壁に耳あり障子に目ありーⅤ
――私のために……泣いて、くれるのですか?
当たり前だ。
少年時代、
彼女はそれだけ、現在の藁垣愁思郎という青年の価値観を作り上げた存在。忘れることのできない、一番大事な存在だ。
――あなたは優しい方、ですね……私のために泣いてくれる人間なんて、あなただけ、ですよ
そんなことはないと、このときの愁思郎は言えなかった。
人間が妖怪に対してどのような感情を抱いて、その結果彼女が今死にかけている事実が、そんなことはないと言うことを許さなかった。
現実は彼女に対して残酷で無慈悲。
どこまでも意地悪でどこまでも悪質。
ただ一つの願いを叶えたいと願うだけの彼女に、生きる権利すら与えてくれない。
――ありがとう……あなたに会えて、よかった……愁思郎、どうか……どう、か……
彼女の死こそ、この先の藁垣愁思郎を作り上げた。
天下を取る。
その夢を持ったのもこのときだ。
彼女と出会わなければ魔導師になろうなどとも思わなかった。
努力し続けることもなかっただろう。
だからこそ、彼女の存在は藁垣百鬼夜行の中でも特別な存在であり、大将補佐という席が彼女のために用意されている。
彼女のための席なので他の妖怪が後を継ぐようなことはなく、現在も空席だ。
今は大幹部の一体であるところの
補佐役はあくまで彼女のために用意した席であるために、誰もその座を狙おうとはしなかった。
彼女がいなければ、彼女が愁思郎と出会っていなければ、藁垣百鬼夜行は存在せず、人間達に狩られていたかもしれない。それだけの大恩が、彼女にはある。
彼女の名は
愁思郎が初めて出会った妖怪であり、初めて会話をした妖怪。そして愁思郎にとって、自身の魔導の正体を教えてくれた恩人であり、最初に加わった百鬼夜行であった。
▽ ▽ ▽
「愁思郎!」
「旦那!」
正体不明、かつこれまでに相対した中では最強の敵が、自分達の反応を遥かに超える速度で肉薄、大将を傷付けたとなれば、冷静でいられるわけはない。
いざというときは護ると言ってくれた最強の魔導師も遠くへ飛ばされ、現在進行形で訪れているいざという今このときにいない。
最悪、愁思郎の首が飛んだくらいの覚悟をしていた。
だがそれは数秒後、杞憂に近いものだったと二体は悟る。
愁思郎は女の手刀による突きを【
その過程で女の爪が肩に刺さり、彼女の怪力を止めた鎖を握る掌が擦れて血を流したが、どれも浅い傷。まともに受けていれば死んでいたことを考えれば、充分にいい
「愁!」
「
名前を呼び合う。
それだけで、愁思郎と
動きが止まった女の懐に美白が入って、彼女の胸に掌打を喰らわす。
その個所から体の内部が凍り付き、動きを鈍らせる。女がジッと見下ろす中で美白はそのまま心臓を凍らせ、完全に動きを止めた。
美白が今霊体化しているため、
雪女、美白の異能は氷結であり、簡単に言えば物を凍らせる力である。
決して雪や氷を操る力ではない。ただ標的を凍らせる、その一点に特化した能力だ。
女の体を凍らせはしたが、殺してはいない。
いわば冷凍保存と同じで、解凍できれば蘇生が可能。本来は大怪我をした人に応急処置などが間に合わない場合に行う延命措置に使うものだが、こうして生け捕りにも使える能力だ。
殺してしまう方がいいかもしれないが、未知の敵と遭遇すればまずは生け捕りを優先し、情報を国に持ち帰るのが得策。魔導師として、最善の手を取ったつもりだ。
最も、この場合は殺さないというよりも、殺せないと言った方がいい。
魔導師最強の男相手に互角以上に渡り合った女に対して、勝てるなどとは思えなかった。生物皆、自分に対しての殺気には敏感な生き物。しかし生け捕りならば殺気はない。相手の動きも捉えられるかもと思った。
そして今その読みが当たり、こうして生け捕りに成功したわけだが。
「今の、どういう魔導?」
失敗だったのは、アリスクイーンの目の前で美白の異能を使わせてしまったことだった。
愁思郎の魔導は妖怪の力を借りるもの。故に美白の異能を借り受けることもできるのだが、今この場面での氷結が成功したのは霊体化状態にある美白がやったからだ。愁思郎がやろうとすれば、相手は確実に躱しただろう。
両手が塞がった状態だったこともあり、美白にやらせたのは間違いではない。仕方ないと言える。だが、それ故にとてつもなく不自然な形で女が凍り付いた。
霊体化している妖怪を視認できない常人から見れば、女が勝手に凍ったようにすら見えたかもしれない。
しかしそんなわけはないので、最も距離の近い愁思郎が何かしたとするのが自然な流れ。
だがそれでも、不自然に見えるのは否めない。
アリスクイーンが持った疑問は当然のことであり、愁思郎も危惧すべきことだったが、女の捕縛を優先したために完全に忘れていた。
しかし今までにもこんな修羅場は潜り抜けて来た。故に対処法はあった。
嘘を付く。この上なく簡単そうで、しかし難しい。暴かれる
「周りの水分使って相手固める魔導や。色々と条件があるけどな。これ以上の詮索は、マナー違反やで」
「……えぇ、わかってるわ」
こういうとき、異能者同士における暗黙の了解が役に立つ。
自身が一縷でも敵対する可能性があると思っている相手には、自身の扱う魔導のすべてを教えない。そして相手も、それを詮索しない。信頼関係を築くうえで邪魔に感じるときもあるが、このときばかりは有効活用できる。
これは同時に、愁思郎にとってアリスクイーンはまだそこまでの信頼関係を築けていないということを表すことにもなるのだが、まだ出会って二ヶ月も経ってない相手に対してそこまでの信頼関係が築けていないのも事実。
だがさすがに少し空気が気まずくなるため、空気を変えるために女へと視線を移し。
「しかしなんやったんや……この女」
と、話題を反らし――基、元に戻した。
「一切が不明ですね。何故こんなところにいるのか、なんのために襲って来たのか。何が目的なのか」
「いずれにせよ、情報が必要や。今はただ凍らせてるだけやさかい、ちょっち不安やな……誰か、拘束系の魔術かなんか使えんか?」
「なら私が」
そう言って、冥利は袖の内側に仕込んでいたのだろう、自身の魔術礼装を取り出した。
それは、魔術式とその効力を表したのだろう縛の一文字が書かれた札。
愁思郎やアリスクイーンのそれとは違って消耗品のようで、メインの魔術礼装にするには珍しいタイプだ。
別段、消耗品をメインの魔術礼装にする人はいる。
短期決戦の場においてはなんの問題もないし、むしろ自身の指定した位置に魔術式を張れるという利点もあるが、しかし弾切れが生じるというデメリットもまた存在する。
いくら魔力があっても、異能を行使するための媒介を失えば、異能者として決定的な弱点となるだろう。
魔導師なので礼装なしでも異能は繰り出せるだろうが、術式をすでに組んでいる礼装を使えば異能の発現が速い。魔導師が魔術を組んだ礼装を持つことは何も珍しいことはないのだが、それでも比較的、消耗品を選ぶのは珍しいことだった。
それに札を礼装として選ぶ人間も、そうはいない。あらゆる意味で、冥利が使う礼装はレアだった。
「“束縛符”――
冥利が放った札が女の四肢と胴体にくっ付き、体全体に魔術式が広がっていく。名からして、束縛の性質を持った魔力なのだろう。
束縛の性質はどの属性にも見られる魔力であり、行ってしまえば凡庸だ。だが相手を捉える点においては右に出る者はない性質と言える。
尚、美白の能力も魔力で語れば、水属性。性質は束縛となる。妖怪の異能は魔力とは別の力だが、普段魔導高校に通う彼女は学校でそういう魔力だと言って誤魔化していた。
「冥利ちゃん、面白い礼装を使うんだね」
相手の異能の正体を探るのはタブーだが、こうして褒めることに問題はない。
ラミエルシアが探るためではなく、ただ単に褒めるためにそう言ったのは冥利も感じられていた。故にとくに勘繰りも警戒もする必要がなく、少し弾んだ様子で返す。
「陰陽符と言います。私の魔力を込めて作った札ですが、持ち運びの観点から五一枚以上持てないのが難点です」
「戦闘中にコピーするとか、できないわけ?」
「コピーしたものでは、使えなくはないですが、一枚一枚術式を書き込んだものと比べるとその効力が圧倒的に小さくなってしまうので、戦闘ではあまりいいものではありません」
もっと言えば、冥利に模倣の魔力性質があるのかどうかも疑わしいところだ。「使えなくはない」と言ったところで幾度か試した風にも聞こえるが、それが自身で試したのかどうかはわからない。
まぁ仮に冥利に模倣の魔力性質があったとしても、威力が期待できないのならば使わせることもないだろうが。
「それよりもです。さっさとこれを運んでしまいましょう。ラミエルシア様、転移の魔導をお願いします」
「う、うん! わかった!」
先ほどまで魔力を練っていたのだが、“キング”が一度女を止めたことで安堵し、解除してしまっていた。「二度手間になっちゃったなぁ」と言いつつ、再び魔力を練り始めるラミエルシア。 その隣で、アリスクイーンは凍り付いた上に束縛された女を見て訝しいと唸る。
「どう思う? 藁垣愁思郎。こいつの目的と行動、あんたならどう見るのよ」
「どうやろなぁ。まったく見当がつかんわい」
「濁さないで」
「濁しとらんわい。この人を人間として見たら目的なんてわからんわ。だが獣として見れば、ただの捕食に変わりないやろ。こいつの目ぇは魔物で見たことある。獲物食おうとしとるときの目ぇそのもん――」
そこまで言って、愁思郎はアリスクイーンを
突然のことで反応できなかったアリスクイーンは受け身も取れず、その場に倒れ伏す。そして「何すんのよ?! 喧嘩売る気?!」と啖呵を切ろうとしたが、切る間も余裕もなく硬直する。
見ると、そこには凍結された上に束縛の魔力によって動きを完全に封じられていたはずの女が、愁思郎の肩に大口を開けて齧り付いていた。
その小さな口のどこにあったのか、大量の歯が突き刺さっているらしく、大量の傷口から大量の血が溢れ出る。
「お兄様!」
冥利が新たに札を出し、動きを拘束しようとしたところで、愁思郎の魔導が先に発現する。
後神の能力で女の後方に転移すると【種子島】を投げつけて操作の魔法で軌道を操作。鎖を二重三重に巻き付けて縛り上げ、さらに銃を取ると、女の両肩に銃撃した。
動きを封じたうえでさらに両腕に力を入れることすら奪う銃撃。容赦はない。だが命を取らないだけ、相手にとってはマシだろう。が、その容赦は必要なかった。
愁思郎の銃撃は、女の肩を貫けなかったからである。
普段、傍から見れば開いているのか閉じているのか判断しかねる愁思郎の細目だが、その驚愕の度合いがわかる程度に見開いた。
何せゼロ距離から撃った弾が女の体を貫くことなく、その皮膚にぶつかって砕け散ったからである。その証拠に、撃たれた両肩には火傷の痕。外してはいなかったし、外すはずもなかった。
そしてさらに言えば、女は今、【種子島】の拘束を引き千切ろうとしていた。
いつしか前述したが、鎖は伸びれば伸びるほどその強度を増す。確かに三重に巻いているとはいえ拳銃を皮膚に直接当てられる距離、そう長くはない。だがだからといって、元々魔物の膂力にも耐えられるよう作ってあるのだ。元々の強度だって申し分はない。
なのにだ。女は今にも鎖を引き千切る勢いで腕に力を込めている。そして本当に千切れそうだ。
「旦那!」
目目蓮が声を掛けたことで我を取り戻す。
愁思郎はその場から鎖を伸ばしながら後方に跳ぶと、拳銃に魔力を溜め込む。
普段は意識せぬままに垂れ流れている魔力を元に撃つが、魔力を込めることで弾に属性と性質を与え、魔弾とすることができる。
いわばこれが、愁思郎の必殺技。その中の一つ。
愁思郎の持つ魔力属性の一つを極限まで込めて撃つ一撃、その名は――
「“
一矢の名に相応しく、全力を込めた一撃。
魔弾と化した弾が、その名の通り火の属性を与えられて、煌々と赤銅色に燃え盛りながら、凄まじい回転を加えられて女へと飛んでいく。
軌道線上に赤い閃光を残して走る弾は、女の首と背中の接続部を貫通し、左右の鎖骨の間を抜けていった。
そして直後、女の体が燃え上がる。
体の内側から炎が上がり、目と口から炎を吐く。
その苦しみに、女は倒れながらも体を反ってもがき続けたが、やがて少しずつ動きが鈍り、ついに動かなくなった。
「「愁思郎!」」
調度、後神とラミエルシアが呼ぶ声が重なった。
そして次には、冥利と美白が駆け寄るタイミングまでも重なった。
腰を据えた愁思郎は(なんや奇妙やなぁ)と思うくらいの余裕はあったが、実際それは、怪我の具合を見て半ば諦めたからで、ただの開き直りだった。
実際、女に噛みつかれた傷は酷かった。まるで獣に喰われたかのような顎の痕。歯のすべてが深く突き刺さっていたことを示しており、大量の出血が止まらない。
そして噛みつかれた左肩より先、つまりは左腕が動かせない。血が足りないのもそうだが、何より神経が切れている気がしてならない。怪我のカテゴリで言えば間違いなく重傷に違いない。だがだからといって敵が待ってくれるわけもない。
故に拘束を諦めて殺しを選んだわけだが、人型の分気分が悪い。
怪我のことも含めて開き直らなければ、もはややっていられなかった。
今までに人型の妖怪を手に掛けたこともなくはないが、しかし慣れない。無論、慣れてはいけない感覚だと思うが。
美白が愁思郎の傷口に手を当てようとして、一瞬躊躇う。その意図を察した愁思郎は同じく手当てをしようとした冥利を止め、自分で傷口に手を当てた。
周囲からすれば、少なくともラミエルシアとアリスクイーンからしてみれば、愁思郎が自ら治癒の魔法をかけようとしているように見えることだろう。
しかし実際は、美白が狼狽えながらもしっかりと意識を持って異能を発現。愁思郎の傷口を凍らせ、止血したのだった。
ここでも愁思郎自身が魔導を発現しなかったのは、主に二点。
美白がやった方が的確かつ迅速だったことと、今の愁思郎に自身を芯まで凍り付かせない程度に凍らせるという繊細なコントロールができそうになかったからである。
それだけ愁思郎の傷は深く、意識は傷口から走る熱と痛みで持って行かれそうだった。
「あかんわぁ……あかん、あかん。凍らせたくらいで油断してもうた。自分もまだまだやな」
「いえ、いえ! 申し訳ありませんお兄様! 私の力不足であんなに簡単に拘束が……!」
「はは……じゃあお互い、まだまだってことでいいな……それよか、怪我ぁ治療できるか? うち生憎と、そういう魔力じゃないさかい」
「は、はい! 今すぐに!」
またもわかりやすく治の一文字と、魔術式が刻まれた札。
それを豪勢に五枚も貼り付け、魔術式を起動する。
治療の異能は主に細胞を活性化させてその回復を促すというタイプなのだが、それでは凍っていたり炭化した細胞では無理だ。
故に愁思郎は今すぐにできるかという意味で言ったのではないのだが、冥利は凍っている愁思郎の体に構わず札を張り付ける。
つまり彼女の治療は、細胞の活性化ではないということである。治療の異能としては珍しいタイプだ。
「私は、世間一般的に治療とカテゴリされる異能を使えません」
と、愁思郎だけに聞こえるように小さな声で冥利。まだ周囲を一縷ながら、敵として認識しているようだ。まぁこれは魔導世界における当然なので、仕方ないが。
「愁思郎様には教えておきます。私は逆転という魔力性質を持ちます。凍っているものは熱を持ち、開いているものは塞がり、死んでいる者は生き返る。すぐにというわけにはいきません。私の魔力が浸透していかないと、完全には無理です。ですから大人しくしていてください。札が剥がれては治せません」
「……わかった。おおきにな」
ラミエルシアは貴族である。
何度も繰り返すが、没落寸前のとはいえ貴族の生まれだ。
だが庶民の趣向たるマンガやライトノベルなどを
故に貴族ながらマンガやライトノベルの王道には通じており、同じ趣味を持つ人とは親しみやすい人種だろう。
そしてこのとき、愁思郎が治療を受けているのを見ながらも、頭の中にはその王道パターンが過ぎっていた。
敵が不死身かもしくは超絶的なタフで、死んだと思っていても生きていて、もしくは速攻で生き返って来て背後から一突き。
それで主人公を庇った仲間が死に、主人公が何かしらの能力に目覚めるかもしくはただ絶叫するか。
その展開が頭を過ぎって敵の方を一瞥。
動いていないことを確認し、安堵――しきれずにまた一瞥。
すると王道とはなんとも酷い現実のことを指すのだろうかと、非難の言葉が頭を掠める。そして次の瞬間には、音速の領域で駆け抜けてくる女と愁思郎の間に入ろうとしていた。
間に合わないのはわかっている。が、動かずにはいられなかった。
必死に手を伸ばす。「事実は小説より奇なり」なんて言葉を作った人間を、筋違いだとはわかりつつ呪いかけた。
そしてその手の先を女が通り過ぎた直後、愁思郎と冥利の体が凄まじい勢いで吹き飛ばされた。敵は仲間もろとも、この展開における主人公のような立場であった愁思郎をも、殺しに来たのだった。
「事実は小説よりも奇なり」
この言葉を作った人間を、筋違いとわかりつつ、また呪おうとした。
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