夢をみるのとは別のしかたで
夜になると、魂は、眠りに落ち込んだ身体を置き去りにして、魂だけが知っている世界へと旅立つ。そこで様々な体験(より適切なことば遣いをするならば、その世界を巡る魂に「体」はないのだから、「霊験」とか「心験」とかと言うべきかもしれない)をする。身体がかつて味わった甘いぶどう酒を再び飲むかもしれないし、美しい記憶が結び付けられた街と非常に似た土地を歩き回るかもしれない。身体が好んでやまない食べ物を食べるかもしれないし、かつて見たことも聞いたこともなく、まったくありそうもない土地を訪れるかもしれない。人々は魂のこうした旅を「夢」という名前で呼んでいる。
人は旅をする。知らない土地を目指したがる。知らない土地に、身体が醒めたままみる夢を求めている。そしてその地に、自分が夜に眠っているときにみた夢がないことを知って絶望し、また新たな地を求める。旅をするというこの行為は止むことを知らない。というのも、魂だけが知っているあの土地は、この世界のどこにもないので、人は旅をするごとに失望し、そしてまた別の地に再び虚しい希望を抱くのだから。
昼に飲み干した一杯の酒が、きんいろに傾いた太陽の光が差し込むこの時間になるまでずっと身体を麻痺させていたのだろうか。思考は、暑い日が続いたかと思うと、ふと病に蝕まれたかのように訪れる、どことなく懐かしさを感じさせる、夏のあの涼しい日の青白く淡い空気の内へと溶け出していってしまった。身体は眠りに落ちたようにほとんどの思考を止め、今や魂に操られるままとなった。魂が行為において優位に立つと、人は、波に逆らうことなく、しかも自分で動くことを知らないくらげのように、土地から土地へと漂うことを止めず、夜、身体が本当の意味で眠っているときのように旅を求める。魂は、魂だけが知っているあの土地を、「どこにもない」という点のみから「楽園」と呼ばれるあの地を目指して、身体が再び活動を始めるまで、可能な限り遠くへと向かう。このありとあらゆるものが静かに横たわる日に、半睡半醒の身体は、このまま消え去ってしまうのだろうか。身体という制約がなければ、魂はもう帰ってくることはないだろう。旅というのは、最終的にはそういうものなのであって、決して意図してどこかへゆくことにあるのではない。旅立ちは知らぬ間に訪れて、身体ごと遠くへとさらってゆくのである。
虚無のみを捉える感覚能力の浮遊感のせいで、いま感じられるすべてのことは、ひょっとして夢かもしれない、とさえ思われた。それは思われたのだろうか?束縛からほとんど遊離した思考は物質の夜を揺らめいて自由な方向へと伸びてゆく。夢だからいつにもましてどこにでも行きたくなるし、ここにとどまっていたくないと思うのだ。夢だから周囲で発せられる声はどれも、発せられてすぐさま意味や形を失って、単なる音となって広漠とした海の立てる波音のようにどこかへと蒸散していくのだ。活字は紙面から浮かび上がって、それまでは持っていなかったし、これからも決して持つことはなかったであろう意味を作り上げてゆく。そのようにしてすべてのものが「現実性」を剥奪され、それの名前もそれが何であるかも剥がされ、解きほぐされ、新たな誕生に祝祭の産声をあげる。花も風も月も太陽も葉も木も水も猫もピアノも瞳も祈りもため息も慰めも愛されている人も、「思考されている」という呪縛から脱して、その本来性を取り戻す。花でもあり風でもあり月でもあり太陽でもあり葉でもあり木でもあり水でもあり猫でもありピアノでもあり瞳でもあり祈りでもありため息でもあり慰めでもあり愛されている人でもありそして愛するものでもあるそれが自由に戯れる。その総体は、あるいは音楽のような色で、あるいは絵画のような音で語る。その発話のどれもが一篇の詩であった。それはずっと忘れられていたメロディーのようであったし、まだ発見されていない絵画の技法が醸し出す一連の印象のようであった。名前の忘れられた、あるいはまだ名前のない音であり、色であった。そこではありとあらゆるものが、花が雨の細やかな雫を浴びることによって本来の色を取り戻すように、自らの復活を祝っていた。
それは思われていたのだろうか? 夢においてさえ、夢をみるものの思考につきまとうように思われる「私は思う」»Ich denke« という形式における「私」というものは、夢から醒めている私と夢をみている私とを貫くようなある一つのあり方であるのだろうか、ということが問題となり得るのは、例えば『不思議の国のアリス』において、第十二章でアリスが目を覚ます場面が描かれたとき、それまでのアリスの冒険はすべて夢であったと語られる可能性を帯びてくるだろうが、その彼女が物語の中で、第十一章の終わりに白ウサギによって「アリス!」と高らかに彼女の名が宣言されるに至るまで、身体の伸び縮みを何度も経験し、詩を暗唱するたびごとに誤る彼女は、自らの名に関してわずかに一度だけ "my name is Alice" と述べうるのみであり、しかもそれは「私の名前は—アリスです」という構造を持ち、決して「私は—アリスです」"I am Alice" という、自己そのものへの言及を可能にする構造をとっていないのであり、その意味で彼女は地下世界の冒険において常に名と実体との分離という、自己同一性の危機に晒されていたと言えるだろうが、そうした理解が可能になるのは、例えば『鏡の国のアリス』において、お互いにお互いの名前を忘れた子鹿とアリスとが睦まじく歩んでいたにもかかわらず、子鹿が「人間の女の子」という「名前」を思い出すとすぐさまアリスから逃げ去ってしまうエピソードが示しているように、アリスを巡っては、あるいは不思議の国の意味論においては、特定の名前が、その当の名前を持つものの本質に関わっているのであり、その限りで、"My name is Alice" という、「名前」という名前(あるいは名辞)を媒介項として設置することによって、間接的に、ある種の概念操作的な結合によってしか「私」と「アリス」との間に連関は措定され得ず、確かにデカルトが彼の『省察』において展開した夢の懐疑と、それを含む一連の懐疑に対する解答として位置付けられる、あの「私は在る、私は存在する」« Ego sum, Ego existo » という命題、あるいは『方法叙説』のあの有名な「私は思う、それゆえ私は在る」« je pense, donc je suis » という形式は決して間違ってはおらず、というのも彼の到達した真理によれば、夢の中にあっても「私は思う」という形式における「私」が実在するということそのものには決して疑いはさしはさまれ得ないからであるが、しかしその「私」、不思議の国を旅するアリスの「私」、夢の中の「私」が、醒めているときの私との同一性を保っているということは、デカルトの探求の中ではおそらく基礎付けられてはおらず、そしてその問題のゆえにアリスは自分を探し求めて不思議の国を駆け巡らなくてはならなかった(現に、デカルトが『省察』において、夢において思う「私」が現実において思う「私」と同一である、ということに言及し、そのことを論証しているすべての可能世界を実際に覗いて確認してみれば、ルイス・キャロルが描くアリスはどれも不思議の国を決して冒険することはなく、ただのんびりとしたお散歩を楽しむのみであり、またハートのクイーンには "I am Alice" と自己紹介をしているのであったのだから、「デカルトが夢における「私」と現実における「私」の同一性を証明したならば、アリスは自分を探し求めて不思議の国を駆け巡る」という推論は必然的である)のだが、そのようなしかたでアリス自身と「アリス」という名前とが互いに決して結びつこうとしない、つまり夢の中のアリスという実体の発する「私」が決して「アリス」そのものと、何らの媒介も必要とすることなく直接的なしかたでは結びつこうとしない世界、アリスが "I am Alice" とは決して発し得ず、またそれが真なる命題とはなり得ない世界、〈私〉という指標が、「目覚め」という一種の振り返りの行為によってしか措定することができず、夢という永遠の現在のただ中にあってはその〈私〉はその中で絶えず消失しつづけており、忘却を忘却している世界、こうした〈私〉を常に欠きつつ無秩序に戯れ、あらゆる意味を欠いた形式、あるいは形式なき形式(つまり純粋な〈色そのもの〉)の自己増殖によって、留まることなく、そしてゆくあてもなく無数の方向へと際限なく展開してゆく世界こそが夢の世界だからなのではないだろうか?
私の身体が目覚めたのは、太陽が山の端に消えゆこうとするとき、私の身体が発する空腹が私を呼んだからであった。私は、気がつけば自宅からは遠く離れたところまで来ていた。まだ青い柿の実にも胸を高鳴らせ、トンボの羽の透明さにも心を震わせた記憶を持った私の魂は、私の身体の目覚めとともに少しずつ活動を制限されていった。私は、その見知らぬ地の見知らぬ店で食事をした。そのとき私は上顎の広い範囲に火傷を負って粘膜が剥がれた。私が水を飲むたびに少し痛んだ。その痛みはいっそう私の魂を縛め、もう理知の支配下で自由に振る舞うことなどないように、それに楔を打ち込むようであった。身体が覚醒するまで私のうちでたゆたっていたはずのあらゆるイメージは瞬間的に霧散し、すっかり消失してしまった。さきほどまで私が何を考えていたのかさえ判然としなかった。私は何かを考え、何らかのイメージを保持していたはずなのに。覚醒した瞬間に、それまできわめて豊かにたち現れていた印象がすべて、ろうそくの火を吹き消すかのようにたちまち消えてしまう点で、さきほどまでたゆたっていたはずの私の想像力の儚い戯れは夢に似ていた。あるいは、代数学で、写像を通すと零になってしまう要素を集めた集合を「核」と呼ぶのに倣えば、夢もまたその核のようなものだ、と私の理知は教えるのであった。だとすれば、いましがたみた「夢」がいかなるものであったとしても、結局のところそれは現実においては零なのだから、この現実に、つまり歩き回ったことによる脚の痛みにも、この空腹にも、あるいは昨日のこと、今日のこと、明日のこと、こうしたいかなることにも何ら働きかけず、それを変化させるようなこともないのである、と私は推論した。結局のところ、夢は単なるイメージの戯れに過ぎず、それは私に何も教えてくれないのだろうと私は思った。
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