壁に耳あり障子に目ありーⅥ

 後神うしろがみ目目蓮もくもくれん雪女ゆきおんな

 三体の目があって誰の目も、女の行動を捉えることができなかった。

 愁思郎しゅうしろうを常に見ていた彼女達ですら追いつけないほど、正体不明の女の実力は計り知れるものではなかったのだ。

 そしてその女に、愁思郎が冥利みょうりと共に吹き飛ばされた。噛みつかれ、応急処置の途中だった肩からはわずかに溶け出た血が落ちる。

 本来ならば動かすことすら叶わないはずの左腕で冥利を受け止めた愁思郎は、冥利と共に数メートルの距離を勢いそのままに転げて、もう片方の腕で必死に冥利の頭を護る。

 そしてついに止まったそのときには、全身裂傷による出血が起こり、血塗れになっていた。

 無論左腕を治すために冥利が張ってくれた礼装の札も剥がれてしまい、そして冥利もまた全身に裂傷を負った上、女に蹴られたのだろう脇腹を押さえて苦しそうに呻いていた。

 こう言ったとき、治癒の異能を使えない自分に、愁思郎は腹が立った。

 今までに何度も習得しようと試みて、失敗した異能。高校の教師からは、相性が最悪なくらいに悪いと言われた。

 それで諦めたわけではなかったが、しかし未だ習得できずにいるのが現実だ。そして今腕の中には、苦しみ呻く仲間。これ以上、後悔することもないだろう。自分のせいでもしかしたら、死んでしまうかもしれないのに。


「“皇女の冠クロネ・デア・プリゼッシン”!!!」


 煌く炎が燃え盛る。女の周囲を取り囲み、鋭い熱の刃が女の全身を貫き焼き焦がす。

 人間を焼く際に生じる独特の臭いが鼻孔に届き、身の毛がよだつ感覚に襲われながらも、アリスクイーンは手を抜かない。

 火加減する必要も感じられず、彼女が繰り出せる最大火力で焼き払った。

 が、炎の中でユラリと立ち上がる女の影。

 皇女は次の魔導のため、大地の魔力とおのれの魔力をシンクロさせる。

 そして西洋剣に渦巻く業火をまとわせ、剣を振り上げる勢いも合わせて斜めから曲射で切り込み、女の体に刃を突き立てた。

 だが本来、そのまま斬り裂くはずだった。なのに刃が突き立てられるだけでとどまったのは、単純にそこまでいって止められたからである。

 異常に硬い皮膚。

 さらにそれよりも硬い骨。

 鋼鉄とて、熱して溶かせば斬ることも叶うだろうが、女の皮膚も骨もそうはいかなかった。

 熱い痛いと言っていそうなくらい喚いているが、実際彼女は火傷も裂傷も追っていなかったのである。

 驚愕と共に、アリスクイーンは信じられないと震えあがる。

(私の炎より、あいつの炎の方がすごいっていうの……?!)

 女は先ほど愁思郎の魔導で傷付き、一時的とはいえ燃え盛った。

 だというのに、アリスクイーンの一撃では燃えるどころか斬れもしない。そこまで実力が違うのか、自分のことを絶望視してしまうほど、嘆く余地すら与えられないほど責めてしまった。

 だがそんな暇などなかった。女の腕が、今まさに振り下ろされんと高々と掲げられている。五指の先に力を入れて、頭をかち割る気だ。

 死んだ、とすら思いこむくらいの凄まじい魔力が、その腕に込められていた。今から降ろされるのは腕ではなく、鉄骨の類だと思わざるを得ないくらいに硬く洗練された魔力だ。

(あぁ、ダメね……ここで、死ぬのか……)

 魔力を見て、アリスクイーンは生きることを諦めた。

 仕方ない。それだけ凄まじい魔力だったのだ。

 本来ならば、まともに相手さえしてもらえないだろう。一二時将のそれとまでは言わないが、今の自分では決して相対できない存在だったのだと知った。

 そして、その腕が容赦なく振り下ろされそうとなったそのとき、アリスクイーンは驚愕が故に見開いた瞳に、その驚愕の光景を映した。

 女の脳天を、貫いている黒光りする鋼の矢。

 針と表すのが正しいような気もするその形状は、唐突に真横から飛んできて女の脳を射抜いたように見えた。

 女もまたそう思ったのか、針が跳んできた方を眼球だけ動かして見ようとする。

 だがそうしようとした矢先に次の針が矢のごとく飛んできて、女の肩と首、さらに脇腹に深く突き刺さる。

 アリスクイーンが引くとさらに針の量は容赦がなくなり、女をハリネズミかサボテンにする勢いで放たれて、ついに女は全身に針が突き刺さった状態で立ち尽くすこととなった。

 全身に針が刺さり、血が溢れ出ている女の姿に、アリスクイーンはその場で何度も嘔吐き、戻しそうになる。それだけおぞましい光景であり、まだ魔導師にもなれていない雛たる彼女達が見るには、早すぎる惨状だった。

 だがそうはなりながらも、アリスクイーンには若干の余裕が残っていた。窮地を脱し、わずかばかりに取り戻しただけとも言える。

 誰がこんなことをしたのだろうと疑問に思うくらいの余裕が与えられたアリスクイーンは、状況を整理した。

 目の前には見るのにも根気がいる状態の女型の敵。

 左後方には転移のために魔力を溜めていたのだろうが、それを別の魔導に転じようとしているラミエルシア。

 そして遥か右方の先に蹴り飛ばされた愁思郎と冥利の二人。

 傷の具合が視認できない距離だが、ピクリとも動かない冥利を見る辺り、最悪の展開を想定しておくべきか否か。

 いやここで最悪の展開と言えば、誰一人として生き残っていないという状況だ。ここで仲良く奴の餌食になるのは死んでも御免としたいところだが、相手がそれを許すかどうかである。

 それにこちらの攻撃はほとんど効かないのだ。今までに有効だったのは愁思郎の魔弾と誰かは知らない針の矢のみ。

 その誰かも今ので捕らえたと思い去ってしまったかもしれない。そんな無駄なキザな奴じゃなければいいのだが、出てこない辺りそれを想定してもしなくても同じだろう。遠距離攻撃が得意な人なら、わざわざ出て来なくてもいいのだ。

 相手さえ、的確に突いてくれさえすれば。

 だが一番にして最大の問題はやはり、目の前でまだ生きているこの女か。

 全身を射抜かれて死んでいない。これはもう生物ではないと仮定するのが妥当だろう。操作系統の魔力で操られている人間か人形。

 伝説上の錬成生物ホムンクルスだったら出会えたのなら名誉なことだが、今はそんな名誉などいりはしない。

 再生を続ける不死身の肉体。速度の領域は自分達とは桁違い。攻撃力と防御力はその強靭過ぎる皮膚が支えており、鉄壁と言える。

 そして自身が繰り出せる中での最大火力での直接攻撃は、いとも簡単に弾かれたことを考えると、アリスクイーンは自身の勝機を見出せない。

 どうしたものかと考えを巡らせるが、皇女は自身がこうした本番においての判断能力及び決断能力を含めた、頭の回転が遅いことを自負していた。

 どれだけ考えたところで、最善手というものが見つからない。

 勉強したことも出てこない。今回は初めて見る敵だから、今までの知識も何もないのだが、しかしそれにしたってと言わんばかりに何も出てこない。

 こういうときに悔しくなってくる。自分の無力さが。だから、こんなにも弱いからあのとき


――皇女は女皇を、見殺しにしたのだ。


 過去の自分に懺悔する時間などない。

 相手は徐々に自らに突き刺さった針を抜き、動き始めている。考える時間はなくなっていく。


 最善手。


 最善手。


 最善手。


 一体何が最善で何が良好なのか。実戦経験の浅さが否めない。

 これまでに何度か魔物討伐に出て貢献して来た皇女だが、逆に言えばその何度かしか実戦での経験はなく、戦うことはほとんどなかった。

 ほとんどの戦闘は既知の魔物を想定して組んだ脳内シミュレートだ。故に未知の相手と戦うとき、これだけ脆い。

(どうするの?! 考えなさい、アリスクイーン! あなたはなんのために魔導師を目指しているの?!)

 過去の過ちを二度と繰り返さないためでしょうと自分を追い込み責め立てるが、そんなことをしてもいいことは何もないし何もできやしない。

 片腕の針が全部抜けた。今度はその針で、全身の針を抜こうとしている。女がそうしている間にも吐き気を押さえて考えるが、何もいいことなど思いつかない。


 迎撃、不可。


 逃走、不可。


 囮、無理だ。


 どれもこれもいい策なんて思いつかない。

 そもそもアリスクイーンという魔導師候補生はパワータイプで、ネチネチと作戦を考えるタイプではないのだ。どちらかというとバーサーカーに近い。

 だというのに柄にもなく考えさせられて、頭がどうにかなりそうだ。気色の悪い光景も相まって、脳内がグチャグチャになりそうだ。

 針がまた抜かれた。また――もう考える時間はない。イチかバチか、自身の魔力をすべて炎に転換して焼き殺す。

 そう決断したアリスクイーンが魔力を練り上げようとしたそのとき、アリスクイーンからしてみればなんの前触れもなく、唐突に、女の背後に愁思郎が現れた。そして針を引き抜こうとしている腕を握り締めて「美白みしろ!」と叫ぶ。

 愁思郎が握り締めている個所から徐々に凍り付き、芯まで凍り付くと、愁思郎は素早くその腕に鎖を巻き付けてから思い切り引っ張り、凍った個所から腕をへし折ったのだった。

 そして次の瞬間にはアリスクイーンの背後にいて、驚愕の目で見降ろしてくるアリスクイーンのことなど無視してもぎ取った女の腕を観察する。

(やっぱりな……人の皮膚で覆ってたけど、薬品の臭いがする。明らかに人工物……いや、人造人間。伝説の錬成生物ホムンクルスか? にしては勉強したのと能力が明らかに違うんやけど)

「どうやら人間じゃあないようやな。まぁ凍ってたのに動いたり焼かれたのにまた動いたり、もうとっくに人間だったとしてもやめとるやろが」

「あ、あんた無事だったの?」

「アホ、んなわけあるかい。見ればわかるやろ。無理矢理動いてんのや」

 見れば、愁思郎の左腕はダランと下がったままだ。

 肩の傷もさらに凍らせて止血させているが、おそらくこの場では左はもう指一本動けないはず。

 それでも相手の片腕を捥いでイーブンにしただけ素晴らしいものだ。咄嗟の判断力と決断力は、アリスクイーンが見ても自分と比べ物にならないとわかる。

「さて……もう生け捕りうんぬん言っとる場合やなくなったのぉ……殺すつもりで戦えばなんとか殺さない程度に捕まえられるか。もしくは殺してしまうか」

「殺すどころか傷さえつけるのは難しいわ。あなたその体でなんとかできると思ってるの? 今のだって、あれの動きがほとんど封じられてて、隙をつけたからできただけよ。次はそうはいかないわ」

「せやろな……が、生憎とうちは一人やない。皇女様には見えんやろが、うちには今仲間がおる。そいつらの力があれば多少はやれる――いや、勝てる。それに皇女様がいればできる作戦もある」

「色々聞きたいことは多いけど、とりあえずはどういうこと? あいつに……勝てるってこと?」

「それも踏まえてちょい耳貸せや、皇女様。うちの魔導の正体、いややけど教えたる。ただし絶対口外すんなよ? うちの魔導は秘伝やねん」

 片腕を失ったことで、女は針から逃れるのにさらに時間を要することとなった。

 結果的に言えば針に貫かれた傷は再生したものの、捥がれた腕は治らなかった。

 治るのに時間が掛かるだけかもしれないが、それも踏まえて愁思郎は作戦を立てた。

 それを耳打ちし終えると、【種子島】の片方を自身の左腕に巻き付けて、もう片方を右手に握り締める。女が自分が狙われていると悟るように、わざとらしく。

「えぇか、皇女様。作戦は今の通りや。わからんとは言うなよ、二度も説明する時間はないさかい」

「それはいいけど……あの愛染って子は大丈夫なの?」

「あぁ生きとる。ちょっと失礼して袖の中探らせてもろて、治癒の札は貼り付けさせてもろた。今はラミが看てくれとる」

(いつの間に……)

「それよりも気張れぃ、皇女様。失敗は許されん。一回限りの大勝負や、しっかり決めぃ!」

「は……誰に向かって行ってるの? 私はアリスクイーン・トリスメイヤ! 魔導トリスメイヤ皇国、第二皇女よ! 失敗なんてないわ!」

(嘘つけ、さっきまでビクついとったくせして……わかりやすい奴や)

(なんだか知らないけど、勝機があるならまだやれる……やるしかない!)

 自信を取り戻したわけではない。

 だが取り戻さざるを得なかったアリスクイーンは奮い立った。

 そのきっかけとなった愁思郎の存在が、今だけなく、これから自分にとって特別な存在となることなど知る由もなく、眩い煌炎を西洋剣に携えて、構える。

「遅れを取らないことね、藁垣愁思郎! あんたこそ失敗したら許さないわよ?!」

「誰にもの言ってんねん、皇女様! うちは藁垣愁思郎! いずれ魔導世界の天下取る男や! 俺が天下取るとこ、その目見開いてよぉ見とけ!」


 作戦、開始。

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