2
第15話
二、
栞は、花見の後に夜遅く、自宅で倒れた。救急車で川沿いの病院へと搬送された。
葉桜たちがその知らせを受けたのは、翌日、早朝のことで、花見の後片付けに追われていた兄妹は慌てて丘を下りて川沿いの病院へ急いだ。
病院に到着して、受付で栞の病室を確認しているところで、栞の両親に遭った。栞の両親は「状態は落ち着いている」と教えてくれた。あらかじめ用意していた着替えやらを取りに自宅へ一度帰ると、彼らは話した。
「娘から話は聞いているのね」
栞の母は葉桜の顔を見て、そう言った。
葉桜は「昨日、聞きました」と小さな声で返した。何も知らない夜桜は眉根を寄せて、不審そうな顔をして黙っている。
「あの子、君にはなかなか言い出せなかったみたいで。驚かせてごめんなさいね。どうか、怒らないであげて」
「花見で無理をしたせいでしょうか」
葉桜は申し訳なさそうに項垂れる。
「娘はずっとお花見を楽しみにしていた、止めても参加しただろうよ。もとより、今日から入院する予定だったんだ」
栞の父は葉桜の肩を叩いた。
「病室に行ってやってくれ。君たちが来れば、少しは元気になるだろう」
栞の両親は二人に病室の番号を伝え、病院の正面玄関へ歩いて行った。
葉桜と夜桜は二人、とぼとぼと歩いて病室に向かう。エレベーターは混み合っていたので、階段へ回った。二人で黙々と階段を登る。忙しそうに、急ぎ足で階段を下りてくる看護師と何度かすれ違う。
「お兄ちゃん、栞ちゃんのこと何か聞いていたの」
夜桜は葉桜の三段上にいた。小さな背中は不安で丸くなっている。
「うん……治らない病気なんだって。桜が散る頃にはこの世にいないそうだよ」
葉桜は力なく答えた。夜桜が足を止めたので、葉桜も足を止めた。夜桜は振り返って、葉桜と同じ桜色の瞳を大きく見開く。
「それ、本当?」
葉桜は頷くだけだった。
夜桜はその場でしゃがみこんでしまった。気丈な夜桜がこんなに弱った姿を見せるのはそうないことだ。そのくらい、二人の兄妹にとってこの事実は衝撃的なことだったのだ。葉桜は階段を一段登って、しゃがみこんだ夜桜の頭に手を置いた。夜桜の肩は小刻みに上下していた。
「……桜が咲いたままってことは、お兄ちゃん、泣かなかったのね。泣き虫のくせに、すごいじゃないの」
くぐもった声で、夜桜は減らず口を叩いた。
いつも泣いている葉桜が泣かずに、夜桜が泣いて、しかも葉桜に慰められる。きっと夜桜とっては有り得ない状況だろう、と葉桜は静かに妹のつむじを見下ろしていた。
「栞ちゃんに泣いちゃだめって言われたからね」
切れた唇がちくり、と痛んだ。
泣きたくなるたび、唇を噛むせいで昨日から、傷が絶えない。
「あんなに無理だって言っていたのに。鶴の一声ね。さすが、栞ちゃんだわ」
「夜桜が咲かせてくれた花をすぐには散らせないよ」
夜桜は一向に顔を上げなかった。
通りがかった看護師や事務員が心配そうに二人を見やったが、葉桜は大丈夫、と会釈した。そんな人が五人ほど通り過ぎた後、やっと夜桜が立ち上がった。
「ごめんなさい、お兄ちゃん。先に行ってくれる?トイレで顔を洗ったら、私もすぐに行くから」
目を赤くした妹にハンカチを渡して、葉桜は階段を再び登り始めた。
病室は二階だった。小さな町の病院は四階建てで、川沿いに建っている。古くからある病院で、町では一番大きな建物だった。すぐ横を流れる川は両脇に隙間なく桜が植えられ、さくら町の名所の一つに数えられている。窓からきらきら、と川の水面が朝陽を反射して、葉桜の目を晦ませる。
重い脚を引き摺ってやっと二階まで階段を登り終え、葉桜は一息ついた。心を落ち着かせてから、白い廊下を突き当りまで進む。病室のドアには「雪間(ゆきま)栞」と名札が掛かっていた。
コンコンコン、と三度、扉を叩く。中から「どうぞ」と聞き慣れた幼馴染の声がした。葉桜はぐっと奥歯を噛みしめて、決して泣かぬように自分を律してから扉を開いた。
「はっちゃん、来てくれたのね」
ベッドに横たわったまま、栞は葉桜に笑みを向ける。体から点滴の管が伸びていた。
川に面した病室の窓は大きく、春の景色を窓枠いっぱいに映しこんでいた。ゆったりと流れる川に、花開く桜の木々。二階の病室は桜の木とちょうど同じくらい高さで、窓を開けて手を伸ばせば桜の花に触れられそうなくらい、窓は一面桜色だった。
「この病室、いいでしょう?ずっと眺めていられる。頼んでおいたの、桜の花が良く見える病室にして下さいねって」
栞は体を起こそうともがいた。気づいた葉桜は、彼女の身体を支えて抱き起してやった。葉桜は、悟られぬように顔色を変えなかったが、真実驚いていた。彼女の身体はあまりに軽かった。羽のように、花弁のように、吹いたら飛んで行ってしまいそうなくらい。重さを失った身体は、今にも壊れそうで、儚い。
「川の水面に桜が映っている、とってもきれい」
「うん、とっても眺めがいいね」
「桜の花を見ていると、心が安らぐの。はっちゃんとよっちゃんの顔が浮かぶの。二人の瞳と同じ色だから」
「そっか」
自分の瞳は桜色と言われるけれど、本当にこんな華やいだ色をしていただろうか、と葉桜は窓の外に目をやった。きっと今の瞳は暗く曇っていると、葉桜は思っていた。
「昨日、私が帰ったあと、ちゃんと泣かずに我慢できたんだね」
今朝も無事に桜の花をつけている木々を見やって、栞は微笑のようなものを顔に携えている。
葉桜はベッド脇にあった椅子を引っ張ってきて、腰かけた。
「似たようなことを、さっき、よっちゃんにも言われたよ。僕って本当に信用が無いんだなあ」
「そう言えば、よっちゃんは?」
栞はもう一人の幼馴染の姿を探す。
「一緒に来ているよ。トイレに行くって言うから、下に置いてきちゃった」
「よっちゃんも来てくれたんだ、嬉しい。退屈していたの」
「退屈しのぎになれるなら、光栄だよ」
「二人とももうすぐ入学式でしょう?忙しいのにありがとうね」
「よっちゃんは明日、俺は明後日。院の入学式なんていらないと思うけれど」
「よっちゃんは緊張しているでしょうね」
「あの子はこういうの苦手だから、どうしてもね。それでも、いつもよりましかも。真冬くんのおかげかな」
「よっちゃん、真冬くんと友達になって少し変わったような気がする」
「そうだね、顔が明るくなったよ」
夜桜は確かに変わった。春が来るたび、嫌だ、嫌だ、と悲嘆にくれていたのに、今年は何も言わない。妹は強くなった、しかし自分はどうだ、と葉桜は己を顧みる。
何も変わっていない、どころか一層弱くなった気さえする。
目の前にいるこの子がいなくなったとき、自分はどうなるだろう。
想像もつかなかった。
「たまにはお見舞いに来てね、退屈しちゃうから」
「うん、来るよ」
「気長に待つわ」
栞は再び、窓の外に目を向けた。
「桜が散れば、この川は花びらで埋まって、きっと一面、桜色になるのでしょうね。毎年、それを見るとあまりに綺麗で足を止めてしまうの。季節が変わっていくのねっていつも思うわ」
「僕は……ああ、春は終わるのかって少し寂しくなるよ」
「そう?私はね、次は梅雨が来るんだなって嬉しくなるよ。新しい季節はいつも嬉しい」
「……そうかもね」
君は新しい季節を僕と迎えないのに、と葉桜は内心で吐き捨てる。
どうして、新しい季節を喜べるだろう。
「今年も桜の川を見るのが楽しみだわ。よろしくね、はっちゃん」
葉桜は頷かなかった。ただ、黙っていた。
彼女に、桜の川を見て欲しくなかったし、見せたくも無かった。桜が散って、桜の川を見たら、彼女はこの世を去るだろう。そんな綺麗な三途の川を渡して堪るか、と葉桜は歯を食いしばる。
いつか、道徳だか国語だかの時間に、オー・ヘンリーの短編小説を読んだことを思い出した。題名は「最後の一葉」だったか。
あの話に出てくる老画家のように絵は描けないけれど、桜を散らせないことはできる。
そうすれば、栞は生きてくれるだろうか。
葉桜は縋るような思いで、桜を眺める彼女の横顔を、睨むように見据えた。
「……桜は、散らせない」
葉桜は、強い意志を持った声で言った。
栞がはっとして振り返る。
「はっちゃん」
「桜は散らない、だから、君も死なない」
葉桜の考えを察した栞は「違うよ、はっちゃん」と困惑した顔で言うが、葉桜は聞かずに頭を振った。握りしめた拳の中で、手のひらの柔肉に爪が食い込んでいた。
「僕はもう、泣かないよ」
泣き虫な自分が葉桜は昔から嫌いだった。
葉桜は今にも泣きそうな顔で、しかし、決して涙は流さずに、唇だけ笑顔の形を作った。
栞は物言いたげだったが、戸を叩く音にそれは阻まれた。
夜桜が入ってきて、二人の間に流れていた不穏で陰鬱しとした空気は中断される。
自分が犯そうとしている間違いに、葉桜は気づいていたけれど、知らないふりをした。
夜桜と栞の話し声に耳を傾けながら、葉桜は目を閉じる。
もうすぐ、もうすぐ、と頭の中に声が響いている。春が、桜が、散る頃を葉桜に知らせてくれている。
ごめん、と葉桜は心の内で謝った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます