自分でも練習を続けていた。

 千尋と優都が高等部に進学したとき、弓道部には予想外に新たなメンバーが加わった。形ばかりの仮入部期間を取っていた弓道部に、自前の弓を持って現れた少年は、背の高い千尋よりもさらに長身だった。高等部から翠ヶ崎に入学してきた彼は、優都のことを中学時代から知っていると告げた。優都は古賀雅哉と名乗った彼の顔をしばらくじっと見つめたあと、「櫻林おうりん中のCチームにいたことある?」と問うた。

「え、一瞬いたけど――よく覚えてるな、そんなの」

「やっぱり? 次の年から見なくなったし、先輩なんだと思ってた。同期だったんだな」

「ああ……俺、二年の冬で部活辞めたから。あんまり性に合わなくて」

 優都は自分で特技のひとつに挙げるほどひとの顔を覚えることが得意で、一度見ただけの相手でも即座に思い出すことができる。面食らったように雅哉が語ったその事情に、優都は「そうだったんだ」と頷き、いつものように小さく首を傾げた。

「あの学校で、二年のときから団体のレギュラーだったのはすごいな。上から二番目のチームじゃなかった?」

「いや、あのときはたまたま。森田こそ、翠大附すいだいふ、団体ではそんなに名前聞かねえのに、個人ではいつもいいとこまで残ってて、すげえなって思ってた」

「見ての通り、ひとの少ない部だからね。古賀は、どうして翠ヶ崎に?」

「櫻林の部辞めたとき、高校も別んとこ行こうと思ってたんだけど、櫻林の高等部の先輩にここ勧められてさ。層は厚くないけど、いい選手がいるって」

 死ぬほど受験勉強したら、なんとか引っかかった、と笑った雅哉の話に、優都と千尋は一瞬顔を見合わせた。雅哉の出身校は、かつて宮内を引き抜いた学校の中等部だった。優都がその話を雅哉にすると、雅哉も眼を丸くして、「宮内先輩、ここの出身だったのか」と呟いた。

「それで翠大附推してきたんだな。……櫻林は中等部から人数も多かったし、めちゃくちゃ実力主義だったから、レギュラー入るための蹴落とし合いとかも結構あって。それで強豪なのはわかってたつもりだったけど、どうしてもそういうのが好きになれなくて、上のチーム入ろうとする気にもなれなくって辞めちまったから、人数少ないとことかのほうが、うまくやれるかもってのは、多少思ったし、翠大附勧められたあとから森田の弓はよく見てたんだけど、すげえいいな、こいつと弓引いてみたいなってのも、勝手に思ってた」

 そう語った雅哉は、弓道の経験者特有の慣れた動きで膝を折って座り、優都と千尋の前でそのまま頭を下げた。

「俺でよければ、一緒にやらせてほしい。一応、部活辞めたあとも個人的に弓は引いてたし、受験のブランクも、練習して埋めるから」

 一息に言い切った雅哉の前で、優都は同じように姿勢を正して座り、こちらも淀みない動作で礼を返した。百八十をゆうに超える背丈の雅哉の前では優都はいつも以上に背が低く見えたが、その反面、彼の存在感はその体格の差をものともせず、優都はまったく対等な目線で雅哉を見て微笑んだ。

「こちらこそ。――ほんとうにありがとう。月並みなことしか言えないけれど、すごくうれしいし光栄だ、いまは閑散とした部だけど、その代わり、練習ならいくらでもできる。一緒に頑張ろう」

 優都が差し出した手は、それを握り返した雅哉の手よりも二回りも小さかった。雅哉もそれに気付いてか、「森田、近くで見るとわりと小さいな」と笑い、優都はその評価にすこし不服そうな表情を見せたものの、「そっちが規格外に大きいんだろ」と切り返した。そのあと、珍しくひどくうれしそうな表情を隠しもしないまま千尋を見やってきた優都に、「よかったな」と千尋が声をかけると、彼は素直に頷いた。


 途中で退部したとはいえ、人数も多い強豪校で団体戦のメンバーに選出されていた雅哉の実力は折り紙付きだった。宮内が卒業して以来技術的な面で優都と対等に話ができる相手がいなかったこともあり、いろいろな面で優都に対してはっきりと的確な意見を言って来る雅哉のことを優都が信頼するようになるまでにはそう長い時間はかからなかった。信頼できる同期が増えた安心感もあってか、高校一年の序盤、優都は目覚ましい勢いで成績を伸ばしていた。一年生ながら個人では数々の大会で入賞を果たし、森田優都と翠ヶ崎高校の名前は周りに知られるようになっていったが、優都はそれに満足することはなく、まだ足りないと言わんばかりに努力の手を緩めなかった。毎日七時前に登校して朝から弓を引き、放課後の練習も手を抜くことなく集中してこなし、そのうえで授業の課題や予習復習も怠らず、受験勉強をして高等部から入学してきた生徒が混ざってきてもなお成績も落とさない優都の姿に、雅哉は高校二回目の定期試験が終わったあと「化け物かよ」という言葉を零した。

「森田は、あの生活してて、いつあの成績がとれるほど勉強してるんだ?」

「まあ、あいつもともと賢いけど。中学んときから、テスト前は死ぬほど勉強してるし」

「それでどうにかなるもんか? 矢崎みたいに、地頭だけで乗り切ってる感があるわけじゃなくて、ちゃんと真面目にやってんだろうなってところが余計意味わからん」

「どさくさに紛れて俺をディスるなよ」

 まとめて返ってきたテスト結果を前に深い溜息をついた雅哉は、元来そこまで勉強が得意ではないようで、ぎりぎりの成績で入試を通ってからは、優都の練習量に合わせていては、学業のほうは赤点を取らないようにすることで必死だと頭を抱えていた。優都のいないところで雅哉の嘆きを聞きながら、千尋も自分の成績表に視線を落とす。普段はそれほど真面目ではないものの、テスト前だけは優都に付き合ってそれなりに勉強する時間を確保しているうえ、自覚している要領のいい性格もあいまって、千尋は中学時代から学年で二十位には入る程度の成績は保っていた。今回は学年で五位の順位に入った優都は、点数を見るなり、「数学、もうちょっとできたな」と反省を述べていた。

「櫻林にいたときもだけど、自分はそれなりに真剣にやってたと思ってたし、いまも思ってるけど、森田みたいなの見てるとさすがに自信なくすわ」

「あれは、やろうと思えばだれにでもできるって類のことでもないと思うぜ。……優都自身だって、いまはそこそこうまくいって、結果も出てるから大丈夫なんだろうけど」

「森田って、結果がどうとかで変わるタイプか? うまくいってもいかなくても、あの生活してるイメージある」

「本人はどうこう言わねえけどな。だけど、あいつはバカ真面目だし、なんでもちゃんとやるから周りのほうが、あいつなら大丈夫って思っちまうとこあるし、――期待されて、信頼されて、自分でもできる限り努力して、そんで結果出なかったときに平気でいられる人間なんていねえよ」

 努力さえすれば結果が出るという単純なクリシェを頭から信じられるほど、優都が愚かではないことを知っていて、千尋が呟いた言葉を、雅哉は何度か瞬きをして聞いたあと、肩を竦めて小さく笑った。「なんだよ」と眉をひそめた千尋に、「いや、」とあいまいに言葉を濁した雅哉は、手元の成績表を二つ折りにして机の上に置き、頬杖をついて千尋を見やった。

「なんで、全然性格も違うのに森田と矢崎が仲いいんだろって思ってたんだけど。おまえ、意外とちゃんとひとのこと見てるよな。そういうとこか」

「あっちがどうかは知らんが、優都のことが気に食わなかったら俺は部活なんて半年で辞めてたわ」

 弓を引いているその瞬間に、自分の弓に対して真摯であるならそれ以外にはなにも求めないけれど、それだけは譲らないという旨のことを優都は部員に対して何度か言葉にしたことがある。これまでの三年間とすこし、その言葉には反していないとそれなりに素直に思えているのも奇跡だ、というのは千尋が折に触れて感じていることでもあった。弓が、自分の生活の中心になることはないとわかっているし、学校のため、部のため、優都のために上手くなろうということを思ったこともなかった。それでも、弓を引く時間が不要だとも思えていない以上、それがなんらかの意味を持っていることを疑う理由もないとわかっている。雅哉は千尋の言葉になにかを納得したようで、「なるほどな」とひとりごちて、それ以上その話題を続けることもしなかった。


 高等部一年の八月、都内で行われた個人戦の大会で、優都は初めて東京都のトップに立った。三年がもう引退している部もあるとはいえ、他の入賞者はほとんどが二、三年生である中、一年生の優都が優勝を飾るのは快挙だ。予選から決勝までを皆中で終え、文句なしの優勝を決めた優都はその日、おどろくほどに絶好調だった。目標を口にすることはあるものの、あまり大言壮語を吐くことを好まない彼が、準決勝の前に「今日は外す気がしない」と言い出したことには二人して驚いたが、優都はそのままその言葉を現実にしてしまった。正射必中という言葉がまさにふさわしいほど、優都の射には一点の乱れもなく、優勝が決まる決勝の場でも、見ている側に緊張ひとつさせなかった。これが外れるはずがない、と、優都が会を持つ瞬間にはそれを見ているだれもが確信していた。

「優都先輩! おめでとうございます、まじですごかったです」

 表彰式が終わったあと、中等部から応援に来ていた潮たちが優都に駆け寄ると、優都はいつもと変わらない笑みを浮かべて「ありがとう」とそれに応えた。

「いや、もう、優都先輩なら絶対いつか優勝するって思ってたんですけど、まじで感動しました。俺らすげえひとと部活してたんすね……」

「いつでもこれができればいいんだけどね。全中予選や都総体では調子よくなかったし、安定させないことには、まだまだだよ」

 潮の絶賛に優都がはにかむように肩を竦めた横では、雅哉が「もっと素直に喜べよ」と優都の頭を叩いていた。東京都個人選手権の上位大会は関東大会であって、ここで優勝しただけでは優都が目標とする全国レベルの大会には届かない。けれど、いまは一年生が三人しかいない翠ヶ崎高校で、主将の優都が優勝を果たし、副将の雅哉もぎりぎりではあるが入賞に滑り込んだという結果は十分すぎるほどの成績だ。

 高等部から入学してきた雅哉をよく知らない後輩たちが、優都を介しながら雅哉に挨拶をしたり、入賞をねぎらったりしているのを千尋がすこし距離を置いて眺めていると、ふいに「矢崎」と後ろから知った声で名前を呼ばれた。

「お疲れ」と千尋に声をかけてきたのは、優都と千尋のかつての先輩だった。

「宮内先輩。お久しぶりです。――そういえば、都個人出てらっしゃらなかったんですか」

 三年生であるはずの宮内は、インターハイ予選を兼ねた六月の都総体までは試合会場で姿を見ることもあったけれど、この日は制服姿で立っていて、思い返してみれば予選から彼の姿を見た記憶は一度もなかった。

「うちは三年はインハイで引退したよ。今日は後輩の応援来てたんだけど、まさか森田に負けるとは、俺としては微妙な気分だわ」

「ああ、そういや、インハイお疲れさまでした。櫻林、団体で出てましたよね」

「おう、どうも。まあ、俺は補欠だったけどな」

 いまだ談笑する輪の中から、千尋が優都と雅哉の名前を呼ぶと、振り返った二人は千尋の隣にいる宮内に気付いてすぐに駆け寄ってきた。「いらしてたんですね」と笑みを浮かべる優都と、「お久しぶりです」と頭を下げる雅哉を前にして、宮内は優都の優勝をねぎらい、「上手くなったな」と声をかけたあと、雅哉の方を向いて、「まじで翠ヶ崎に行ったんだな」と笑った。

「俺が言うのもなんだけど、いい部だろ」

「本当に。宮内先輩には頭が上がりません」

「俺はなんもしてねえよ。向こうに櫻林の奴らいるけど、会ってきた?」

「いや、途中で辞めた手前声かけづらくって……」

「大丈夫だろ。おまえがいるの見て懐かしがってたぞ」

 雅哉が大会で同じ場に来るたびにかつてのチームメイトを多少気にしていたのは、優都や千尋の眼にも留まっていた。「ちょっと挨拶してきます」と場を離れた雅哉を見送ったあと、宮内は再び優都と千尋のほうに向き直り、もう一度優都に対して「おめでとう」と口にした。

「あの状態からここまでちゃんと部を立て直して、自分がこんだけ結果残すのは、相当のことだっただろ。おまえはほんとにすごいよ」

「そんな。いまだってしっかりできている自信があるわけではないですけど、そう言っていただけるのはうれしいです」

「――なんか違和感あると思ったら、おまえ標準語喋れるようになってるのな」

「ちゃんと喋れるようになるまで一年近くかかりました」

 恥ずかしそうに笑う優都は、背が伸びたことと言葉が変わったこと以外には三年前とそれほど大きな違いはないと千尋は思っていたし、宮内も三年前とほとんど変わらない態度で優都に接していた。宮内が卒業して以来、優都と千尋には部活動のうえで先輩と呼べる相手はずっといないし、これからもそれは変わらない。久しぶりに後輩の顔をしている優都は、いつもと比べるとこころなしか気の抜けたような表情で笑っていた。

「こんなこと言える立場じゃもう全然ないけど、俺は、おまえのことを誇りに思うし、尊敬してるよ」

 宮内がふいにそう言うと、優都は宮内を見上げ、すこし目を細めて「光栄です」とだけ返した。宮内は自分の顔をまっすぐ見てくる優都から視線を外し、そのまま目を伏せた。

「俺は、部員も集められなかったし、残ってもらうこともできなかったし、そのツケを全部おまえらに押し付けて自分だけ出ていった、翠ヶ崎のためにはなんもできなかった最低な主将だったから、こういうの言うのは違うのかもしれないけど、――それでも、俺は、試合会場で翠ヶ崎の名前が聞けることが、いまでもうれしい」

 宮内のその吐露を、無責任だと受け取ることは簡単だったけれど、優都が決してそうは思わないであろうことも千尋にはわかっていた。千尋自身、弓道部のことに対して宮内に責任を問う考えを持ったことはなかった。どこかで生じた綻びは、努力や献身とは関係のないところでいとも簡単に広がっていく。彼が入部したときにはすでに生じていたであろうそれを、繋ぎ合わせることができなかったのがこのひとだけの問題だとは思えなかった。

「なにも知らなかった僕と千尋に、弓の引き方やその価値を教えてくださったのは宮内先輩ですし、僕が後輩にしていることだって、僕が先輩にしていただいたことばかりです。宮内先輩がいなかったら、僕も千尋も古賀も、いまここにいないし、翠ヶ崎の弓道部だって僕らが入る前になくなっていたと思います。――僕が主将として目標にできるのは、宮内先輩しかいないんですから、そんな言い方をしないでください」

 優都は三年前から、こういう類のことを迷いもせず、しっかりと言葉を選んで相手に伝えることができてしまう人間だ。かつての後輩にそう頭を下げられた宮内は、困ったように笑って、「ありがとな」とだけ言った。

「……なんか、やっぱり標準語のおまえ違和感すごいわ」

「え、それを僕いちばん頑張ったんですよ」

 すこし不服そうな表情を見せた優都は、そのときにはすっかり後輩の表情に戻っていて、宮内と談笑する優都の姿に、千尋は中学一年のころの彼の姿を思い出していた。背が低くて喋るのが遅く、不器用で周りについていくことができていなかったあの頃の面影は、たしかにいまの優都にも残っているというのに、優都はこの数年間それをあまり周りに悟らせることはしてこなかった。ただひたすらに頑張ることで姿勢を正している友人の姿を、誇りに思わないわけでもない。その努力が報われてほしいとも思うし、今日のような成功が、きちんと彼の追い風になってほしいとも願っている。けれど、努力や献身とは関係のないものがたしかにあって、優都を支えている根柢の部分はそういったものに対してあまりに無力であることを、自分だけは忘れてしまってはいけないのだろうとも思っていた。

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