襲撃 -1-
風が頬に心地良い。
もうそんな季節になったのかと、悠玄は中庭に面した回廊を歩きながら目を細めた。月の満ち欠けに月日を図る他は興味など抱くこともなかったが、随分暗いと見上げた空は朔の夜も相まって、闇に転々と輝く星々が、こぼれ落ちそうになるほど力強く瞬いている。
回廊に灯る松明の炎が風に揺れる度に、床に映り込む悠玄の影も頼りなく揺れた。
自分の心は、この影と何も変わりない。ほんの僅かな風にすら心を揺さぶられ、意思が揺らぐ。
考えてみれば、決して間違えないと決心したあの日から、間違いばかりを繰り返している。道標にしていた背中を見失った瞬間から、どうすることもできるはずがないという空虚や、虚無感に嘖まれていた。
「悠玄」
いつかの時と同じように、悠玄の名をそうして後ろから呼び止める声があった。足を止めて瞑目し、沈み込んでいた気持ちを吐き出すように吐息をもらした悠玄は、声の主を振り返った。
「背中に元気がありませんね。どうしました?」
今も昔も変わらない、それは優しい声音だった。顔を見ればうっすらと微笑し、心配そうに悠玄の顔を覗き込んでくる。毎朝の朝議で顔を合わせていたのは、一週間ほど前までの話だ。太尉の任を解かれた今となっては、朝議に出席できるまでの官位にはほど遠い。
悠玄が曖昧に肩をすくめてみせると、李嵐稀はその隣にまで歩み寄った。
「昨日までは肩を怒らせて、元気に歩いていましたよ。浪玉に対する覇気はどうしたのです?」
「考えれば考えるほど浪玉様の正しさを思い知らされて、腹を立てているだけです。なんなのですか、あの方は。化け物ですか」
「そうですね、似たようなものでしょう。浪玉は家庭へ帰った時にだけ角を消して、良心的な人に戻るのですよ」
面白そうにくすりと笑った嵐稀は、回廊の手摺りに両手を乗せた。それから、何事かを話そうと口を開きかけるが、僅かに逡巡し、声もなく口を噤んでしまう。
その彼にしては珍しい様子に目を丸くした悠玄は、困惑に首を傾げた。
「どうされました、嵐稀様が言葉を呑むなんて」
「いえ、少し退屈なことを考えてしまっただけです」
自嘲的に微笑んだかと思えば、そのようなことを口にした嵐稀に、悠玄が驚かないはずもない。その表情の変化を横目に一瞥してから、嵐稀は暗闇に呑まれている中庭に目を向け、すうっと視界を細めた。
「浪玉は要領がいいと思いましてね。私たちは先の乱で大切なものを失ってしまったというのに、彼だけは、それを最後まで守り抜きました。彼がその手から逃したものは、主上のお命ひとつ。しかし、彼は唯一の失敗を許さず――もちろん、この国に主上以上に大切なお命など、あるはずがありません。ですが、私にはたった一人の愛する人を守る力もなく、烟浪玉にはそれがありました。時々、私は彼が羨ましくて堪らなくなります」
それは、まるで独白のように聞こえた。あるいは、本当に独白だったのかもしれない。悠玄は何も言うことができず、言葉を失っていた。愛する人すら護れなかったのは自分も同じだと、胸が締め付けられるようになる。
「まあ、こんなことはただの戯れ言です。忘れてください」
急に沈み込んだ声色が嘘だったかのように、嵐稀はいつも通りの口調を取り戻していた。
「烟浪玉は能吏です。もう凋華清のことはお互いに忘れてしまいましょう。今の朝廷があるのは、浪玉の功績です」
「裏切り者は――」
「何人たりとも死罪です。疑わしき者は罰する、それは今も変わりませんよ」
昼間の二人の会話をどこかで聞いていたのではと疑うほど、嵐稀は見透かしたように言った。
裏切り者には制裁を鉄則としてはいるが、それを心から望む者などいはしないのだと、悠玄は信じたかった。そうして一体何人の命を葬ってきたか、知らないわけではない。眠りの時すら心は安らがず、以前までの自分には決して戻ることができないのだと、そう思い知らされる。
剣を振り下ろし、冷たい地面に転がり落ちた頭が刹那、こちらを睨みつけた。
その、背筋が凍りつく瞬間を思い出してしまった悠玄は、暗闇の中から光を探し求めるように、じっと松明の炎を見つめた。
「……まだあいつのことを許せませんか?」
「敵であろうと味方であろうと、同じ裏切り行為には違いありませんから」
「もう、二年以上が過ぎました」
「十年、二十年が過ぎても、私の思いに変化は望めないでしょう。他でもないあなたが許すというのならなおのこと、私は彼のしたことを忘れません」
「……父はおそらく、誰も恨んではいません」
「それは私たちの願望に過ぎませんよ、悠玄」
死者はもう、何も語らない。
少し掠れた声で囁くように言った嵐稀の言葉は、闇に溶け込むようにして、余韻も残さずに消えた。
生まれてからの二十数年間、悠玄は争いしか知らなかった。
今を生きる何者にとっても、平和であったことなど一度もなかったこの世界だ。いざ平和を突きつけられたところで、戸惑いは拭えない。
国は、王は、官吏たちは、常に民草のために存在しているのだと、そのような当たり前の事実が、この九十年続いた争いのために忘れ去られてしまっている。
民を虐げる国ならば、王ならば、官吏ならば必要がないと罵倒を浴びせかけられれば、誰が反論の言葉を口にできるだろう。申し開きすら言い訳にしかならず、本来のあるべき姿からは遠くかけ離れていく。
それでも、争い以外を知らない悠玄でも、心からの平和を望んだ。人の命を奪わず、奪わせず、奪われずに済む世界を、強く望んだ。
もしかしたら、一生手に入れることが叶わなかったかもしれないそれを手に掴みかけている今も、無駄にはしたくないと思う。
できることならば、誰も恨みたくはないのだ。そして、誰も恨んで欲しくないと思った。ただの綺麗事だと罵られようとも、そればかりは、今も昔も変わらない悠玄の強い思いだった。
「――太子探しの件は進んでいますか」
今までの会話の流れを断ち切るように、嵐稀が言った。
悠玄はそのことに少し安堵し、余所に向けていた視線を嵐稀に戻した。
「嵐稀様に教えていただいた、葵凌青の他には、これといって重要性のある手がかりは得られていません。ですが、葵凌青についての情報も、さほど多くは望めませんでした。内乱時もそれ以降も、葵州との接点がありませんので、なんとも――ですが、廉州まで出向けば或いは」
「廉州牧は確か葵狼碧でしたね。葵家次男の。残念ながら、私は面識がありませんが」
「私もありません。叔父から聞いた話によると、彼は余程の事態が起こらない限りは、表舞台に顔を出すことをしないようです。朝議も州尹に任せきりだとか。廉州官吏の大多数が、州府長官の顔を知りません」
「葵狼碧は主上の寵愛を受けてもなお、朝廷に留まることを拒んだ人物だと聞いています。主上も私たちを彼に引き合わせてはくださいませんでした。頼るに値する人物かどうかは疑問です。廉州州牧として面識を得ることは比較的容易いでしょうが、葵家の者としてはどうか……あまり期待はできないでしょう」
「どう転ぶかは分かりませんが、今はやるべきことに対して迅速に対応していくことが最優先です。明朝、志恒と共に廉州へ向けて出立しようと思います。しばらく宮城を留守にしますが」
「構いませんよ。私から浪玉にお話ししておきます。太尉の地位は空位のまま残しておきますから、ご心配なさらず」
「その席に別の誰かが座っていたとしても、私は驚きませんよ」
むしろ、あの烟浪玉ならばやりかねないと思いながら、悠玄は苦笑した。
「帰郷に際し、名代にお会いするのであれば、嵐稀がよろしく申し上げていたとお伝えください。つつがなくお暮らしになりますように、と」
悠玄は答えを口にせず、苦々しい笑みを浮かべる。そして、その場で嵐稀に向かって拱手をすると、回廊を進んだ。
先の廉家当主は、今は亡き廉璃衒であったが、彼は多くの時を王都清朗で過ごしていたために、廉家では当主名代が立てられていた。それが璃衒の弟である悠玄の叔父なのだが、今回の帰郷で顔を合わせることがあるかどうかは、定かでない。
今はまだ出会わせるべきではないのかもしれないと考えながら、悠玄は父親の死を思い出していた。
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