4
第9話
四、
翌週、学校の食堂で夜桜と葉桜は遅い昼食をとっていた。今日は保健室がけが人や病人で大賑わいだったので、遠慮して昼食は食堂に移動したのだ、
と言っても、時計は十三時を回っていたので、下級生の姿はなく、自由登校の三年生がぽつり、ぽつりと広く間隔をあけて座っていた。
二人は向かい合って座り、夜桜は弁当、真冬は学食のラーメンを食べていた。二人は弁当とどんぶりの間に雑誌の遊園地特集のページを広げていた。
「どこがいいかな」
「雑誌に載るような有名どころは町から遠いからなあ」
あそこはどうだ、ここはどうだ、と二人で思いつくまま遊園地の名前を上げる。
「たしか、隣の県に大きな遊園地があったよね」
「ああ、あったね。ちょっと遠いけど……そうだ、お兄ちゃんと栞ちゃんを誘って、お兄ちゃんに車を運転させればいいよ」
「お兄さん、来てくれるのかな?」
「大丈夫、あの人は泣き虫な分、楽しいことも大好きだから。院試も終わって余裕みたいだし」
「お兄さんって大学四年生だっけ。院に行くんだ?」
「そう、植物の研究がしたいんだって。植物を科学で解き明かしたいそうな」
「桜の魔女の子どもなのに?」
「桜の魔女の子どもなのに」
真冬は面白いな、とくすくす笑った。家に何度か来るようになって、真冬はすっかり葉桜と打ち解けていた。魔女である夜桜の母にも会いたがったが、気まぐれな魔女は魔法の力を託して以来、家には戻ってない。そんなことはいつものことなので、兄妹はあまり気にしていなかった。
「車で一時間だって」
真冬は携帯電話で、遊園地の場所を調べていた。
「意外と近いね」
「今なら来園者プレゼントで三毛猫のミッチャーの着ぐるみを見つけたら、指人形をくれるらしいよ」
「それはいらないわ」
「葉桜さんにあげたらいいんじゃない」
「喜びそうだからいや」
いつにするか、何時出発にするか、雑談を交えながら二人は予定を詰めていた。
不意に、真冬が押し黙ったので、夜桜はどうしたのだろうと同じように黙った。
「楽しそうな話をしているんだねえ」
夜桜の背後から可愛らしい声と共に、すらりとした手が伸びる。その手は夜桜と真冬の間にあった雑誌をひょいと掬い上げた。
「ふうん、ふたりで遊園地行くの?」
その手の主は制服を下品にならない程度に着崩して、髪を洒落た柄の髪飾りで結っている。可愛いと評されるその大きな目が、夜桜はどうにも苦手だった。心の中を覗かれるような気がするのだ。
「……佐野さん」
夜桜は目の前にいるクラスメートの名を口にした。その声は強張っていた。緊張と恐れを混ぜたような感情に唇さえも震え上がりそうだった。夜桜は目だけを横に動かす。佐野の周りには取り巻きの女子が何人かいた。その中には夜桜の友人、藤井の姿もあった。
藤井は心配そうに夜桜を見つめている。
「えっと、そうだね、受験中の人がいる場所で話すべきではなかった。ごめん、場所を変えるよ」
何も言えないでいた夜桜に代わって、真冬は物腰柔らかに答えた。
「こっちこそ邪魔してごめんね。久しぶりにみんな揃ったから、受験の息抜きに学食でご飯食べようって話になって。そしたら二人が見えたから」
佐野は話しながら、雑誌を机の上に戻した。
「真冬くんと吉野さんって仲良かったっけ?」
「最近、友達になったんだよ」
真冬は笑顔のまま、佐野の質問に頷いた。
「へえ……吉野さんは私とは友達になりたくないのに、真冬くんとは友達になるんだね?」
今度の問いは、夜桜に向けられたものだった。佐野は怒っている風ではなく、通常の口調と変わらなかった。真冬はどうしたものか、と様子を窺う。夜桜は固まったままだった。
「佐野ちゃんにあんな酷いこと言ったのにさ、どういう神経してんのかな」
「大人しそうだけど、男好きなんじゃない」
佐野の取り巻きたちは小声で囁き合っていた。それは聞こえることは承知のひそひそ話だ。女子特有にしてお得意の、夜桜に言わせれば、面倒くさい友情と言うやつなのである。
「さ、佐野ちゃん、みんなも、そんな言い方しなくても……よっちゃんはそういう子じゃないよ」
見かねた藤井が口を挟む。それに便乗して真冬も加勢した。
「そうそう、俺が夜桜ちゃんに友達になろうってしつこく言ったんだよ、夜桜ちゃんは嫌がったんだけど、俺が無理に」
「いいの、真冬くん」
夜桜は、真冬の言葉を遮って、立ち上がった。そして、意を決して、佐野を見据えた。
「私は真冬くんと友達になりたいと思ったから友達になった。それだけのことだよ。何かいけないの?」
しん、と食堂が静まり返った。他の生徒たちの視線まで集まる。佐野より先に取り巻きの女子の一人が「それって酷いんじゃないの」と声を上げた。しかし、夜桜は耳を貸さなかった。彼女は佐野だけを見ていた。
「どうして、真冬くんは良くて、私はだめなのかな。私、吉野さんに嫌われるようなことしちゃった?」
佐野は怒るでも責めるでもなく、あくまで優しく、自分に非があると思っている口ぶりだった。
「私はみんなと仲良くなりたいの」
佐野は夜桜が最も嫌悪する台詞を口にした。
何度聞いても、気分の悪くなる言葉だと夜桜は再度、思った。
これが佐野の本心なのか、演技なのか、夜桜には判別つかない。実際、どちらでもよかった。どちらだとしても、結果は変わらない。
「だから、吉野さんとも友達になって卒業できたらなって思うんだ。私に悪いところがあったなら、謝るし、仲直りして友達になれないかな?」
佐野の声は優しかった。それが夜桜にはいっそう恐ろしかった。
仲直りするもなにも、壊すほどの仲は無かったはずだ。どうして、この子はそこまで友達にこだわるのか。ここまで拒絶されたら普通、引くだろう。彼女もまた夜桜とは違う意味で「人気者の佐野」に苦しめられているのかもしれない。そう思えば、彼女への言い知れぬ恐怖も和らいだ。
この恐怖の正体は真冬のおかげで掴んでいる。恐れることはないのだ。
「佐野さんは、私に悪いことなんて何もしていない。多分、どちらかが悪いんだとしたら、確実に私が悪いんだと思う。佐野さんが謝ることは何もないよ」
「じゃあ、何で?」
佐野は理解できないといった表情だった。
「そんなに難しい話じゃない。ただ、私はあなたと友達になりたくなかった。それだけの話だよ。佐野さんはみんなと仲良くなれると思っているみたいだけど、私はそうじゃないの。あなたのそういうところが好きになれそうもないから」
そうだ、これが私だ。
夜桜は内心で自分を鼓舞する。
何を恐れることがあっただろう。
何を恥じることがあっただろう。
言い切ってしまえば、本当に簡単な話だったのだ。
夜桜が恐れていたのは、佐野という形をした目の前の正論だった。
「だからあなたとは友達にはなれないの」
人間がこれだけいて、たまたま同じクラスになったからと言って、必ず仲良くなれるのか。それは努力の問題か。絶対に友達になれるなんて、夜桜には無理だった。苦手で、相容れない相手は必ずいる。それを学校という枠は、目の前にいる人気者の彼女は、認めてくれないだろう。
でも、それでもいい。出来損ないだから、それでもいいんだ。
できない自分を許してやろう。こんな自分を許してくれる友人を見つけたらいいのだ。
「四月のときは言い過ぎた。それは謝るよ。嫌いとか言って悪かったと思ってる。口が過ぎました」
友達になりたくない。好きではない。
だからと言って嫌いと面と向かって言ってもよい訳ではないのだ。四月の夜桜はそのくらい短気で子供だった。
夜桜にとって余計なお世話だったことは否めないが、好意をもって接してくれた相手をないがしろにして、傷つけた。それは謝罪すべきなのだ。夜桜は初めて心から謝罪した。
「本当にごめんなさい」
深々と、夜桜は頭を下げた。佐野は何も言わなかった。
夜桜は徐に顔を上げると「そういうことだから、さよなら」と一方的に別れの言葉を残して、学食を去った。後ろから追いかけてくる足音は真冬だと分かっていたので、学食を出てすぐに、速度を緩めた。
真冬が「大丈夫?」と夜桜の顔を覗いた。
「あれ、なんか、すっきりした顔しているね」
夜桜は黙って頷いた。事実、とても晴れやかな気持ちだった。
「こんなことに、一年もかけちゃった」
「こんなこと、でもないんでしょう?」
「佐野さんはともかく、あーちゃん以外の取り巻きは完全に怒らせただろうな……事実、悪いのは私だもんね」
名前も分からないクラスメートたちの怒った顔を思い出して、夜桜はため息を吐いた。卒業式までは早々遭うこともないだろうが、気まずいのに変わりはない。
「よっちゃん、待って」
夜桜は友人の声に足を止めた。
「あーちゃん……」
藤井は息を切らして、壁に手をついた。
きっとあの場を収めてから、必死で追いかけてくれたのだろう。夜桜は友人の息が整うのを待った。
「よっちゃん……さっきは、ごめんね」
「ううん、こっちこそごめん。皆を怒らせちゃって。迷惑かけたね」
「迷惑なんて思ってないよ」
「そっか……あーちゃんは人が良いね」
何言ってんの、と藤井は夜桜の肩を軽く叩いて、肩に手を置いた。
「卒業式は来るんだよね?」
藤井は心配そうに揺らぐ瞳を夜桜に向けた。
夜桜は「行くよ」と短く答えた。
「そっか、良かった……また寂しい思いをするところだった」
藤井は夜桜の肩をきゅ、と掴む。
「私、この一年間、よっちゃんが教室にいなくて寂しかったよ……寂しかったんだからね」
夜桜はぽかんと口を開けて、暫くしてから「知らなかった、ごめん」と肩に置かれた手に、自分の手を重ねた。
素直に教室に行けばよかった。
負担になりたくない、なんて意地を張らずに、大人のフリなんてせずに、教室に行けばよかった。
もっと、高校最後の一年間を楽しめばよかった。
悔恨の情は大きな波となって、夜桜の心の岸辺に止めどなく押し寄せる。
けれど、そんなことを後悔したところで、今更もう遅いのだ。
「良い友達がいて良かったね、夜桜ちゃん」
自分のことのように嬉しそうに目を細めた真冬を見上げて、夜桜は胸の内がじわりと暖かくなるような感覚を覚えた。
「全くその通りだと思うよ」
夜桜にとって、藤井は、あーちゃんは、勿体ないくらいのとても良い友人だ。
そして、春日井真冬。
彼と友人になれたのだから、この一年の回り道は無駄ではなかった、と夜桜は確信する。後悔なんて、容易に上回ってくれるはずだ。
この出会いは果報とさえ言えようもの。
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