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 放課後、優都とともに向かったその部は予想していた以上に閑散としていて、朝、優都に声をかけた宮内という名前の三年生以外の姿はひとりもなかった。在籍している部員がまったくいないわけではないが練習には自分以外ほとんど来ていない、という趣旨のことを彼は存外素直に優都と千尋の二人に話した。明言はされなくとも、存続自体が危ぶまれている状況であることは明らかだったが、千尋の隣で、優都は落胆も動揺も見せない表情で座っていた。

 その後何度か仮入部として練習に参加したあと、優都は「やっぱりちゃんとやってみたい」という理由だけで、部員もいなければ指導環境も整っているとは言えないその部活に入部することを、特に千尋に相談するでもなくひとりですんなりと決めてしまった。彼はは一度たりとも、千尋に一緒に弓道部に入ろうと言ったことはなかったけれど、千尋が自分と同じ部活に入ることを決めたときには、うれしそうに「よかった」と微笑んだ。

 同期は千尋だけ、先輩もきちんと練習に来ているのは二学年上の宮内だけ、という状況にも関わらず、優都は弓道というものにすっかりのめり込んだようで、宮内の指導を受けながら真剣に練習を重ねていた。もともと、こつこつと努力を重ねることだけは得意だと語る優都は、その言葉の通り、教えられたことを日々しっかりこなして着実に実力をつけていった。

 当時の主将であった宮内は都内でも名の知れた選手であり、弓道への姿勢と実力はかなり優れたものを持っていたが、そのぶん他人にも相応の努力と献身を求める性格でもあった。同期や後輩が部から去っていったり、新しく加わることがなかったりしたのはそれが仇となったところもあったのだろうと千尋は推測していたが、その横で、優都は宮内の求める以上の努力を持って彼の指導に応えていて、教えていた宮内がおどろくほどのスピードで上達を見せていた。彼は決して要領のいい人間ではないものの、教えられたことを時間をかけてしっかりと咀嚼し、着実に飲み込んで自分のものにしていく能力は人一倍高い。それゆえ、宮内が優都の弓の腕に信頼を置くようになるまでにはそれほど長い時間はかからなかった。

 千尋自身は優都ほど弓道に全力を注ぐ心持ちになれていたわけではなかったとはいえ、それなりに真面目に練習に参加はしていたし、こぢんまりとした空間で、それでもあまり窮屈にはなりすぎずに放課後の時間を弓を引いて過ごすことにはたしかに心地よさを感じていた。それは優都も同じようで、クラスにいるときはどこか気張ったような表情や言葉の使い方をしているのに対して、部にいるときはあまり喋り方を繕うことをしなかった。すこし首を傾げてはにかむように笑いながら、訛りの入った穏やかな口調でゆっくりと言葉を探して喋る優都は、ひとつのことを口にするのにその何倍ものことを考える必要のある不器用な男で、放っておくとすぐに周りの話にも状況にも置いていかれてしまうようなところがある。それもあってか、中身のないお喋りを楽しむ習慣がそれほどない宮内と千尋しか自分の他にいない空間は、優都にとっては居心地がいいようで、部にいるときの彼は普段よりもいくぶん饒舌だった。

「おまえは真面目だな」と、宮内は折に触れて優都のことをそう評した。

 優都はそれに対してあからさまに謙遜をすることもなかったけれど、いつも、「でも、それだけです」と苦笑していた。

「なにか、特別できることがあるわけでもないから、頑張るくらいはできひんとだめやなって思ってるだけです」

「十分長所だろ。おまえの弓は、それを裏切らないと思うよ」

 優都は弓を引くとき、ひとつひとつの動作をひどく正確に積み上げながら、その先にあるなにかを見ているような仕草をすることが多かった。弓を引き絞ったあと、一呼吸おいて的を見据え、弦から指を離すまでの、かいと呼ばれる一瞬の時間を、優都は人より長く持つ癖がある、というのは夏の大会前に宮内が優都に指摘したことだった。「別に悪いことじゃないけど」と補足したあと、宮内は「森田らしいな、と思って」と笑った。優都とともに弓道を始めてまだ数か月の身でありながら、千尋にもその言葉の意味はある程度わかるような気がしていた。優都だけが宮内のその一言を掴み切れずに、またすこし首を傾げていた姿をよく覚えている。日々周りについていくのに必死になっている彼が、唯一自分の思うままの時間を生きられるのが弓を引いているときなのだろう。うまく言葉にはできないながらその事実を千尋が悟り始めたとき、優都が弓道という武道に惹かれた理由には納得がいくような気がしていた。


 優都はその性格が示す通り嘘をつくことが苦手だが、千尋の知る限り、宮内もそれと同じくらい隠しごとのできない人間だった。三年生が出られる最後の試合の数日前に、彼は後輩二人を自分の前に座らせて、唐突に深々と頭を下げ、自分は来年からは翠ヶ崎にはいないのだということを告げた。外部の高校から引き抜きの話が来ていて、それを受けるつもりなのだと言う。彼が名を挙げた高校は中高一貫の歴史ある名門で、中等部も高等部も、弓道では都内トップレベルの選手を何人も抱えている全国大会の常連校だった。

「おまえらを置いていきたいわけじゃないんだ」と宮内は頭を上げないまま言った。

 その言葉が本心であることはわかったものの、なにもここまでバカ正直に話すこともないだろうとすこし冷めた気分でその話を聞いていた千尋の横で、優都はいつもの通り姿勢を隙なく正して座っていた。その横顔から特別な表情は窺えなかったけれど、彼はまっすぐに、まだ俯いたままの宮内を見ていた。あたりさわりのない言葉はいくらでも思いついたが、最初の一言は譲ろうと千尋が口をつぐむと、優都はしばらく時間をおいたあとに、「応援しています」と言った。

「僕は、先輩の弓が好きで弓道を始めたから、――先輩がどこに行かはっても、先輩のことは尊敬したままですし、これからも、応援させてください」

 このときからずっと、優都は嫌だとも寂しいとも宮内の前ではひとことも言わなかった。宮内は、一瞬なにかを堪えるような表情を見せたが、そのまま床に手をついて、「ごめん」ともう一度頭を下げた。

「宮内先輩引退しはったら、千尋と二人やんな」と、その日の帰り道、優都は千尋の隣で呟いた。

「来年、後輩入るまではそうだよな」

「そっか、後輩、僕らが入れやなあかんのか」

「まあ、どっちみち、来年入んねえと潰れるしな」

「そうやんなあ、頑張らんと」

 入部して半年も経たない、まだ知らないことのほうが多いくらいの時期に、主将という肩書きを押し付けられた優都が、その重圧に完璧に応えようとしてしまう人間だということを、千尋はわかっていたし、おそらく宮内も気付いていた。「無理をするな」という言葉を宮内は優都にかけられず、彼は一度、千尋を呼び止めて「森田を頼んだ」と頭を下げた。優都はそれまで以上に真剣に練習に打ち込むようになった一方で、自分で顧問や学校側に掛け合って大学の弓道部の部員にたまに指導を頼めるように調整したり、部の運営に関わることを黙々と整理したりといった事務作業もこなすようになっていた。冬に行われた大会で優都が一年生ながら入賞を果たした頃には、宮内が部に顔を見せることも少なくなっていた。

 新入生が入ってくる時期には、もう千尋の前ですらほとんど関西弁を喋らなくなっていた優都は、四月になんとか入部してきた二人の後輩の前では、常によき先輩であろうと背筋を伸ばしていた。都内での指折りの実力者だった宮内が去った部で、その頃、優都はたった一人で翠ヶ崎の名前を背負って大会で結果を残していた。その裏に、おおよそ千尋には理解できないほどの量の努力があったことを知っていた。

 「全国大会に行きたい」と優都が言葉にして主張し始めたのもその頃だった。二年の夏の予選会では、団体では予選すら通過できなかったものの、優都は個人では四位という好成績をおさめ、それ以降の大会でも、都内では五本の指に入り続ける活躍を見せていた。個人では都で二人しか出場できない夏の全国大会の出場権獲得を目指して時間を惜しんで練習を積み、その傍らで後輩の指導や部の運営を担い、けれどそのすべてを優都は特別大変だと零すこともなかった。

「おまえさあ、しんどくねえの?」

 三年に上がり、部にまた新しい部員が増えたころ、優都の仕事を手伝いながら思わずそう問うた千尋に、優都は迷うそぶりも見せずに「大丈夫だよ」と答えた。部活では主将として振舞い、外の大会に出れば翠ヶ崎の名前をほとんど一人で背負い、それでいて学校のテストでは毎回のように一桁台の順位を取る優都は傍から見れば完璧なまでに勤勉な努力家で、後輩らもクラスメイトや教師からも手放しで信頼されている存在だが、千尋にはその生活にはどうしたって無理があるように思えてならなかった。ほんの一年半ほど前までの、なかなか訛りの抜けない言葉を喋りづらそうに使い、周りの話についていくだけで精一杯だったころの優都と、こうやってあらゆるものを背中に乗せて、それでも「大丈夫」と言ってのける優都がどうしても重ならなかった。一年半で背はかなり伸びたものの、優都はそれでもまわりと比べるとやはりすこし小柄で、百八十近い長身の千尋と比べるとその差は顕著だった。

「やりたくてやってることだし、大変じゃないとは言わないけど、無理をしているつもりもないよ」

「やりたくてやってることなら、しんどくねえってのも違うだろ。おまえならどうにかするからっていろいろ押し付けんのも、どうかと思うし」

「そうかな。でも、信頼してもらえてるなら、それには応えたいと思うよ。僕、おまえみたいに要領よくないし器用でもないから、できることなんて限られてるし」

「――そういうとこだよな。知ってたけどさ」

 なにに対しても、真正面からまっすぐ向き合うことしかこの男は知らないのだということを、この頃には千尋は察していて、けれどそれを批判することはできなかった。千尋自身はなにに対しても最低限の努力でそれなりに及第点が取れればいいという取り組み方をする性格で、弓の腕にせよ学業の成績にせよ、優都にはかなわないものの優都ほどの努力をしたこともない。だからこそ、優都のその姿が眩しくないわけではなかったが、自分にはそれは絶対にできないとも確信していた。できることは限られている、と言いつつも、優都は、期待されたことはそれがなんであろうとやろうとしてしまう類の人間だ。

「だいたい、僕にいろいろ言うけど、千尋だって仕事人間だろ。生徒会、いつも忙しそうだし」

「おまえな、だれのために俺が生徒会やってると思ってんだ」

「僕が頼んだんじゃないだろ。なんやかんや、やりがい持ってやってるくせに」

「うるせえ。俺は俺のできることしかしねえわ」

 悪態をついた千尋の横で、優都はわずかに表情を緩めて、手元の書類に丁寧な字で自分の名前を書いた。一年の後期にあった生徒会選挙の時期に、なかなか立候補者の現れない生徒会の会計職に、優都と千尋のクラスの担任が優都に誘いをかけたことがあった。優都の真面目さと勤勉さと、面と向かってものを頼まれるとなかなか断ることをしない性格による人選だったのだろうけれど、すでに部活の主将に内定していた優都にその役職が重荷であることは間違いなかった。さすがに即断はできず悩んでいた優都の横で、「俺がやります」と言ったあのときが、いまのところ千尋が人生で最も他人のために動いた瞬間だった。対立候補もなしにすんなりとその役職に着任してから、思いのほか忙しかったその活動に文句は言いつつも、結局は翌年も会計職を連任し、例年の流れを鑑みれば高等部でもその生活が続くことは予想に難くない。

「――うん、これで大丈夫かな。今年も、ちゃんと一年生入ってきてくれてよかった」

 生徒会に提出する書類を揃え終えて、優都は新年度の部員名簿に視線を落としながらそう呟いた。「千尋に出していい?」と聞く優都に頷いてその書類を受け取り、一通り眼を通す。部長職も二回目となれば不備も見当たらず、相変わらず字も読みやすい。優都の書く文字はそのまま優都の性格と同じだ、と千尋は折に触れて感じていた。どれだけ速記しても軸のぶれない、小学校の教科書に書かれているように整った楷書は、それでもどこか独特なバランスをもって一文字ずつが完結している。

「潮と京の新歓能力はえげつなかったな。あいつら、コミュ力高いとは思ってたけど」

「いや、本当に助かったね。むしろ、去年、僕たちの勧誘でよくあの二人が入ったと思うよ」

「一瞬まじで廃部覚悟したしな。それこそおまえの人望だろ」

「そういうことにしておこうかな」

 優都は肩を竦めて、千尋に渡した書類の控えをクリアファイルに戻した。一年前、優都が仮入部のときに引いてみせた弓に惚れ込んだと言って入部してきた二人の後輩も着実に実力をつけて来て、この四月にその下の代が入ってきた弓道部はようやく部としての体裁を立て直し始めていた。その裏で優都が弓道部のためにささげてきた献身がどれほどのものであるのかは、千尋ですらすべてを知ることはできない。

「千尋、今日の放課後、練習付き合わない?」

「オフだろ今日……潮とか誘えよ、喜んで来るぞ」

「たまにはいいだろ」

「いいけどさ」

 七月の終わりにある全国大会の予選会のために、一年生の指導の合間を縫ってすこしでも多く自分の練習を積もうとしている優都は、相も変わらず空いた時間のほとんどを弓道に捧げていた。都内で二位以内というのは、優都にとって、難しくはあるもののコンディションによっては不可能ではないと思える程度のラインだった。それをだれよりもよくわかっている優都はこの頃、「練習していないと不安になる」と言い出すほどの練習量を自分に課していた。それにすべて付き合うことは千尋にはできなかったけれど、優都がそれに文句を言うこともなかった。彼は、自分が自分に課すものを他人に押し付けることだけは、一度たりともしたことがなかった。

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