後ろ髪を引かれる思いでーⅥ

 アリスクイーン・トリスメイヤ、打倒。


 自身を含めて一二人存在する、今年の入学性最強候補の一角を落としたこの日、藁垣わらがき家では宴会が開かれていた。

 元々百を超える数の妖怪がいる藁垣家の食卓は、普段から実に賑やかであるが、この日は愁思郎しゅうしろうが早速戦果を挙げたことと、冥利みょうりが家に来たことの歓迎を込めて、豪華な食事が並べられていた。

「それでは皆様、お手を拝借」

 と、大幹部、玉藻たまもの前が声を掛け、一丁締めで食卓を締める。藁垣家の宴会の席では、これがお決まりとなっている。冥利はこの賑やかさに少々驚いていたが、しかしすぐに慣れたようだった。

 妖怪はとにかく宴会が好きだ。

 酒と女とおいしい食べ物があれば、いつまでも騒いでいられる。

 彼らがあまりにもおいしそうに酒を飲むので、愁思郎が若干歯痒い思いをしているほどだ。それだけ彼らの宴会は賑やかで楽しくて、同時におどろおどろしい。

 妖怪の娘である冥利のところもそうだったのだろう。最初は環境の違いに戸惑っていたが、慣れている雰囲気の中だったので最後には落ち着いていた。

「どうやった? おいしかったか?」

 妖怪らとの食事は和食が基本だ。この日の夕餉ゆうげは白米にたくあん。ネギと豆腐の味噌汁。西京漬け。おひたし。山菜の煮物と本当に和食である。

 妖怪の娘である冥利も同じくこの味だと思っていたのだが、しかし口に合うかは心配していた。

 彼女とは昼餉ひるげを共にしたものの、そのときは洋食を食べていて、好みがわからなかったのである。

 ちょっと心配そうに愁思郎が訊くと、冥利はとても満足げに笑みを浮かべて「はい、大変おいしくいただきました」と言ってくれた。

 愁思郎は安堵の吐息を漏らし、酒の代わりに透き通ったりんごジュースを口に含む。そして部屋のすぐ外で心配そうに見つめていた食事係の妖怪に、グッと親指を立てて安堵させた。

 食事を終え、愁思郎は冥利を個室に連れて行く。

 今朝はバタバタだったためにできなかった屋敷内の案内も同時に済ませ、冥利の部屋となる個室に連れて行った。

 部屋にはほとんど物がなく、収納スペースにも何もない。まるで誰かが来ることを見越して、用意されていたかのような部屋だった。

「布団はあとで持ってこさせるさかい、ちょい待っててな。日用品は、後日買いに行こか」

「そんな、いつまでいるのかもわかりませんのに……」

「えぇねんえぇねん。玉藻姉にはもう相談済みやし、今度一緒に見に行こな」

 そう、頭の上にポンと手を置いて撫でてやる。ベレー帽の代わりに乗った手を、冥利は嬉恥ずかしそうに取りながら、そのまま大人しく撫でられた。

「じゃあそろそろお風呂も沸くやろし、入りぃな。自分で言うのもなんやけどな、うちのお風呂は露天の上にでっかいからな、ゆぅっくり浸かるといいわい」

 愁思郎の言う通り、藁垣家の風呂は露天風呂。

 百を超える妖怪の半数が一気に入れるほどの大きさで、しかも温泉である。藁垣家の暗黙の了解で女性が先に入ることになっており、冥利もまた他の女性妖怪と共に湯に浸かる。

 肩から下が温まり、頭が風で冷える。とても心地のいい湯加減に、冥利は自分の疲労が湯に溶けていくのを感じ取った。

「気持ちよさそうでよかったです、冥利さん」

「はい……とても気持ちいいです」

 玉藻もここでは体を伸ばす。

 普段はしまっている九つの尻尾を大きく広げ、温泉の三分の一を占領していたが、誰も文句はない。日々の家計を支えてくれ、さらに一癖も二癖もある妖怪を束ねる役目を買ってくれている気苦労を、察しているのだ。

「玉藻姉! 背中流してあげようか!」

「まぁ、ありがとうございます。ではお言葉に甘えて、お願いしましょうか」

 そう言って、湯から上がる玉藻。その清らかで艶のある黒髪を分けて背中を晒し、後神うしろがみに背中を洗ってもらう。

 その背を見た冥利は、思わず言葉を呑んでしまった。その背が美しかったのは言うまでもない。だがその背には、獣に裂かれたと思われる掻き傷があった。相当に深そうだ。

 その傷に思わず見入っていると、後神がその視線に気付く。相変わらず、背後からの視線には感知が早い。

 それと同時に気付いた玉藻は「あぁこれですか?」と特に気に障った様子もなく微笑を浮かべた。

「これは旦那様と出会った日に負った傷です。魔物に襲われていたところを、助けて頂いたんですよ」

「魔物に……?」

「えぇ。私は昔、とある国の大きな祠に祀られており、そこで住んでおりました。しかしそこに魔物が襲撃し、祠はもちろん壊され、周囲の村の人々も喰われてしまい、私も後を追うように喰われるだけだと思っていました」

「しかしそのとき、旦那様に……愁思郎様に救われたのです。自らの命を賭して私を救い、さらに私などを百鬼に加えてくださった……私は、忠誠を誓いました。この人のためならなんでもしよう、なんでもしてみせようと。そうしたらいつの間にか、大幹部なんて呼ばれていました」

 玉藻の前と言えば、妖怪の中でも大妖怪に数えられる一体だ。

 彼女は自分などと謙遜していたが、彼女が殺されそうになるほど強い魔物など冥利は想像ができなかったし、さらに言えばその魔物を倒した愁思郎の実力の底が見えなかった。

 一つ理解できたのは、だからこそ数ある大妖怪の一体が、人間にそこまでの忠誠を誓っているのだということである。

 その諸説から、命を狙われたことは数あれど、護られたことはほとんどない彼女にとって、自分を救ってくれた人間がどれだけ特別であるかなど、とても簡単なことだった。

 玉藻の九つの尾を、それぞれ一つずつ他の妖怪が洗う。藁垣家では恒例の光景だが、冥利は玉藻の話に気を取られていて、その立った泡の総量には驚かなかった。

「そのとき、愁思郎様はあの礼装を……?」

「【種子島】ですか。いいえ、あのときはまだ量産品の礼装銃を使っておりました。【種子島】を得たのは、そもそもこの討伐が理由でしたので」

 愁思郎の礼装【種子島】の性能はまだ詳しくわかっていないが、しかしそれも使わず玉藻が苦戦を強いられ、敗北し欠けた魔物を討伐。もはや恐怖すら感じる愁思郎の実力だが、同時に父であるぬえが、愁思郎を認めている理由がわかった気がした。

「冥利様」

 振り返ることなく、目の前の鏡を介して、真剣に話に聞き入る冥利に問う。

「鵺様のこと、旦那様には話されましたか?」

「……」

「あの気位の高い方が、そう易々と弱みを見せられるとは思いませんでしたが……」

(まぁそれでも、娘のことを他の人に任せる辺り、まだ丸くなったような気もしますがね)

「旦那様なら、きっと受け止めてくださるはずです。大丈夫、何も心配されることはありませんよ」

 その頃その旦那様は、本日受けた講義の内容を復習していた。

 すでに予習していた内容ばかりだったが、しかしそれでも手は抜かない。天下を取るためにはどんなに小さな努力だって、怠ればその野望が遠のくと自分に言い聞かせていた。

 復習が終わると、今度はそのまま予習に入る。大学に入るまでに教科書はすべて一度目を通しているから、これも復習なのだが、ここでも努力を怠るようなことはしなかった。

「性が出るね、愁くん」

 と声がしたので振り返ると、障子の向こうに人影が映っているのが見えた。女の人の像をしていて、愁思郎はその影を「影姉」と呼んだ。

 影女かげおんな

 その姿を他の誰にも見せたことがない影の妖怪。愁思郎も影でしかその姿を捉えたことはなく、他には声でしかその存在を認識したことがない。

 その涼やかで美しい鈴の音のような声で人を惑わし、闇の中へと引きずり込むとされているが、それも頷けるほど美しい声は、愁思郎もお気に入りである。ただ姿を見られないのが、残念なところ。故に。

「お夜食作って来たよ。よかったら食べて」

「ありがとな、影姉。よかったら一緒に食べへん?」

「私は大丈夫よ。あなたのために作ったんだから、あなたが食べて頂戴。今日のおむすびはとてもうまくできたと思うの」

「ホンマ? 嬉しいわぁ。じゃあいただきます」

 今日も姿を見る作戦、失敗。まぁこれも、いつものことだ。

 わずかに空いた障子からおむすびだけ取って、その場で食べる。影女に「おいしい?」と訊かれたので「ごっつうまい」と返すと「よかった」と笑ってくれる。彼女の感情は声でしかわからないので、それが聞こえると愁思郎はとても安堵できた。

 そして彼女の作ってくれるおむすびは本当においしい。正直これがあるから、毎晩遅くまで勉学に励んでいる節も無きにしも非ずである。

「愁くん、あの子のことなんだけれど……気付いてる?」

「……あぁ。あのプライドの高い鵺のことや、それなりの理由があるんやろ。今朝の鵺の子分の言葉も気になるしな……元気なんて意味深過ぎるわ、ホンマに」

「どうするの? 総大将」

 彼女がそう呼ぶときは、藁垣家百鬼夜行を束ねる長としての意見を求めている時だ。

 常に旦那様と呼ぶ玉藻と違って、オンオフの切り替えができているしなにより早い。故に愁思郎の中でもオンオフが切り替わり、その場の空気が一変する。

「ちょっと気になったさかい、今朝ぁ天夜叉てんやしゃを行かせた。が、もう一人必要か……」

「本家からじゃなくて、支部の妖怪ひとを行かせたらどうかしら。あまり本家の人員を裂くのも……」

 影女の言うことは、愁思郎ももっともだと思った。

 本家とは言っているが、別に強い妖怪ばかりが集まっているわけではない。むしろその逆だ。他のところでは庇いきれない弱い妖怪を、多く守っているのが本家である。

 故にあまり強い妖怪を人員として裂くと、本家の守りが手薄になってしまう。すでに守りの要のうち一つ、天夜叉を行かせている本家から、さらに強者を出すわけにもいかなかった。

 だがかといって無視するわけにもいかない。どうするか――

「私が行こうか?」

「影姉に行かせるわけには……せやけど、どないしようか……困ったな……」

 と困り果てていると、ドタドタと跫音が鳴り渡る。影女の影がその場から消えると同時に、障子の向こうに別の妖怪の姿が現れ「失礼します」と断りを入れた後に障子を開けて来た。

 息を切らしてやってきたその妖怪に、落ち着くよう茶を飲ませる。

 茶を飲んだ妖怪は息を整えつつも、しかし急いで報告せねばという焦燥に駆られて、言葉を詰まらせながらも報告した。

「ほ、報告! 針女はりおなご様より非常事態信号! 識別、赤!」

「敵襲やと……?!」

 針女とは愁思郎の百鬼の幹部妖怪であり、遠くの地にて警備をさせている一派を従えている妖怪だ。仲間に入れる際にいざこざを起こして以来、度々会っては戦い方を師事する関係である。

 そんな彼女から、非常事態信号が来ることは正直想定していなかった。それほど強い勢力が向かっている、あるいはもうすでに接触しているということなのだろう。

 これに関してはもう迷う余裕などなかった。鵺の一件は気になるが、すでに天夜叉という実力者を向かわせていることで安心するしかない。

 というか逆にこちらが不安だ。天夜叉では鵺の偵察は役不足だった。すぐに引き戻したいくらいである。

 だが繰り返し言うが、迷っている暇などない。仲間の窮地に駆け付けない者が、何故大将など張れようか。

「すぐに本家の幹部を集めい。緊急招集や」

 そうして十分後には、十体の幹部が揃った。

 皆が寝酒を呑んでいたり風呂に入っていたりとくつろいでいた中で呼ばれたため、緊張しているのが伝わってくる。気が緩んでいるところに緊急事案が飛び込んでたじろぐのは、人間も妖怪も差はないようだ。

「旦那様、いかがいたしますか?」

 代表して、玉藻が訊く。

 愁思郎の腹の中ではすでに決まっており、その指示を促すものであることを、玉藻を除く幹部も理解していた。

「全員、出陣の準備や」

「全員? 戦える者のみを連れて行けばいいのでは?」

「それやともしもこの家に何かあったとき、残った奴らを護れん。うちの百鬼に加わったんや、命の保証は当然。弱いもん見捨てて強いもんだけ生き残る言うのは、うちの矜持に反するのや。皆、わかってくれるか」

 最初は意見を述べていた妖怪も、皆納得の様子。

 実際に意見を飛ばしたのは図りで、愁思郎の器が変わっていないかを試すものだった。故に自分の百鬼は護って見せるという気概を見せたことで、藁垣百鬼夜行の結束はさらに盤石なものへとなっていく。

「鵺の娘につきましては、いかように」

 と、これは玉藻。

 愛染は愁思郎の百鬼ではなかったが故の質問であるが、愁思郎もそれについては迷っていた。

 彼女には魔導師になるための勉学があるのだし、百鬼夜行でもないために無理をして連れて行くわけにはいかない。最悪死ぬかもしれないのだ、鵺に頼まれている身にもしもがあれば、鵺に顔向けできない。

「冥利については、大学で仲良うなった友達がいる。その子に頼んで、しばらく預かってもらおうと思う」

「護衛は」

「二人は欲しいな……しかし誰にするかはまだ……」

(こちとら鵺に向ける追加要員だけでも考えさせられたっちゅうのに……さて、どうするか)

 先述したように、本家には支部に比べて武闘派な妖怪が少ない。故にあまり数を出すと、本体がどんどん弱体化していく。それを懸念すれば、誰を残すべきか迷ってしまう。

 愁思郎がそうして迷っていると、幹部の一人が挙手した。

「お千代、行ってくれるんか?」

 彼女は何も話さない。

 しかし一度首を縦に振り、同意を示す。

 影女とは対照的に、彼女の声を愁思郎はほとんど聞かない。

 彼女の異能は声に由来するものであり、発言すなわち異能の発現なのだ。

 故に普段、彼女はまったく喋らないし、口も開かない。そして能面のように表情も変わらない。だが真一文字に口を結んだその面に、愁思郎は何かを感じ取った。

「頼めるか、お千代」

 頷く。任せてください、と言われている気がした。

「よし、頼むわ。あとはもう一人……影姉」

「はい」

 障子の向こう側に現れる、影女の影。

 彼女もまた藁垣百鬼夜行の幹部であるが、その席に姿を見せることはない。

 一応彼女の座布団は用意されているのだが、座った試しはなかった。

 故に障子の向こうから、影女は「お呼びでしょうか」と首を垂れる。

「冥利のこと、頼めるか」

「問題なく、こなせるかと」

「よし、じゃあ冥利のことは二人に頼む。あとは先遣隊やな……」

 と悩んでいる風に見せているものの、実際に腹は決まっていた。先遣隊に選んでいるのは、ほとんど同じ妖怪だったからである。

達磨だるま羅刹女らせつにょ見越みこし入道。鈴鹿すずか御前。先に針女の方に行ってくれ。うちらは後から追いかける」

「例によって拙僧は留守番ですかな、若」

 そう言うのは、般若の面を被った男の妖怪。幹部の一体で、その名もズバリ、般若である。

「玉藻姉はまだ外に出すわけにはいかんからな……腕も経つうえ、頭の切れるおまえなら、この家のこと任せられる。すまんな、般若」

「心得ております。拙僧もそれが最善と判断します故、どうぞお気になさらず。針女様のこと、お頼み申した」

「よし、じゃあ――」

(――旦那、すまんちょっといいか)

 門前の化け灯篭からの念話が届く。この非常時にと思う愁思郎だが、決して化け灯篭は悪くない。こんな夜更けに来る人が悪いのだが、しかしちょっとした苛立ちが化け灯篭に向いてしまう。

(なんやねん化け灯篭。今非常事態やぞ)

(申し訳ない。しかし先ほどから門前でウロウロしている奴がいるんだ)

(なんやて? ……化け灯篭、それの特徴を言ってくれるか)

(真っ赤な髪を横に束ねた、真っ白な服を着た女の子だ。調度旦那と同じくらいの歳だと思うぞ)

 その特徴には聞き覚えがあるし、見たらおそらく見覚えがあるのだろう。

 アリスクイーンと思われるが、しかし何故こんな時間に門前にいるのか。まさか負けた憂さでも晴らしに来たのだろうか。というか、ここを目指してきたのだろうか。

(化け灯篭、その人、ここに入りたそうにウロウロしとんのか?)

(あぁ……右に行ったり左に行ったり……ブツブツ言いながら、入ろうか入るまいかと自問自答しとるわい)

(そ、そうか……)

 アリスクイーンが何用かは知らないが、しかし今は状況が悪い。なんとかお引き取り願いたいものだが――と思っていると。

「藁垣愁思郎! そこにいるのはわかってるわ! 出てきなさい!」

 意を決したかのような声で、近所迷惑も考えられてないのだろう大声が一つ。

 そこまでして因縁を吹っかけたいというのならいつでも相手になるくらいの意気込みだが、しかし今ばかりは勘弁願いたい愁思郎。焦燥が苛立ちに変わって舌を打たせたとき、障子の向こうから「失礼します」とまだ聞きなれない声が入って来た。

「愁思郎様、表は私に任せてはいただけませんでしょうか」

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