第18話

「泣けばいい、もう桜は満開したわ。いつ泣いたっていい。桜の精たちはまだかまだかと待っているじゃないの」

「だめだ。泣けないよ」

「だから、どうして!」

 夜桜の声は苛立っていた。

 葉桜はそれでも「泣きたくない」とさらに言葉を重ねるのだった。

「僕が泣いたら、魔法で桜は散るでしょう?桜が散ったら、詩織ちゃんは……」

 それ以上は、泣いてしまいそうで口にできなかった。

「栞ちゃんは僕に言ったんだ、桜が散る頃にはこの世にいないって。だから……」

 夜桜は深いため息を漏らして、兄の襟首を引っ掴んだ。

 彼女の表情には、呆れと哀れみ、それに怒りまでもが混ざって大変なことになっていた。込み上げる全ての感情を夜桜は飲み込むようにぐっと堪え、声を抑えて話した。

「それなら泣かなければいいでしょう。我慢しなさいよ。そんな下らない理由で、残された時間を無駄にしないで。そんなこと、私は許さないから」

 睨め上げる妹の顔は恐ろしかった。

「ほら、行って」

 夜桜は葉桜を突き飛ばすようにして、彼を病院の正面玄関、その真ん前に押しやった。

「無理だ。泣いちゃいそうで怖いんだ」

 泣かないと、決めたのに。

 この期に及んで尻込みする兄の背中を夜桜は思い切り蹴りつけた。葉桜はよろけて倒れ、夜桜の顔を下から仰ぎ見た。

 二人の視線が刃をぶつけるようにかち合う。

 物言いたげな夜桜の目が葉桜を刺した。

 夜桜は兄に対して辛辣な物言いこそすれど、暴力を振るうような性格ではない。

 その夜桜が、あえて葉桜の背中を蹴った。葉桜にはその意味が何となく分かって、背中に残るじんとした痛みを感じていた。

 ぽつぽつと頭上から雨粒が降って来る。

 小雨だった。風は吹かない。しとしと、と真っすぐに落ちてくる空の涙が二人の肩を濡らした。

 黒髪は濡れて、艶めいている。雨のカーテンが揺れる中で、二人の兄妹は同じ桜色の瞳でいつまでも見つめ合っていた。

「お願いだから、行ってよ」

 静寂を破ったのは夜桜だった。

「泣くと思ったら、川にでも飛び込んで頭を冷やせばいい」

「……よっちゃんは無茶を言うね。まだ川の水は冷たいよ」

「そのくらいの覚悟をしろって言っているだけ」

「よっちゃんは、強いなあ……強くなったんだね」

 葉桜の頭には妹の友人、真冬の顔が浮かんでいた。

「栞ちゃん、待ってるよ」

 葉桜は、雨でぬれた前髪を払いのけた。

 泣きたかったが、泣くわけにはいかなかった。

「僕らは魔女の子どもなのに、特別なことはほとんど何もできない。魔女でも、人間でもない。僕らって何なのだろうね、よっちゃん」

 葉桜の問いに、今度は夜桜のほうが泣きそうな顔をした。

「私達は少し魔法が使えるだけの、ちょっと変な人間だよ……成り損ないの出来損ない、ただの人間なんだよ」

「そうだね、成り損ないの出来損ないだ」

 葉桜の声は雨音にかき消されそうなくらい、小さかった。

 家に帰ると言う夜桜に鞄の中に持っていた折り畳み傘を渡し、ひとり病院へ入った。

 濡れていたのでエレベーターを使うのは避けて、二階まで階段を使った。廊下の突き当りの病室、その白い扉の前まで来ても、やはり葉桜は躊躇ってしまう。

 本当はこのまま帰ってしまいたかった。

 けれど、昔なじみの友人と、妹にまで背中を押された。

 これでは、帰るに帰れない。かと言って、扉を叩く勇気もない。

 自分はなんと情けない男なのだと葉桜は再び思い知る。

「どうぞ」

 ノックもしていないのに、中から声がした。

 葉桜はびくり、と肩を跳ねた。逃げることはできない、恐る恐る扉を開いた。

 栞は膝の上に本を開いて、頁を捲るところだった。葉桜の姿を認めて、僅かに口角をあげて「遅いぞ」とわざとらしく不満げな顔をする。

「どうして、僕が来たって分かったの?」

「窓の桜が、揺れたような気がして。よっちゃんや、魔女さまが来るときもそう。桜がざわめく気配のようなものがあって、何となく分かるの」

 葉桜は窓の外に目を向ける。

 桜の枝にぶら下がった精が小さな雨粒と遊んでいた。

 きっと、魔女の血を引く者が来ると、精が騒ぐから梢が揺れるのだろう。葉桜はそんなことを考えながら、扉を閉めた。

「びしょ濡れだね、風邪引いちゃうよ」

 栞の身体からは点滴の管が無数に伸びていた。管の数は三日前より増えていた。

 さらに青白くなった手がタオルを掴んで、葉桜へと手渡す。

「栞ちゃん、遅くなってごめん」

 タオルを受け取り、葉桜は申し訳なさそうにベッドの脇に立った。

「やっと来てくれたね。待ちくたびれたよ、はっちゃん。お見舞いにも来てくれない、薄情な幼馴染になっちゃったかと思った」

 栞は傍にあった椅子を葉桜に薦めた。

「……情けなくて、ごめんね」

 言いながら、葉桜は椅子には腰掛けずにタオルを被った。

「はっちゃんが情けないのは、今に始まったことじゃないでしょ」

「返す言葉もないや」

 栞は声を立てて笑って、肩を揺らした。

 細く、薄い肩が揺れるたび、葉桜は喉が熱くなって、込み上げてくるものを飲み下さなければならなかった。

 ふ、と視線の端に鉢植えがあることに気が付いた。

 病室の隅に隠れるようにひっそりと置かれた鉢植え。植わっているのは花ではない。木の苗だった。

「この苗は?」

 葉桜が尋ねると、栞はどこか嬉しそうな顔をする。

「それはこの間、魔女さまが持ってきてくださったの」

「鉢植えなんて、病室にはだめなのに。気の付かない母でごめん、持って帰るよ」

 葉桜は慌てて立ち上がろうとしたが、栞はそれを制した。

「いいの、看護師さんにも了解してもらってるし。それに頼んだのは私なの」

「栞ちゃんが?」

「そう、私が頼んだの。それは私の苗なの」

「栞ちゃんの苗?」

「うん、私が去年、冬の終わりに植えた苗なの。自分で育てていたんだけれど、今年の冬ごろから体調を崩しがちで。魔女さまに預かっていただいていたの」

「だから、たまに母さんを訪ねて家に来ていたのか。でも、なんで苗なんか」

「ちょっと、気が向いたから」

 栞はそれ以上、苗のことは語らなかった。

「はっちゃん、大学院はどう?」

「今までとあまり変わらないよ。分からないことを研究するのは楽しい。教授も良くしてくれる。親のおかげもあるけれど」

「そっかあ、しっかり大学院生なんだねえ」

「童顔のせいで今日も学部生からサークル勧誘を受けたよ」

 栞はくくく、と笑いを漏らした。

「大将くんたち、昨日お見舞いにきたんでしょう?」

「うん、大きな花束と本を持ってね」

 栞はサイドテーブルの花瓶を指さした。

 花瓶には狭いと言わんばかりに立派な花束が生けられていた。

「私が本好きだから、お見舞いは本とお花が多いの」

 栞はベッドサイドの棚に並んだ本の山を眺めて「読み切れるかな」と呟いた。

 死ぬまでに、と言葉が続かなかったことに葉桜はほっとしていた。

「僕も花くらい持って来ればよかったな」

「それじゃあ、今度来るときはよろしく」

「必ず持って来るね」

「小さいのでいいよ、一輪でいいの。はっちゃんが選んだ花を持ってきて」

「君に似合う花を選ぶよ」

 楽しみだと栞は喜んだ。

「ねえ、大学は楽しい?」

 栞は花瓶に手を伸ばして、花弁を指先で撫でる。

 血の気が無い指先は、白い花弁と同じ色をしていた。

「うん、楽しいよ。一緒に院に進んだ友達からは泣き虫ハッチって呼ばれるけど。あのあだ名はどこまででもついて回るよ。誰が大学でばらしたんだか。それもすっかり馴染んじゃったし」

 大学でも涙腺の弱さは健在で、研究室の学生からは勿論、他学部の学生から学食のおばちゃんにまで泣き虫ハッチの名は轟いている。

 と、言うのも、学内外で飲酒の機会がある度に泣き上戸を発揮し、自分から泣き虫ハッチの話をしてしまうのが原因だ。けれども、当の本人は酒を飲むと記憶が飛ぶので真実を知る由もない。

「心配だなあ、はっちゃん、泣き虫だから。私がいなくなっても、毎日しっかり食べて、寝て、学校に行くんだよ」

「自分の母親にもそんな母親らしいこと、言われたことないよ……ねえ、やめてよ、いなくなったら、なんて話をするのは」

「だって、私はいなくなるもの」

「そんな話、聞きたくない」

 葉桜は耳を塞ごうとしたが、栞はそれを許さなかった。

 やせ細った腕に力はないけれど、その指が振れると、葉桜は抵抗できなくなってしまうのだった。

「誰だっていつかは死ぬよ。暗くなっても仕方ないじゃない」

 栞はあっけらかんと笑った。

「私だって死ぬのは怖いし、死にたくないけど……でも、もう、どうしようもないから」

 笑顔から零れる涙のほうが余程痛々しいのだと葉桜は初めて知った。

 声にならない声で栞は「怖い」と本音を漏らした。

 僕はもう、一生泣かなくていいから、この子に生きて欲しい――――それは葉桜の、切実な願いだった。

 この日から、葉桜は努めて明るく振る舞うようになった。

 栞が死んでしまうことは、忘れることにしたのだ。そして、見舞いは欠かさず、毎日、病院に通った。

 その手には一輪の花を携えて。

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