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第16話
三、
妹の入学式や、自分の入学式があって、葉桜は忙しく過ごしていた。
さくら町から電車で一駅の距離、隣町に葉桜の通う大学はあった。広い構内には、隙間さえあれば桜が植えられていて、すでにこの町の花は満開となっていた。桜の下には人の波が出来ている。
新年度の名物、サークル勧誘だ。
学部生たちは新入生の群れを見つけては囲い込んで勧誘して回っている。新入生の腕には持ち抱えられてないほどのチラシの山。春を迎えたキャンパスは学生たちの笑顔で眩しいくらい輝いている。
まるで魚の漁みたいだ、と葉桜は研究室の出窓から階下の様子を眺めていた。
出窓に置いた鉢植えに如雨露でちろちろと水をやる。
部屋には分厚い学術本、顕微鏡にプレパラート、各種実験機器、それらよりも数多くこの部屋を占拠しているのは実験用の植物だった。
葉桜は植物生態学の研究室に所属していた。
親の影響もあって、幼い頃から花には興味が尽きなかった。自分には当たり前のように目に見えている花の精が、他の人間には見えないのだという。葉桜にとっては、見えないことのほうが不思議だった。
植物には精が宿る。
木にも草にも花にも、精が宿る。精の形はさまざまで、人の姿をしているものもあれば、獣や異形、妖のような姿をしているものもある。目や口などがあれば、顔のないものもいる。声をあげるものも多い。
一つの植物に一つの精がいるかと言えば、そうではない。一つの植物に百居ることもあれば、精が宿らない植物もある。同じ植物でも精がいるのといないのがある。同じ植物でも精の形は個体によって差がある。
その違いが何かは分からない。精がどのようにして生まれるのか、いつ生まれるのか、それは魔女も知らないことだった。
知りたい、と思った。
だから、葉桜は植物の研究をしている。
「吉野くん、やはり来ていたのかい。いつも早いねえ、君は」
葉桜が研究室で育てている植物に水と肥料をやっているところに、研究室の長が顔を出した。葉桜が師事する教授である。
白髭を蓄えた好々爺は葉桜に有名店の紙袋から、まだ温かい紙のカップを取り出して「飲みなさい」と与えた。
香ばしい珈琲の香りがふわりと漂って来る。
葉桜は如雨露を置いて礼を言うと、カップを受け取り、湯気を上げる珈琲を啜った。
「美味しいです」
「だろう、私はここの珈琲が大好きでねえ。君の親御さんもよくそうして珈琲を飲んでいたものだよ」
「確かに、この苦さはあの人が好きそうな味ですね」
葉桜は久しく顔を合わせていない親のことを思い出して、口元に笑みに似たものを浮かべた。
「親御さんは元気かね。最近はとんと顔を見せないが」
「日本各地から世界中まで飛び回って忙しいようです。僕もあまり顔を合わせていませんが、元気だと思います」
「そうかい、そうかい。便りが無いのは元気の証拠だ」
教授は満足そうに白髭を撫ぜる。
「それでいうと君はこのところ、元気がないようだがね」
「そう見えますか」
教授は頷いて、熱い珈琲をもう一口啜る。
尊敬する人に隠し事はできないものだ、と葉桜は自嘲して、珈琲を実験台の上に置いた。
「実は幼馴染が病気で……近く死んでしまうかもしれません」
葉桜は自分で口にすると、一層事実として実感が沸いて、泣きたくなった。
「そうかい……それじゃあ、元気もなくなるはずだろう」
「僕、怖いです。死ぬことなんて、想像もできません」
「私も想像できないから、老いてもそれは変わらんさ。この年になると友人を亡くすことも増える」
「どうやって悲しみに耐えるんですか」
葉桜の問いに教授はやれやれと首を横に振る。
「耐える必要はない。哀しいものは哀しいのだから、素直に哀しめばいいのだよ」
葉桜はきょとんとして、一拍間をおいて「そういうものですか」と重ねて尋ねる。
「ああ、そういうものさ」
教授はずずず、と音を立てながら珈琲を啜った。
「その幼馴染は君にとって、かけがえのない人なのだね」
「そうです……いつも傍にいて、僕を守ってくれたんです。彼女がいなくなるかと思うと、胸が痛みます。胸が張り裂けそうだ、というのを初めて実感しています」
「それは辛いことだろう。いつもの君ならばすでに泣いていそうだが」
「お役目のこともありますし、泣かないでと彼女に言われたので……この機会に泣き虫を治そうかと」
「おや、君は泣き虫を治したかったのかね」
教授は意外そうな顔をして、白い眉をぴくりと上げた。
「勿論ですよ、二十二年の悲願です」
「それは勿体ないねえ。君の泣き虫は素晴らしい才能なのに」
「からかわないで下さいよ」
「私は本気で言っているさ。才能とは持ち主に自覚無ければ、無用の長物だ」
「泣き虫が才能なら、世の中は才能だらけですね」
葉桜は皮肉をこめて言い、俯いた。
「先生、どうでもいいことを聞いてもいいですか」
「何だね。君より年を取っている分、知っていることは多いと思うよ」
葉桜は実験台の上に置いた珈琲を手に取ったが、口はつけずに掌でその温度を感じ取る。手の中の珈琲を揺らしながら、ぼんやりと宙を見たまま、口だけを動かす。
「先生、愛って何でしょう」
「それは君、水やりと同じさ」
教授は葉桜が使っていた如雨露を手に取る。
「惜しみなく注げばいい」
そう言って、老爺は如雨露を傾けて、僅かに残っていた水を近くの鉢植えに与えた。
「では、恋とは」
「それは君、雨と同じさ」
教授は出窓へ歩いて、片手に珈琲を持ったまま、窓を開け放した。
「突然、落ちるものだ」
新鮮な空気が研究室の中へ流れ込んでくる。代わりによどんだ室内の空気は窓の外へと飛び立っていく。
葉桜は項垂れ、頭を抱えた。
「難しいですね……僕には分かりそうもない」
「何故、急にそんな難しいことを知りたいと思ったのかね」
教授は珈琲に口をつけながら、にやりと含みを持った笑みを浮かべる。
葉桜は気に留めずに、話を続ける。
「何となく……僕は恋だの愛だの、未だに分からないので。妹の友人に、もういい歳なのだから、危機感を覚えたほうがいいと言われてから、少しばかり胸につかえているのです」
教授はほっほっほっ、と梟の鳴き声のような笑い声をあげた。
「存分に悩みなさい、若人よ。答えはいつでも、いくつでも、君の中にあろう」
「僕はそろそろ若人も卒業しようかというところですが」
齢二十二、同級の友人たちのほとんどは働いている。結婚している者だっている。働いていないのは共に院に進んだ級友くらいだ。
「なあに、私に比べれば君はまだ青く、瑞々しいよ」
教授は項垂れたままの葉桜の肩を叩く。
「悩み尽きたら、親御さんに相談なさい。君の親御さんは伝説級の、語り継がれる大恋愛をされたのだから。こんな老いぼれよりはましな言葉を下さるだろうよ」
「だから、からかわないで下さいよ」
本気で悩んでいるのに、と葉桜はじろりとした視線を教授に向けるが、好々爺の笑みには勝てない。
「後悔のないように、精一杯考えなさい」
「後悔?恋や愛が分からないと、後悔しますか」
「なくした後で後悔するなんて、よくあることではないかね」
葉桜は教授の横顔を見つめていた。
教授の視線は窓の外、遥か遠くにあるようだった。
「私はいつも君たち学生には言っているだろう。研究には二つのものが不可欠であると」
教授は空になったカップを実験台の上に置いた。
「君には立派な頭がある」
教授は葉桜の癖毛をわしわし、と撫でまわした。
「そして、何より熱い心も」
それさえあれば解決できないものはない、葉桜は教授の言葉に頷いた。
葉桜に向かって片目を瞑ってみせた教授のお茶目な顔を見て、葉桜はやっと小さく笑った。
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