第10話


 五、


「私も誘ってくれてありがとうね、よっちゃん、真冬くん」

 栞はにこやかに車の助手席に乗り込んだ。

 日曜、早朝のさくら町は静かだった。三月に入ったばかり、早朝ともなると底冷えする寒さだった。クラシカルな、こじんまりした車は、最後の仲間を受け入れると町をのろのろと出発した。車体の前後には年季の入った若葉マークがある。

 運転手の葉桜は、初心者という訳ではない。免許を取ったのはもう二年も前になるが、腕前は今でも初心者同然。周囲への配慮と自己防衛のため、栞の言いつけで当分は若葉マークを外さない約束だ。

「こちらこそ、忙しいのに急に誘ってごめんね」

「栞さん、私服も可愛いね」

 真冬は呼吸するようにさらりと栞を褒めた。

「ありがとう、さすが真冬くんね」

 そう言えば真冬は女子に囲まれていることが多かったような、と夜桜はふと思い出す。女子の扱いに慣れているわけだ。先日の学食での騒動でも、女子の諍いに巻き込まれても彼は平然としていた。

「はっちゃんも真冬くんを見習ってよ。女性を褒めるくらいスマートにこなさなきゃ」

 ちょうど赤信号で停車して、葉桜はむすっとした顔で助手席の栞を睨む。

「僕は運転に必死だったの。それにそんなことが出来ていたら、僕にはとっくに可愛い彼女の一人や二人いるさ」

「顔だけは魔女さまに似て良いのに残念なことね」

 後部座席の夜桜と真冬はうんうん、と一緒になって頷いた。バックミラー越しに二人の動きを確認した葉桜は憤慨した、

「みんなして、失礼にもほどがあるよ!僕だって、栞ちゃんのことはいつも可愛いと思って見ているし、褒めるくらいやろうと思えばできなくも……って、あれ、何か、今日は顔色悪くない?」

「褒めるって言った傍から、悪口じゃない。昨日、仕事で遅くなっただけよ。ほら、青信号だよ、初心者もどきさん」

 葉桜は慌てて車を発進させた。

 栞は体を半分後ろに向けて、夜桜と真冬に話しかけた。

「よっちゃんが笑顔を思い出せるように色々したんだってね。お笑いライブに落語に、お菓子作り。それで、今日は遊園地。ふふ、うまくいくといいなあ」

 改めて今までの取り組みを並べられると、夜桜は自分たちのしていたことが少し間抜けに思えた。

「考えが幼稚だって思った?」

「ううん、楽しそうでいいなって。私、今日をすごく楽しみしていたの」

 栞は姿勢をもとに戻し、シートに体を預け、しみじみと言った。

「来られて良かったなあ」

 栞ちゃんってこんなに遊園地が好きだったかな、と夜桜は助手席のガラスに映る栞の綻んだ顔を盗み見ながら思った。

 大人の栞が楽しみにするくらいなのだから、まだ子供の自分はもっと楽しめるはず。

 きっと今日こそ笑顔を取り戻せる。夜桜は車に揺られながら密かに決意していた。


 葉桜はおっかなびっくり運転していたが、四人は無事、目的地についた。さくら町から車で二時間ほどの距離にある遊園地。子供向けのコーヒーカップ、メリーゴーランドの他に、大人でも泣いてしまうほど怖いお化け屋敷と数種類の絶叫マシンがこの遊園地の目玉だった。季節柄、利用客はそう多くないと見越していたが、チケット売り場には列ができていた。四人分のチケットを購入して、入場ゲートを潜り抜ける。

 カラフルな色彩とファンタジックな見た目の建物が並んでいる。建物を縫うようにしてジェットコースターが走り、乗客の歓声と悲鳴が混じった声が空から降ってくる。

 風船を配る着ぐるみには子供たちが集まって、きゃっきゃっと幼い笑い声が絶えない。子供だけでなく、大人までも浮かれ気分で、スキップするような足取りだ。園内は人の活気で溢れ、残冬の寒さなど吹き飛ばすほどの賑やかしさだった。

「すごい……みんな楽しそう」

 活気に気圧されて、夜桜はぽかんとしていた。

「遊園地って、中に入るだけでなんだか気分が上がるよね」

 夜桜の肩をぽんと叩いて真冬が意識を引き戻した。

「いくつになってもそうだよね、不思議なことに。あー、楽しみ!」

 栞は子供たちに負けんばかりの元気さで跳ねるように歩く。葉桜が「子供みたい」とからかって、栞に追いかけられていた。

「夜桜ちゃん、着ぐるみがいるよ!あれと写真撮ろう!」

 真冬は夜桜の手を引いて、二つの大きな毛玉の塊に向かって駆け出した。

「走らなくても、着ぐるみは逃げないよ」

 走りながら、夜桜は真冬の背中に言う。

「だって、楽しい時は走っちゃうでしょ?」

「真冬くんは楽しいの?」

「もちろん!」

 脚が思わず走り出してしまうのは、心が逸るからだろうか。

 夜桜は自ら駆ける。手を引いてくれた真冬に並び、彼を追い越していく。

「私、白猫の着ぐるみの隣が良い」

 歌うように弾む声で、今度は夜桜が真冬の手を引いて、速度を上げた。

「あれはニャッピーちゃんだよ」

 真冬は黒猫の着ぐるみを差して「俺はニャッポーの隣にしよう」と言った。

「ほら、撮るよ」

 栞に掴まえられて、カメラ係を任命された葉桜が「はい、チーズ」と声をかける。

 シャッターの音は楽しい一日の始まりの合図だった。


 四人は片っ端から乗り物を楽しんだ。葉桜が絶叫マシンに乗っては泣くので、仕方なく子供向けのコーヒーカップに乗ったが、悪ノリした真冬によって皆が目を回すことになった。

 休憩がてら、お化け屋敷に入ろうと栞が提案したが、怖がりの葉桜は泣いて嫌がる。抵抗むなしく、葉桜は栞と夜桜に引き摺られて肝を試すことになった。試すまでもなく肝の小さかった葉桜は泣きながら、帰りは真冬に引き摺られて出口から生還したのだった。

「葉桜さん、泣き過ぎだよ。成人男子として大丈夫?」

 真冬が呆れた顔をして、彼にポケットティッシュを手渡した。

「お兄ちゃんはガラスのハートだから」

「あの子より泣いていたよ、はっちゃん」

 栞はからかうような顔で、アイス屋の前でアイスを落として泣く幼い子供を差してけらけらと笑った。

「そんなことないよ!子供が多いからって比べるのやめてよ!」

 少子化問題なんて嘘かと思うほど、園内には小さな子供が走り回っていた。

「やっぱり家族連れが多いもんだね。カップルも同じくらいいるけれど」

 園内を歩きながら、葉桜は周囲の人々を見回した。若い男女の二人組と、小さな子供を連れた家族がほとんどだった。

「俺達も周りから見たら、二組の恋人同士に見えるんじゃないですか」

 真冬は「ね、夜桜ちゃん」と同意を求めた。夜桜は「それもそうね」と事もなげに答えたが、葉桜は真っ赤になっていた。

「何一人で照れているの、はっちゃん」

「だ、だってさあ」

「葉桜さんって面白いなあ。夜桜ちゃんと違ってからかい甲斐があるや」

「そう言えば、真冬くんって彼女いないの?君って女の子から人気ありそう」

 栞はにやにやした顔で真冬をつついた。

「残念ながら今はいないですね」

「ほー、今は、ねえ」

「受験が縁の切れ目でした」

「あらま、受験生は大変なのね」

「真冬くん、そんな辛い思いを……!」

 恋人と別れるというのは、色恋沙汰に縁遠い夜桜と葉桜には想像つかないことだ。しかし、感受性豊かな葉桜はどんなに哀しいことだろうと真冬に同情して目元を拭っていた。

「葉桜さんって、日に何度泣いたら気が済むんです?どうせ、子供用コースターに乗っても泣くんでしょ?泣きすぎて枯れますよ」

「お兄ちゃんはいっそ涙が一度枯れたらいいよ、泣き過ぎ」

 葉桜は目を赤くして「ひどい!」と嘆いた。

「栞さんは?恋人いるんですか?俺とかどうです?」

 冗談交じりで真冬が軽口を叩くと、栞はくすくす笑った。

「いないけど、真冬くんは遠慮しておく。前途ある若者に私みたいなのは勿体ないからね。恋人は大学で見つけたほうがいいわよ」

「そうだよ、大学でぼうっと過ごしていたら、俺みたいに灰色のキャンパスライフを送ることになるよ」

「はは、気をつけます」

 偉そうに胸を張って言った葉桜を見て、栞は呆れて言葉も出ないようだった。

 色恋沙汰にはとんと縁のなかった夜桜は「みんな、大人ね」と感心した。

「私は恋ってよく分からない。ねえ、お兄ちゃん」

「そうだねえ、僕もだよ、よっちゃん」

「葉桜さんはもういい歳なんだから、ちょっと焦った方がいいですよ」

「うん、ご忠告ありがとう……」

 葉桜は年下の男子から助言を受けて自分の不甲斐なさにまた泣いた。栞は葉桜など気にも留めずに真冬に重ねて尋ねた。

「そう言えば、真冬くんってどこの大学行くの?県内の国立とか?」

「いえ、県外の大学です」

 大学名を聞いて、皆は揃って驚いた。誰でも名前を知っているような名門大学だった。

 夜桜は自分の身体が徐々に爪先から強張っていくのを感じていた。

「すごいね、優秀なんだ」

「幸運にも学校から推薦がもらえたんで、楽しましたよ」

「推薦がもらえるのだって凄いよ。僕なんか今の大学、ぎりぎりだったもん。でも、そこってかなり遠いよね」

「北のほうだから寒そうね。じゃあ、春から独り暮らしするの?」

「そうなんですよね、料理苦手だからちょっと不安です」

 真冬は黙ったままだった夜桜を振り返った。

「そう言えば、聞いてなかったけど、夜桜ちゃんの進路は?」

「……私は県内の製菓学校だよ」

 ぼうっとしていた夜桜は一拍遅れて答えた。

 進学校なので、教師は大学進学を目指し浪人することを強く勧めたが、夜桜は突っぱねた。高校三年生のはじめ、不登校になった夜桜は、勉強が大幅に遅れていた。浪人してまで入りたい大学はなかった。

 魔女である母は、好きなことをしなさいと言ってくれた。

「お菓子作りが好きだもんね、夜桜ちゃん」

「……うん」

 どこか気のない返事に真冬は首を傾げる。

「どうしたの?」

「何でもないよ。早く順番こないかな」

 観覧車の列は混み合っていた。閉園時間まで残り少ない。四人は最後の乗り物に観覧車を選んだ。最後は泣かせたお詫びに葉桜の意見を尊重したのだ。

 他愛ない話を続けながら、順番が来るのを待った。夜桜は自分の心が体の外に出てふわふわと風船みたいに浮いているような、とにかく落ち着かない変な気分だった。

 順番が来て、カップルだと勘違いした係員に夜桜と真冬、葉桜と栞は二人ずつに分けられ、別々のゴンドラに案内される。あれよあれよ、と言う間に夜桜と真冬はゴンドラに詰め込まれてしまった。

「盛大な勘違いをされたね……四人で乗るつもりだったのに」

 後ろのゴンドラに乗った栞が体を後ろに向けて手を振っているのが見えて、夜桜は手を振り返した。その内、栞の姿は見えなくなった。

「紛らわしい俺達が悪いよ。良いんじゃない、最後くらい別々でもさ。俺達はともかく、あっちの二人にはいい機会かもよ」

 真冬は前を行くゴンドラをちら、と一瞥した。

「栞ちゃんとお兄ちゃん?どうして?」

「近すぎて気が付かないこともあるんじゃないかなって。余計なお世話かもしれないけど」

「恋愛マスターの真冬くんは」

「勝手にマスターにしないでよ、普通だよ」

 訂正が入ったので、夜桜はこほんと咳払いして言い直した。

「普通の真冬くんから見て、あの二人はそうなの?」

「どうかなあ、葉桜さんは規格外過ぎてわかんないけど、栞さんは何となくそうなんじゃないかって思った。勘違いかもしれないけどね」

「ふうん、難しいのね」

 長いことあの二人と過ごしてきた夜桜だったが、兄も夜桜も色恋には疎かったので、そんなことは考えてもみなかった。

 魔女の子どもたちは友達を作るだけで精一杯だったのだ。

「真冬くんは大学へ行ったら、恋人を作るの?」

「どうかな、好きな子が出来たら恋人になりたいとは思うだろうね。なれるかどうかは、相手次第だけど」

「じゃあ、友達は?」

「気が合う奴がいればね。高校みたいにクラスは無いから、気楽だよ。夜桜ちゃんも友達できるといいね。恋人も」

「どっちも自信ないな」

「はは、夜桜ちゃんに簡単に友達や恋人が出来たら、きっと俺は寂しくなっちゃうかもしれないからそれでもいいよ」

 ゴンドラはもうすぐ天辺に差し掛かろうとしていた。

 夕陽が差して山は真っ黒な影をつくり、空との境界を曖昧にする。

「真冬くんの大学って遠いんだね」

「そうだね、ここから見えないくらい遠いね」

 真冬はゴンドラから見えるジオラマのように小さな街をぼんやりと眺めていた。

 彼は街に目をやったまま「明日、卒業式だね」と言った。

「ちょっと緊張する」

「この間みたいに喧嘩しないようにね、夜桜ちゃん」

「しないよ、喧嘩なんて」

 夜桜はそれきり言葉を飲み込んでしまった。言いたいこともあったような気がするのに、頭の中で言葉は繋がらなかった。

「夜桜ちゃん、今日は楽しかった?」

「……うん、楽しかった」

「俺も」

 真冬は夕日より眩しく笑った。夜桜は緩みそうになる口元をぎゅっと噛みしめた。

 日暮れの観覧車から見渡せる園内は閑散としていた。もう閉園時間が近いからだろう。皆、我が家へ帰るのだ。楽しい夢の時間にも必ず終わりは来る。

 笑ったら、桜が咲いて、春が来る。

 春が、来てしまう。

 夜桜は夕闇に溶けていく園内をただ静かに見下ろしていた。窓に反射されて映る自分は変な顔をしていた。母譲りの桜色の瞳は憂いを帯びている。瞳の中には、自分がいた。

 笑いたくないな、と思ってしまった自分がいた。

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