ため息

 月のような人へ。

 ときおり、私はこういうことを経験します。喫茶店なんかで、私もよく知っているクラシック音楽が流れているのを耳にするのですが、それらの音が本来私に与えるであろう印象とはまったく違った印象を持つことがあります。その曲がゆっくりと私に語りかけてくるような気がするのです。その曲がいったい何を語りかけてくるのかははっきりとしませんが、その夜想曲はゆったりとした調子で、私の知らないこと、あるいは知っているけれども忘れてしまったことを優しく教えてくれるような気がするのです。そのとき私は、理由はわかりませんが、なぜか泣きたいような気持ちになるのです。それも、簡単に拭い去ることのできないような。

 ある詩の一節を読んだときにもそれと似たような感情に襲われました。詩のことばが語る意味を超えて、その詩が持つ意味とはほとんど独立に、詩が私の中に、それもある特定の角度から投影されたときにのみ生じるような特殊な像のようです。その詩の一節というのは次のようなものです。


=====

流れ流れよ、いとしい川。

もうわたしがよろこぶことはない。

戯れもくちづけも

ひたむきな想いも流れ去ってしまった。


それでもわたしはかつて

稀有なものをもっていた。

どんなに悩みくるしんでも

けっして忘れることのないような。

=====


 ある音楽とこの詩とが共通に、自身の意味を超えて私に語りかけてくるもの、それはもしかしたらいつか夢でみたことかもしれません。ですが、それが本当に夢でみたことなのかどうかも分からないのです。というのも、私は多くの場合、目が覚めるとそれまでみていた夢をさっぱりと忘れてしまっているからなのです。なんとなく楽しかったとか悲しかったとかという印象は残ってはいるのですが、具体的な映像はまったく残されていないのです。夢は夢でしかないとはいえ、忘れてしまっているというのもなんだかもったいなくて寂しいような気もします。

 それでもいつだったか、もしかしたらこんなに夢が記憶に残らなくなるよりも前のことだったかもしれませんが、あなたが夢に出てきたことがあったように思います。いえ、たぶんあれはあなたで間違いありませんでした。顔もはっきりしていませんでしたし、どんなことをどんなことばで喋っていたのかもよくわかりませんでしたが、夢の中での私は、それがあなたであると意識していたはずだからです。もしかしたら、あの夜想曲とこの詩とにおいて語りかけてくる人というのはあなたなのかもしれませんね。きっとそうなのでしょう。

 私はいつからかあなたとこうして手紙のやり取りを始めました。思えばかなり長い期間になるでしょう。あなたから届いた手紙の束も、いまでは膨大な量になり、とても机の引き出しの中にしまっておけるものではありません。あなたの方でもそうなっていることでしょう。あなたからはいくつも贈り物を貰いました。誕生日に、別の記念の日に、あるいはまったく関係なく、たんにあなたの気まぐれに。それらはこれまで大事にとっておいてありました。香水の瓶も、それがつまらない形をしていても、まだ私のそばにあって、ときおりその瓶を手に取り、匂いもすっかり失せてしまったはずの瓶の香りを嗅ぐようにすれば、ふとあなたとの思い出が蘇ってくるような気がするのです。手紙、空き瓶、押し花のどれも、あなたとの記憶の破片、あるいはあなた自身のかけらのように思えていたのです。これらの贈り物を、たとえ他の人たちから無価値であると思われたとしても、手放すなど考えられないことです。これらはどれも、あなたとのこれまでの一瞬一瞬のすべてが閉じ込められているように思われるのです。あなたからの贈り物の残滓が、本来は儚いはずの夢の記憶を繋ぎ留め続けてくれているのです。これらなくしては私も、そしてあなたの存在さえも、危うく揺らぎ、ついには朝露のごとくに、あるいはさいきんの私がみる夢みたいに、気がついたときにはたちどころに消え去ってしまうような気がしたのです。「それでも」で繋がったこの二連は前件を否定しても真理値が変わることはないでしょう。音楽のフレーズと詩の一節とが私に呼びかけるものは、変わらず真なるものであり続けるでしょう。

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