第19話

 四、


 絵に描いた太陽みたいな黄色の木春菊(マーガレット)。白いフリルを集めた麝香撫子(カーネーション)。風に吹かれた小雪を思わせるかすみ草。

 葉桜は日ごと、栞へ異なる花を捧げた。

 病室へ花を持っていくようになって四日目。この日、葉桜は銀葉(ぎんよう)アカシアの花を持って、病室を訪ねた。

 遍く花から、ただ一つを選ぶのは大変なことだった。

 けれど、楽しい時間でもあった。

 栞を想っては、彼女に似合う花を、彼女に見せたい花を、彼女に渡したい花を、葉桜は探して回った。

 空中庭園の中で迷いに迷って、その日の花を決める。彼女の言いつけ通り、一輪だけを摘み取って、丁寧にリボンをかけた。

「こんにちは、お加減はいかがですか」

 一輪の花を差し出して、葉桜は栞に微笑みかけた。病室のカーテンは開かれていて、いつも明るかった。窓一面の桜を背景に、栞は葉桜を迎える。

「今日も素敵なお花をどうも有難う」

 栞は体を起こして花を受け取る。ふわりと香る甘い花の匂いに、栞は顔を綻ばせる。

「魔女の庭園で咲いた花だよ」

「素敵なはずね。今日、大学は?」

「午後からなんだ」

「そうなの、昨日も午後からだったよね」

「昨日は大変だったよ」

 手近にあった椅子を引いて、葉桜は手のひっかき傷を栞に示して見せた。

「野良猫が研究室に入り込んだんだ」

「痛そう」

「研究用の植物がしっちゃかめっちゃかにされたよ」

「それは災難だったね。猫はどうやって研究室に?」

「扉が開いたままだったの」

「誰が閉め忘れたの?」

「僕」

 葉桜は悪びれた様子もなく、人差し指で自分自身を示した。

 人さし指の名が泣いている。

「自業自得じゃないの」

 栞は鼻先で笑い飛ばした。

「四階まで侵入する猫がいるなんて思わないもの。それで責任をとって猫を捕まえろって研究室の皆がさあ。そこから僕と猫の壮絶な戦いが始まったわけだよ……」

「次回作にご期待下さいって感じ」

「勝手に話を打ち切らないで!この後が大変だったんだから!」

「ふふ、もう、笑わせないでよ」

 葉桜が来ると、病室は賑やかになると看護師たちは口を揃えて言った。

 栞の病室では他愛ない話ばかりした。

 好きな本、好きな植物、子供の頃の話。一人で病室を訪れる日もあれば、夜桜と一緒に訪れる日もあった。散らない桜は、そんな病室をいつも窓の外から見守っていた。

 葉桜が病室から帰る時は「明日も来るよ」と必ず言うのだが、栞は決まって「毎日は来なくてもいいよ」と言葉を返すのだった。葉桜はそれが何となく寂しかった。

 

 次の日は真ん丸で愛らしい薄紫の千日紅を、その次の日は歌いたくなるような真っ赤な鬱金香(チューリップ)を。また別の日には青紫の星型をした桔梗を、目に冴える鮮やかな紅紫の酔仙翁(すいせんのう)を持って行った。

 そしてこの日は、葉桜は季節外れの紫陽花を選んだ。

 葉桜が持って来る花は一輪ずつ小ぶりの花瓶に生けられる。ベッドサイドは一輪挿しで華やかに彩られ、小さな花畑を作っていた。

「紫陽花ね、綺麗だわ」

 新たな花瓶に紫陽花の花が挿される。

「でも、まだ紫陽花の季節ではないでしょう?」

「そうだね、まだ早いね」

「マーガレットも、白いカーネーションも。チューリップも。はっちゃんが持ってきてくれる花は今の季節には咲かないものばかり。どうやって手に入れているの?花屋さん?」

 葉桜は首を横に振った。

「すべて魔女の庭園から頂いたの。あの庭園の花は特別だからね。季節が違っても、花の精にお願いすれば、花を一輪だけ咲かせてくれる」

 魔女の庭園には四季折々、日本のみならず世界各国の花が植えられている。

 庭園の花にはどれも花の精がついていた。葉桜は庭園にいる花の精から愛されていたのだ。

「時々忘れてしまうけれど、はっちゃんって本当に魔女の子なのね。花と話せるなんて、羨ましい」

「そんなことを言うのは栞ちゃんくらいだよ」

 そうかな、と栞は笑う。

「この紫陽花の株は、母さんの友人からもらったものだから、余計に特別かもね」

 葉桜は生けた紫陽花の花弁をなぞる。

 その花弁は、紫と青が混じる夜更けまで数秒前の空、夕闇のような色をしていた。

「魔女さまのご友人?」

「母さんの古い友人で、紫陽花の魔女という方なんだ」

「紫陽花の魔女?桜の魔女さまのように魔法を使うの?」

「うん、魔女だもの。紫陽花の魔女は、母さんと同じで古くは紫陽花の精だった、けれど、禁忌の罪を犯して母さんのように魔女に堕ちたそうだよ」

 花の精には決まりごとがある。

 その決まり事を破って禁忌を犯すと、魔女に堕ちるのだと言う。

「彼女はどんな罪を?魔女さまのように、人間に恋をしたの?」

 栞はさらに質問を重ねる。

「さあ、僕には教えて下さらなかった。でも、たしか、紫陽花の魔女は、雨を呼ぶ魔法を使えるのだそうだよ。それで毎年、梅雨を呼ぶのだとか。その魔法は魔女が泣かないと使えないんだって」

「はっちゃんの魔法と似ているね」

 葉桜は「今思えば、そうだよね」と頷く。そして、懐かしそうに紫陽花の花弁に視線を落として言葉を続けた。

「紫陽花の魔女は気難しいひとで、泣くのが大の苦手だったんだ。泣かないと梅雨が来ない。梅雨が来ないと、紫陽花は咲けないからそれはもう大変だったみたい」

「はっちゃんとは真逆の悩みね」

「ね、僕には信じられない悩みだ。それを聞いた母さんが、うちの子は年がら年中、泣くのよって話したら、紫陽花の魔女が家に来たんだ」

「はっちゃんに会いに?」

「そう、それで紫陽花の魔女は僕に聞いたんだよ。君はどうしてそんなに泣けるのって。まだ子供だった僕は上手く答えられなくて、泣いちゃった。紫陽花の魔女は突然、泣きだされて驚いていたなあ」

「それで、何て答えたの?」

 葉桜は泣き袋を人差し指で指示して、情けない表情をあえて作ってみせた。

「僕の涙は弱虫なんです、ごめんなさいって。それでもっと泣いてしまったんだ」

「はっちゃんらしい」

 栞の笑い声は鈴を転がした音のようだった。

「実はね、散花のお役目を頂いたあと、僕は紫陽花の魔女のこと思い出して、彼女に手紙を書いたの。こんな事情になりました。どうしてあなたは泣かないでいられるのか、僕に教えて下さいってね」

「返事はあったの?」

「一言だけだった。――――私の涙は強情なのです、って」

 葉桜はしてやられたという顔で肩を竦める。

 魔女と言うのは難しい生き物だと葉桜が愚痴ると、栞はふふ、と笑いを含んだ吐息を漏らした。

「紫陽花の魔女さんは面白い方ね。魔女ってみんな面白い方ばかりなのかしら」

「どうかな、僕は花の魔女にしか会ったことがないけれど、みんな面白いと言うより、変な方ばかりだよ。母を含めてね」

「怒られるわよ」

「魔女は怒ると怖いから、秘密にしてね」

「仕方ないなあ」

 栞は髪を耳にかけた。

 ゆったりとした風のそよぐ音、花弁と葉の擦れる音が鼓膜を揺らす。病室の窓は開いていた。彼女は不意に窓の外を見やった。

「桜はまだ散らないんだね」

 手を伸ばせば届きそうなほど近くに伸びた枝。その先には満開の桜の花が今もある。そよ風に揺られようとも、花は落ちる気配を微塵も見せない。

「散らないよ」

 葉桜は言い切った。

「はっちゃんは優しいね、毎日お見舞いに来てくれる」

「別に、普通だよ。栞ちゃんに会いたくて、僕はここへ来ているんだから」

「そっかあ、普通なのか」

「うん、普通だよ」

 大切な幼馴染に会いたい、それは葉桜にとって至極当然で自然のことだった。

「普通じゃなかったら良かったのに」

 呟いた栞の横顔はどこか物憂げで、葉桜は心に靄がかかったようだった。

 言葉の意味を葉桜はくみ取れずにいた。

 頭の中で、早く散らせて、と弱った声が響く。

 窓の外から、町中から、花の香りと共に嘆きと苦しみの滲む声が病室へと入り込んでくる。これはきっと、さくら町の桜たちの声だ。

 ただの声ではない、悲鳴だ。

 葉桜は分かっている、もう花の散る頃なのだと。

 散らなければならない頃なのだと。

 それでも花を散らせたくなかった。自分が泣いたら桜が散って、彼女は死んでしまう。

 それだけは嫌だった。

 もう一生、泣かなくてもいい。桜は咲き続ける限り、彼女は生きるのだ。

 葉桜には、桜の花と栞の姿が重なって見えていた。


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