第17話

 昼過ぎ、午前中最後の講義を終え、葉桜は学食に向かっていた。

 四月の学食はいつも以上に混み合っていた。新入生は大学生らしいことをしたいのか、挙って学食に集まる。そのうち学食に慣れると、近くのカフェなんかでランチをするようになる者が大半だ。

 昼の学食がここまで混み合うのは四月だけの、風物詩みたいなものなのである。

 混み合うこの季節は学食を避けて、近くのカフェを利用するのが二年生以上の定石である。しかし、友人の多くが卒業してしまった葉桜は一人で洒落たカフェに行くのも憚られ、仕方なく混み合う学食を選んだ。

「ハッチじゃないか!おおい、泣き虫ハッチやい!」

 学食になだれ込む人混みに尻込みしていると、葉桜を不名誉なあだ名で呼ぶ男の声があった。葉桜は馴染みのある声にはっと振り返る。

 大きな図体に、精悍な顔立ち、腕まくりした袖からは筋肉が盛り上がっている。

 葉桜とはまるで真逆の人種だ。それは葉桜の友人、昔馴染みの男だった。

「大将くん、そんな大声であだ名を呼ぶのはやめてよ!」

 男の名前はもっと普通の、ありふれたものであったが、葉桜は彼のことを大将と呼んでいた。

 葉桜がまだ幼い頃、一つ上の彼は怖いものなしのガキ大将だった。そのため、昔なじみは皆、彼を大将と呼ぶのだった。

 斯く言う葉桜も大将にはいじめられたが、今では良き友だ。

 ちなみに、大将は泣き虫ハッチの名付け親でもある。

「僕、大学でも泣き虫ハッチって呼ばれちゃっているんだからね……」

「そうなのか、名付け親として誇らしいぜ」

 大将は嬉しそうに笑った。

「不名誉なあだ名を名付けてくれてどうも」

「それよか、泣き虫ハッチが魔女の魔法で泣けなくなったって聞いたぞ。ハッチ、お前、大丈夫なのか?」

「概ね間違いではないけれど……噂話って湾曲するんだね。僕はお役目を仰せつかったの。桜を散らせないために、涙を我慢しないといけなくなっただけで、泣けなくなったわけではないよ」

「そうかあ、それなら良かったぜ。せっかく俺が授けた泣き虫ハッチってあだ名が返上されちまうかと冷や冷やした」

「できることなら一刻も早く返上したいものだよ」

「向こう十年くらいは無理だろうよ。それにしても、お前、泣き虫ハッチをやめたかったのか?」

 きょとんとした顔で大将は葉桜の顔を伺い見る。

 その顔に葉桜はむかっ腹が立った。

「当たり前でしょ!」

 つい語気が荒くなる。

 教授にも似たようなことを言われたな、と葉桜は思った。

「僕ってそんなに泣き虫のままでいいやって思っているように見えるの?」

「そういう訳じゃねえけど……まあ、そういう訳でもあるが。お前が泣き虫をやめたいなんて、ちょっと驚いてさあ」

 大将のはっきりしない言い方に葉桜はさらに機嫌を悪くした。

「泣き虫なんて嫌に決まっているよ」

「嫌なのか?」

「嫌に決まってんでしょうが。僕だって治せるなら、治したいもの」

 葉桜はむすっとした表情をすると、ぷい、と大将から顔を背けてしまった。

「お前の泣き虫って貴重な財産だと思うんだけどなあ」

 まただ、と葉桜は思う。

 教授と大将は全く違う人種だ。

 それなのに、似たような物言いで、葉桜の泣き虫を評価する。

 葉桜は腑に落ちなかった。

「泣き虫と苛めた当事者が何をおっしゃいますか」

「そりゃあ、悪かったよ。若気の至りだ、許してくれよ」

「まだ八歳かそこらだったもんね」

「だって、お前が面白いくらい泣くんだもんよ。あんまり泣くから俺は、ああ、俺って悪いことしてんだなあって気がついたんだ。それでいじめっ子を卒業したんだぜ?」

「それが何さ」

「えー?だってさ、お前は俺が柔道部の大会で優勝した時も泣いただろう?一緒に喜んで泣いてくれていたじゃないか」

「友達が優勝したら嬉しいし、泣いちゃうよ。それが何なのさ」

 葉桜は大将が優勝した中学時代の大会のことを思い出した。

 怪我を押して出場した大将の気迫は凄まじく、痛みに顔を歪めながらも、会心の巴投げ。当時の感動が蘇り、思わず涙腺が緩みそうになったが、葉桜は必死で堪えた。

「分からねえかなあ、分かってねえんだなあ、勿体ない」

 大将は腕組みして、うんうんと唸っている。上手い言葉が浮かばないようだった。

 葉桜は埒が明かない、とこの問答を諦めた。

「それよりどうしたのさ、こんなところで」

「ちょうど大学の食堂に配達があってな」

 大将は泥のついた手を「野菜の太田商店」と店名の描かれた前掛けで拭い、背後に停めてあるトラックを親指で差した。

 トラックには積み荷が溢れんばかりだった。大将の家は、商店街にある大きな八百屋だった。

「そういやあ、一昨日、店に雪間の母ちゃんが買い物に来てな……栞のこと聞いたよ」

 葉桜はどきり、とした。顔は自然と下を向く。

「驚いたよなあ、栞はつい最近までうちの店によく来てくれていたんだぜ。言ってくれりゃあいいのに、あいつって水臭いところがあるぜ。昨日、慌てて地元に残っている奴らと見舞いに行ったさ」

「……栞ちゃん、どうだった?」

 葉桜は栞が入院した日以来、彼女の見舞いに行っていなかった。

 あれから、もう三日が経っていた。

「昨日は少し調子が良いと言っていたが、顔色は悪かったな。お前のことを心配していたぞ。相変わらず、お前の姉ちゃんみたいだな、栞は」

「僕が大将くんにいじめられていると、栞ちゃんが助けてくれたよね。泣かないでしっかりなさいっていつも叱られた。栞ちゃんにはいまだに頭が上がらないよ」

「そりゃあ、俺も同じさ。ハッチをいじめるなって何度怒られたことか」

 ははは、と二人の笑い声が重なる。

「栞、寂しがっていたぞ。忙しいとは思うが、会いに行ってやれよ。あいつ、いつ容体が急変してもおかしくないって話だとよ」

「……うん」

 弱弱しい返答に大将は困った顔で頭を掻く。

「気持ちは分かるがなあ、ハッチ。逃げてどうする」

「そんなつもりはないけど……怖くてさ」

「馬鹿言うな。栞のほうがもっと怖いに決まってんだろうが」

 大将は葉桜の丸まった背中をばちん、と手形が付きそうなほど強く叩いた。

「後悔する前に、早く行きな」

 昔なじみの叱咤は、背中から内臓、骨の髄まで響いた。

「行ってくるよ、大将くん」

 葉桜は押し出されるように走った。ようやく走り出した。

 葉桜の足取りは重かったが、それでも彼は川沿いの病院へ向かって走った。

 河川敷の桜並木はようやっと満開を迎えようとしている。

 もう数日もすれば散りはじめなければならないだろう。

 木の根元にいる精たちは開花後にはお祭り気分で踊り廻っていたが、今は静かなものだった。川沿いの道を歩く葉桜を精たちは見上げて「あと少し、もうすぐだ」とせっつくのだ。

 葉桜は透明な水面を見つめる。

 水の鏡には桜と、草葉の緑、そして自分自身が映る。

 精の姿は水には映らない。

 こんなに喧しいのに他の人には見えないだなんて不公平だ、と葉桜は思う。精は見る目の無い者の前には現れない。故意に姿を現す精は恋に現を抜かした精だけだと言う。

 もし、自分が栞に恋をしていたら、悩まず彼女の病室へ駆けていただろうか。

 葉桜は病院の前で足をとめて、ふとそんなことを考えていた。こんな考えが浮かぶことすら、不思議でならなかった。真冬に忠告され、栞が入院して、恋や愛について考えることが増えた。その意味を自分でも計りかねていた。

 恋は雨降り、愛は水やり。

 それなら、栞へ向けるこの気持ちはなんだろうか、と答えのない自問を葉桜は繰り返していた。

「どうしたの、ぼうっと突っ立って」

 肩を叩かれてはっとする。

 目の前には病院から出てきたところらしい妹の姿があった。

 妹は不審そうな顔で、兄を見上げていた。

「ちょっと、考えごとしてた」

「中に入らないの?」

 夜桜は背後の白い壁を差す。

 葉桜は、何も言わずにただ立ち竦んでいた。

 友人から背中に授けてもらった喝がしおしおと萎んでいくようだった。

「お兄ちゃん、どうして栞ちゃんのところに行かないの」

 夜桜の口調は、責めているも同然だった。

「大学院に上がったら、思いのほか忙しくてね」

「嘘つき……下手な嘘を吐かないで!」

 妹の激昂した声が葉桜の耳を貫く。

 妹は幼い頃から感情表現が希薄で、声を荒げて怒ることなど滅多になかった。

 つまり、自分はそれだけ妹を怒らせることをしたのだ、と葉桜は自嘲気味に笑った。

「栞ちゃんのところに行ってよ。私達、幼馴染でしょう。どうしてなの、お兄ちゃん」

「幼馴染だからだよ」

 葉桜は妹の視線を受けながら、彼女の怒りを感じていた。

 怒りに震える桜色の瞳から、目を逸らすこともできずに、立ち竦む自分が情けなかった。

「栞ちゃんの顔を見たら、僕は泣いてしまう」

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