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既に時は真夜中に迫っていた。
代金を支払おうと店先に顔を出せば、未だ続いていた酒の席に引きずり込まれ、昔話に花を咲かせて気持ちよくなっている店の常連客たちから解放されたのは、ほんの少し前のことだ。
朱翔は身体にまとわりつく酒気を払い除けるように衣の表面を叩き、意識が浮遊しているような奇妙な感覚を味わいながら、香りだけで酔った自分の軟弱さを呪った。
通りには人通りもなければ、連なる長屋から漏れてくる灯りもない。この季節にもなれば夜は冷え、吐き出す息も微かに白く、視界を曇らせている日も少なくはなかった。
頬が火照っているのに、体の芯から冷えていくような感覚に。朱翔は両腕を撫でさすりながら帰路を進んだ。
子供たちが言っていた通り、この辺りは一本道で、見通しがいい。細い裏路地があってもほとんどが袋小路で、奧の長屋へと続いているだけだ。
「急に冷えてきたな」
ふわりと、星明かりしか届かない暗がりでも分かるほどの、白く生暖かい空気が頬を撫でた。昼間の暖かな陽気はどこへいってしまったのか、帰ったらすぐにでも火鉢を取り出して、持ち帰った木炭を燃やそうと、朱翔は歩く速度を僅かに速める。
更なる寒さが近づく前に、冬の蓄えをしておく必要があるだろう。今からこの寒さでは、木炭も薪も補充しておかなければ、絶対的に足りなくなってしまうはずだ。一冬保存の利く燻製や干物の価格が高騰する前に、手を打っておくべきかもしれない。
これだけ馬車馬のように働かされてきたのだ、一日くらい休みを進言しても決して罰は当たらないだろう。
だから家人を雇えと言ったじゃないか。そんな白拓の声が聞こえてきそうな気がして、朱翔は人知れず苦笑を浮かべた。
自分勝手ではあるが、そこまで分からず屋ではないはずだ。喜んでとまでは言わないまでも、渋々ならば公休を発行してくれるはずだと半ば確信しながら、朱翔は大きな門扉の前で足を止めた。
雨風を何十年も耐え抜き、より色を濃くしてきた焦げ茶色の門には錠をかけていない。これが不用心と言われる所以なのだが、錠などというあてにもならない絡繰りに頼るよりは、近所の住人たちに気をつけてもらっていた方が安全だ。
下町という場所は、得てして余所者に厳しい。しかし、一度信頼を勝ち得れば、何も危惧する必要はなかった。
門を押し開いた朱翔は、背後で自然と閉まる音を聞きながら、母屋に向かって足を進めた。大きく欠伸をもらし、凝り固まった肩を解すように上下させる。
視界の端にとらえられる庭は、時折馴染みの庭師がやって来ては、好きに手入れをしていくことがあり、美しく剪定されていた。しかし、今は紅葉した木の葉が枯れ落ち、池の半面が赤で覆われている。掃き掃除をする暇もない母屋への道を、風で流されてきた砂が薄く覆い、沓の裏がそれを引きずるような音をたてた。
申しわけ程度にかけられた入り口の南京錠を外し、朱翔は屋敷内に足を踏み入れる。
この体に、確実に蓄積されている疲労を解消するためには、眠るのが一番だ。暗い邸内を灯りも差さずに歩き、朱翔は臥室を目指した。既に、夜目にもはっきり見えるようになっていた朱翔は、難なく回廊を歩いていく。
途中、確か去年の冬の終わり頃、このあたりに火鉢をしまい込んだはずだという曖昧な記憶を頼りに、物置小屋の前で足を止めた。手探りで探し出し、持ち帰った木炭に嬉々として火をかける。これで朝方、凍えて目覚める心配もないだろう。
しかし、まだ熱くなっていないそれを抱えて、再び歩き出した時だった。
微かにだが、朱翔の耳に、何かが割れるような音が聞こえた気がした。近くから聞こえてきた音ではない。壁を何枚か隔てた向こう側から聞こえた微かな音に、朱翔は思わず息を潜めた。
普段の朱翔ならば、それを気のせいで済ませていただろう。そんな音はただの空耳で、気に留める必要もない、些末な問題だと考えていたはずだ。きっと疲れているせいだと自分に言い訳をし、さっさと眠ろうと寝床に向かっていたに違いない。
だが、この時の朱翔には、警戒を促すだけの材料が揃ってしまっていた。
「……誰か、いるのか?」
賊の話を聞かされたのは昼間のことだ。子供たちに注意をしろと説教して聞かせた記憶は、まだ新しい。
──これではまるで、何者かが図ったようではないか。
その場で一切の身動きを止めた朱翔は、じわりじわりと熱を持ち始めた火鉢を抱えたまま、あたりの気配を窺うように、視線だけをゆっくりと巡らせた。緊張と興奮の高ぶりによって、心音が徐々に速くなっていく。胸から耳元に迫り上がってくる鼓動を邪魔に思いながら、朱翔は耳をそばだてた。回廊の壁にぴったりと身を寄せ、その場にそっと膝を折る。
速まる呼吸を何とか落ち着かせ、朱翔は深く息を吐き出した。見下ろす火鉢の木炭は、赤々と燃えはじめている。
何者かの侵入を疑う前に、もしかしたら知り合いが尋ねてきたという線はないだろうかと考えた朱翔だったが、現在の時間帯を考慮すれば、それはあり得ないとすぐに思い至った。もしそうだとしても、正面から尋ねて来ないのはなぜだ。物音が聞こえてきた方法は、戸口からあまりに離れている。
しかし、何かが割れたような音の後に続く物音は、一切聞こえてこない。何者かの気配も、今は感じられなかった。
剣術はからっきしでも、基礎的な武術の手解きは、養父から指南されていた。住み慣れたこの邸内に見知らぬ気配が浸入を図れば、それを感じ取るだけの第六感は、間違いなく備わっているはずだ。
それ以前に、あの内乱を生き抜いた者ならば誰しもが、今にも己の身に降りかかろうという窮地を脱しようとする回避能力が備わっていると考えて相違ないだろう。赤子でも、この緊迫した空気を感じ取り、泣き喚くに違いない。
とりあえず、この場にいたところで埒が明かないと考えた朱翔は、火鉢をその場に置き去りにすると、中腰になって壁伝いに歩き出した。この場に朱翔自身がいた形跡を残していくのは不安だったが、仕方ないだろう。
今日が朔の日であったことは、朱翔にとって幸運だったのか、不運だったのかは現段階では分からない。けれど、相手が昼間話しに聞いていた賊だったとすれば、助かる術はありそうだ。
現在世間を騒がせている賊は、民家をやたら荒らし回っていると聞く。しかし、金品や食糧の類には一切手を触れず、しかも、襲われる民家は無差別に選ばれていると言っていた。
彼らの目的を朱翔が想像するべくもないが、上手く運べば、賊がこちらの存在に気づくことなく立ち去ることも考えられるはずだ。幸い、この邸には賊が押し入り、喜んで奪っていくようなものは何一つない。
朱翔は周りの音に注意を傾けながら、なるべく足音をたてないようにして歩く。こんな日ばかりは、庭の虫も朱翔たちの動向を見守るかのように、沈黙を貫いていた。風がどこからか運んできた落ち葉が、からからと音をたてる他は、不自然に何も聞こえない。
養父は武術の達人だった。その背中を見て育ってきた朱翔にとって、相対する者を図る基準にはいつも、龍彰の後ろ姿がある。彼の存在を元に、相手の実力を見極めるのだ。
それよりも下回っている場合は、何とかこの場を切り抜けることは可能だろう。だが、上回っていたならば、諦めるしか道はない。
「――あの人なら、どうする」
朱翔は吐息のように囁いて、自問自答した。
その場にじっとしているべきか、否か。けれど、丸腰の状態では何者が相手でも迎え撃つことは不可能だ。白旗を用意して待ち構えていようとも、ただではすまされまい。
何も佩いていない腰に触れた朱翔は、意を決したように表情を引き締めた。そして、近くの窓を音もなく押し開けると、気配を窺うように一瞬だけ息を潜め、そこから外へ静かに足を降ろす。
心臓が肋骨を叩きつけるような鼓動を繰り返していた。無意識に荒くなる呼吸を意識的に沈め、次の曲がり角で誰かと鉢合わせするのではないかという恐怖を何度も味わいながら、朱翔は邸の離れを目指していた。
刀剣の類は全て離れに保管されているのだ。あちらは道場になっており、今ではあまり立ち入ることもなくなっていた。
母屋から離れへと続く渡り廊下の手前まで来ると、朱翔は小走りになっていた足を止めた。
極度の緊張感で息もあがり、肩が上下を繰り返している。嫌な汗が体中から噴きだし、背中を撫でるように伝い落ちていく。額の汗が目に入ろうとするのを拭うと、朱翔は更に身を屈めた。むしろ、地を這うように進むと言った方が正しいだろう。
渡り廊の下にある僅かな隙間に体を滑り込ませ、汗で顔に砂が張り付くことも気にせずに、前に進むことだけを考えていた。
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