葉桜の章
1
第14話
一、
暦は四月に入ろうとしていた。
さくら町の桜はそろそろ六分咲きになろうというところ。
この日、魔女の家は大忙しだった。恒例であり、伝統であり、習慣であるお花見の席が開かれていたのだ。魔女の家には町一番とも言われる立派な桜がある。一説によれば、桜の魔女が魔女に堕ちる前、桜の精だった頃に宿っていた木だとも言われているが、真実は魔女のみぞ知るところだ。
兎も角、魔女の家には立派な桜の木がある。魔女の家では、毎年、この木を囲んでさくら町の民を招いて花見をする。本来なら、八分咲きになった頃に行うのだが、今年は開花が大幅に遅れた。花見を待ちきれないという多くのお祭り好きな町民たちに合わせ、六分咲きだが花見を強行することになったのだ。
町一番の桜を囲んでの花見は勿論、大宴会となる。町の者は、誘い合わせて参加し、丘にはたくさんの人間が集う。祭りのようなものだった。
桜の魔女と会える機会は多くはないので、美しい魔女を一目見たくて参加する者も多い。ただ騒ぎ立てたい酒好きも多い。そんなわけで、飲めや歌えやの大騒ぎになるのがお決まりだった。
花見は今年も大盛況。春の麗らかな日差しの下、子供たちは菓子やご馳走に夢中になり、大人たちは酒とつまみに夢中になる。昼間から酒を飲む絶好の機会を逃すはずはない。羽目を外したい大人たちは浮かれていた。
会場の中央では恒例行事の一つ、桜の魔女との飲み比べが始まっていた。
「無事に桜が咲いてよかったねえ」
皆が陽気に盛り上がる中心から外れた会場の隅で、栞はしみじみと呟いて茶を啜った。
飲み比べの騒乱から逃れてきた葉桜は、栞の横で膝を抱えている。葉桜は栞の言葉に心から頷いた。
「うん、本当に良かった。よっちゃんのことは心配だったけど、もうすっかり元気だ」
葉桜の視線の先には、妹、夜桜の姿があった。逃げ遅れた夜桜は大人たちの飲み比べに巻き込まれ、酔っ払いの介抱でぐったりしていた。
葉桜は申し訳ない、と妹に心の中で手を合わせる。
真冬が町を去って数日、もの悲しそうにしていた夜桜だったが、花見の準備が始まるとあまりの忙しなさに目を回した。いつの間にか寂しさは吹き飛ばされたらしい。
今日の花見が無事開催されたのも、妹の夜桜が苦難を乗り越え、心からの笑顔によって開花の魔法を為したからである。
「でも、次は僕の番だよ……どうしよう」
葉桜は立派な妹の姿から真下へと視線を落とした。
頭を膝で抱え、ダンゴ虫のように丸くなる。
「どうしようも何もないでしょうに。泣かなければいいじゃない」
「満開まで最低でもあと一週間……いや八分咲きの四日後くらいか、それともせめて三日は泣かないようにしなきゃ」
「どんどん短くなっているじゃない。もう、情けないんだから」
「僕が情けなくなかった時があったのなら、教えてほしいね」
葉桜はいじけていた。
「美味しいものでも食べて、元気出しなさい」
栞は落ち込む葉桜に、花見の為に皆が持ち寄ったお重からいくつか彼の好物を見繕って、彼の前に備えるように紙皿を置いた。
葉桜はありがとう、と箸をつけ、もそもそと咀嚼する。
「むしろ今日まで、そう、六分咲きまで持ちこたえていることが奇跡なんだよ」
「確かに。三日に一回は泣いているような男だものね。どうやって我慢しているの」
「泣きそうになったら、壁で頭を打って意識を失うことにしているんだ」
妹が考案した方法だ。たん瘤が増えるが、何とかそれで今日まで持ちこたえてきた。
栞は呆れて物も言えないと言う顔で夜桜のたん瘤に目をやった。
「たん瘤の上にたん瘤ができたよ」
「馬鹿じゃないの、そのうち酷い怪我をするわよ」
「だってそれしかないんだもの」
葉桜は頭のたん瘤を撫でて、青い息を吐いた。
「もう、泣けないことが辛くて、それで泣きそうになる」
「木乃伊取りが木乃伊になる、みたいな話だなあ」
栞は困ったように眉を下げて笑った。
「よっちゃんが頑張って咲かせたんだから、俺も頑張って散らせないようにしないとって思うんだけどね。これがなかなかどうして、うまくいきそうにない」
葉桜は幼いころから、見守り続けてきた一本桜を見上げた。
町で一番と言われるだけある大木は、数え切れないほどたくさんの花をつけていた。これが満開になれば、枝の隙間が見えぬほど花で埋め尽くされる。
この木に桜の精はいないが、花の時期になると他の木から浮かれた精たちが遊びにやってくる。今も宴会の陽気に当てられて、上機嫌で精たちは枝や根の上を踊り歩いている。
桜の精は、楽しいことが大好きなのだ。
「こんなに綺麗に咲いたんだ、すぐに散らせたら勿体ない。よっちゃんにも桜にも、申し訳が立たないよ」
「そうだね、泣き虫のはっちゃんには酷な話だけど」
「全くだよ。俺は小中高大と泣き虫ハッチと呼ばれた男なのに」
泣き虫は生まれついての性だった。どうにか治さねばと思い続けて二十二年になるが、未だに治る気配はない。
葉桜は赤子の頃からよく泣く子だったが、成長してもよく泣く性質そのままだった。
怖くても、痛くても、辛くても、哀しくても、すぐに泣く。嬉しいときはもっと泣く。
だからか、不思議と葉桜は人に愛された。泣き虫ハッチと名付けたのはいじめっ子だったが、あまりに葉桜が泣くので良心の呵責というものを早々に覚えて彼はいじめっ子から兄貴肌のガキ大将に転身した。
葉桜は放任主義の親と理解ある良き友人に恵まれ、幸い苛烈ないじめに遭うこともなく、泣き虫ハッチのまますくすくと成長した。おかげで、四月から大学院生になるが、彼は泣き虫ハッチの名を返上できずにいるわけだ。
「ふふ、懐かしい、そのあだ名。はっちゃんに本当にぴったりだよね」
「嬉しくないよ、それ……ねえ、栞ちゃん、何だか、顔色が悪くない?」
葉桜は話しながら栞の顔にかかった髪を手で払う。化粧で誤魔化しているようだが、肌は青白く、血色が悪いように見えた。思えば、彼女は随分痩せたように思う。こんなに腕は細かっただろうか。今日だって彼女は皆が持ち寄ったご馳走のどれにも箸をつけていない。
栞は「大丈夫だよ」と首を横に振る。
心配した葉桜が「でも」と食い下がろうとしたのを遮って栞は言葉を発した。
「はっちゃん、聞いて」
凛とした声だった。栞はぴんと背筋を伸ばして、葉桜に向き直った。
「私、明日から入院するの」
「え、そんな、急に……どうして?どのくらい入院する予定なの?」
葉桜は動揺しながら尋ねた。
「退院はできない」
栞は穏やかな表情を変えぬまま、言葉を続けた。
「治らない病気なの。私はもうすぐ死にます」
頭の上にずしん、と重い何かが落ちてきたような、強い衝撃が葉桜を襲った。彼は何も言えずに、息をするのも忘れ、彼女を見つめ返すのが精一杯だった。
「黙っていて、ごめんね。ずっと前から分かっていたことなの」
葉桜はやっと息をした。忘れていた呼吸を思い出した。
「もうすぐって……どのくらい」
どのくらい、時間は残されている。葉桜の声は震えていた。
「たぶん、桜の散る頃には」
栞は、少し迷ってから、そう答えた。
今、桜は六分咲きになろうとしている。満開して、花が散るまで、通常であれば一週間から二週間ほどだ。葉桜は絶望に近い気持ちを初めて抱いた。
栞に「そんなの、嘘だよね」と言いたかった。でも、言えなかった。葉桜は栞の幼馴染だ。彼女のことはよく知っている。彼女がこんな哀しい嘘をつかないひとだと、葉桜は知っている。
「いつから、分かっていたことなの」
今更聞いてもどうしようもないけれど、聞かずにはいられなかった。
「就職する頃、ちょうど一年くらい前。病気が見つかって、余命一年で手の施しようはないって言われた」
「何で言ってくれなかったの」
つい責めるような口調になって、葉桜は拳を握った。
「はっちゃん、泣くでしょう?」
栞の優しさが胸に痛かった。
「薬で騙し騙しやってきただけど、この間受けた検査の結果がだいぶ悪くてね。もういつ、どうなってもおかしくないの。仕事も辞めた。館長には言ってあったけど、みんなに迷惑かけちゃった。病気が分かって、就職を辞退しようかと悩んだけれど。図書館で働くのが夢だったから、諦めきれなくて。そうしたら、館長が色々と力を尽くして下さってね、おかげで一年、働くことができた」
栞は子供のころから本が好きだった。
葉桜はそれをよく知っていたし、彼女が就職した時は自分のことのように喜んだ。何も知らずに、喜んでいた。
花見を楽しむ賑やかな声が、とても遠くに聞こえた。遠ざかっていくように、声はどんどんと小さくなる。彼らだけが昼にいて、自分達だけが夜にいるような孤独感。
「桜が散って、葉桜になる頃には、私はもういないと思う」
栞の声だけが、鼓膜に直接響いているようだった。
葉桜は堪えきれずに、栞の手を握った。
「嫌だよ、僕は嫌だ……栞ちゃんがいなくなるなんて」
耐えられない、と掠れた声は真昼の空に消えた。
「だからね、はっちゃん」
栞は葉桜の情けない顔を覗き込むようにして微笑みかける。
血の気をなくした唇は薄く開いて、彼にたった一つだけ願う。
「あんまり早くに泣いちゃ嫌だよ」
その願いは葉桜にとって、あまりに痛々しく、寂寥感に満ちていた。葉桜は答えられずに空気だけを飲み込んで、彼女の手を握る力を強めた。
今にも泣き出しそうだったけれど、葉桜は泣けなかった。否、泣かなかった。
噛みしめた唇に滲んだ血は、とても苦かった。
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