第8話

「ええ、切実に困っている。マイノリティは辛い」

「でも、そんなマイノリティと心から仲よくしたいと思っている人間がここにいますよ。他にも多分いるけどね」

「とても有り難いことだわ」

「無表情で言われても有難み薄いなあ」

「真冬くんは変わっている。真冬くんは、峰岸くんや佐野さんみたいな人を好きだと思ってた」

 夜桜は真冬に習って佐野の写真を山から避け始めた。佐野の写真も多すぎたのだ。

「誰とでも友達になりたいなんて、俺はたぶん、一生そんなことは言えない。それを言えるのは、たとえ勘違いだとしても、誰とでも友達になれるという自信があるからだと思わない?」

 夜桜は手を止めずに聞きながら、そうね、と答えた。

「普通は言えないんだ、佐野さんや峰岸だから言えるんだ」

 真冬は峰岸の写真を指で弾いた。

「彼らの自信が俺は妬ましかった、彼らの過信が俺は恥ずかしいと思ったんだ」

 夜桜は手を止めて、真冬を見た。真冬は手を動かしたままだった。夜桜は胸につかえていた、心の靄のようなものが晴れたような思いだった。

 嫉妬と嫌悪はとても近くで、肩を寄せ合って息をしている。

 佐野に対して抱いていた、何か嫌だなという思いはこれだった。自分は佐野が妬ましかったのだ。それでいて、佐野を嫌悪もしていた。だから、あんなにもムキになって、佐野に反抗した。分かったからと言って、今更どうにもならないのだが、それでも夜桜にとっては大発見だった。

「俺は友達を選ぶし、趣味も悪いし、性格も悪いんだ。だから人気者は利用するけど、大嫌いなんだよ」

 真冬は悪戯っ子みたいに、にやりと笑う。彼の本当の笑顔はこの顔かもしれない、と夜桜は思った。

 その日、二人で時間をかけて写真を選び終わった。明日からはレイアウトを考えることになった。帰り道、夜桜と真冬は川沿いの道を歩いていた。川沿いに植わった桜は蕾を付けた枝を重そうに垂らした。川向うに見える病院は夕日を受けて、白い壁を緋色に染める。穏やかな水面はゆっくりと流れる黄昏時の河川敷を写し取っていた。

「この間、お菓子作りや料理が好きって言っていたよね。一緒に何か作ろうよ」

「唐突ね。私に楽しいことをさせるため?それとも真冬くんが魔女の家でお菓子を作ってみたいだけ?」

「どっちもだよ」

「どっちもなのね」

「魔女の家に入ってみたいのが一番だけど」

「普通の家だって言っているのに」

 素直な真冬の受け答えは、夜桜にとって心地良かった。何を作ろうか、二人でお菓子の名前をいくつか並べならが、魔女の家へと向かった

 丘を登り切って、家の呼び鈴をちりんと鳴らすと、兄の葉桜が扉を開けた。

「よっちゃん、お帰り……って、え」

 葉桜は夜桜の隣にいる真冬にぱっと視線を移して、怯えた小鹿のように震える。

「え、えっと、友達?か、彼氏?」

「前者ですよ、お兄ちゃん」

 夜桜の返答に葉桜は「良かった」と警戒を解いた。

「彼氏だったら、どうしようかと思って泣きそうだったよ」

「すでに涙目だよ、お兄ちゃん」

 葉桜は真冬に客用スリッパを出して、家に招き入れる。

 真冬は植物が生い茂った室内を見て「魔女の家っぽい!」と子供のようにはしゃいでいた。

「それにしても、よっちゃんが家に友達を連れてくるなんて、いつ以来?お兄ちゃん、とっても嬉しいぞ!」

「あっそ。勉強していたんでしょう?後でお茶とお菓子を持っていくから、部屋に戻って。これから真冬くんとお菓子を作るの」

「え、僕もやりたい」

「院の勉強が忙しいでしょう?だめだよ」

「大丈夫だよ、勉強は。今も知人に手紙を書いていただけだし」

「それなら本音を言うわ。お兄ちゃんは鈍くさいから邪魔よ」

「ひどい!本当のことだからなおのこと酷い!」

 夜桜は葉桜の背中を押して、部屋に押し戻したが、葉桜が仲間外れは嫌だと泣くので仕方なく三人揃って台所に移動した。夜桜は冷蔵庫を開けて、材料を見繕う。

「貰いものの新鮮な卵があるから、プリンにしようかな」

「プリンって作れるんだ!」

「何を当たり前のことを……」

「俺、お菓子作りなんてしたことないし」

 夜桜はよくそんなのでよくお菓子を作ろうなどと誘ってくれたものだとため息を吐いた。夜桜はてきぱきと材料と調理用具を調理台の上に用意した。

「お兄さんからもよっちゃんって呼ばれているんだね」

 夜桜の指示で真冬は卵を割った。二個、三個と順調に割っていく。

「私の名前、言いにくいから、自然とね」

「真冬くんもよっちゃんって呼んでいいんだよ」

 葉桜が夜桜に代わって、勝手に呼び名の変更を許可した。夜桜は口を挟むのも面倒だったので、黙って牛乳を計量カップに注いで分量を量っていた。兄は妹の友人が来訪したことに浮かれているようだった。

「うーん、そうだな……でも、夜桜って名前、格好いいから俺は夜桜ちゃんのままにする」

 そう、と答えて、夜桜は砂糖を計りにかけた。ちょっと照れ臭かった。

「良い友達だね、よっちゃん!」

 葉桜は目を潤ませた。夜桜は涙が材料に混ざらないかと不安だった。

「お兄さんって、涙もろいんですね。お兄さんが泣いたら、せっかく咲いても花が散ってしまうんでしょう?」

 卵を割り入れたボールに砂糖と牛乳を注ぎ、夜桜は真冬に泡だて器を手渡した。

「そうなの、兄妹二人して出来損ないなの。ダマができないように注意してね」

 真冬は泡だて器で材料をかき混ぜる。

「お兄ちゃんはカラメルソースをお願い。私は隠し味の花の蜜を取ってくるから」

「はいはい、お任せください、妹様」

 妹に鍋を任された葉桜は慣れた手つきで砂糖水をかき混ぜる。夜桜は台所を出て、空中庭園に向かった。花の蜜はとれたてが一番おいしい。空中庭園の花に頼んで少し蜜を分けてもらうのだ。

 台所に残った男二人は不似合いな甘い香りに包まれていた。

「お兄さんは大丈夫なんですか、涙を止める練習しなくて」

 真冬が泡だて器を回しながら不意に尋ねると、葉桜は困ったように笑った。

「いやもう、絶対無理だと思うから、桜が咲いたら暫く部屋に籠って泣かないようにしようかと」

「それはまた、極端な……」

「他に解決策が見当たらなくてね、僕の泣き虫は一生ものだから」

 葉桜は眉を下げて笑った。頼りない笑顔だった。

「俺は、夜桜ちゃんと友達になったのはつい昨日なんですけど」

「随分最近だね」

 葉桜は出来上がったカラメルをプリン型に流し込んでいく。

「笑い方を教えて欲しいって言われて」

「なるほど、夜桜は真面目で偉いなあ」

「教えるなんてできないから、こうして楽しいことをしてみているんですけど、それで笑えるのかどうか」

 しゃかしゃか、と泡だて器の音が休みなく台所に響いている。

「少なくとも、夜桜は楽しそうに見えるからいいんじゃないかな」

 葉桜はカラメルソースを注ぎ終えて、鍋を置いた。

 そうですね、と真冬が答えると、階段を下りる音がして、夜桜がキッチンへ戻ってきた。手には小さな小瓶を持っている。

 真冬は夜桜の顔を見て、はにかんで言った。

「夜桜ちゃんのお兄さん、桜が咲いたら部屋に籠るんだって」

「真冬くんってば、よっちゃんに言わないでよ!」

「なかなかクレイジーなお兄さんだね」

「うん、ちょっと頭が悪いの」

 夜桜は顔こそ笑っていなかったが、声は笑っていた。

 その後、隠し味の花の蜜を入れて、プリン液を型に流し込んだ。暫く冷やしてプリンは完成した。遅い時間になってしまったが、夜桜はプリンを丁寧に包み、葉桜と共に帰宅する真冬に着いて行った。彼の家で、チケットをプレゼントしてくれた彼の祖母にプリンを手渡した。

 真冬の祖母は気の良い老女で、笑い方が真冬と同じだった。彼女は三人が作ったプリンを美味しいとその場で頬張った。

 帰り際、真冬が庭に植わっている桜の木を見せてくれた。

 それは幹も太く、樹齢もかなりのものだったが、表面に傷があった。木に触れ、夜桜にはひとつ思いついたことがあった。帰りの足取りは軽かった。


 それから落語のある週末まで、夜桜は充実した日々を過ごした。午前中は足りない単位の為のレポート。午後は真冬の手伝いで編集委員の仕事をする。帰りは家でお菓子を作った。パンケーキ、クッキー、シュークリーム。葉桜は手伝うこともあれば、手伝わないで食べるだけの日もあった。魔女を訪ねて栞が家に来た日は、魔女が不在だったので四人で茶と菓子を囲んだ。

 そして、金曜日。時間ぎりぎりになったが、クラス写真のレイアウトを完成させ、編集委員の責務は無事果たされた。

 その足で、二人は待ちに待った落語を見に行った。演目は『時そば』と『芝浜』だった。独演会はお年寄りが多く、チケットは完売、満員御礼だった。

 夜桜も真冬も、落語を見るのは初めてだったが、噺家の世界に吸い込まれ、すぐに夢中になった。演目も一般人気の高いもので、二人は初心者なりに楽しめた。

 独演会はあっという間だった。会場を出て、興奮冷めやらぬ観衆たちの中に二人の姿も混じっていた。

「落語、面白かったね」

 いつもながら、表情は薄いが、夜桜の声は興奮気味だった。

「夜桜ちゃん、声出して笑っていたもんね。表情は相変わらず乏しかったけれど」

 真冬にとっては、硬い表情のまま笑い声を漏らす夜桜のほうが面白くて、途中落語に集中できなかった場面もあった。

「笑っていたから、もう桜は咲くのかな?」

 真冬は歩きながら、市民会館を囲うように植わっている桜の木々を遠目に見る。

 夜桜は周囲の木を見まわした後、残念そうに首を振った。木々の根元にいる精はどれも眠ったままだった。

 なんとなくだが、夜桜には分かるのだ。きっと、魔法が成功したら、眠っている小さな精たちは目覚めるのだろうと。

「笑っていたけど、心から笑わないとだめなんだよね。難しいな」

 夜桜は残念そうに肩を落とした。

 頭の中で声が鳴っていた。遠くから呼ぶ声は、数日前からずっと響いている。

 早く、早く、もうすぐだ、と急かすような声だった。桜たちだ。桜の精たちが寝言のように、語り掛けてくるのだ。

「落語じゃダメだったね」

 真冬もまた、残念そうに呟いた。

「うん、駄目だった。あんなに可笑しくて、大笑いしたのに」

「やっぱり面白可笑しいって笑顔じゃないんだろうな、求められている笑顔は」

「心からの笑顔って何だろう」

「何なんだろうな……」

 暫しの静寂が、二人の間に流れる。

 夜桜はもう無理かもしれない、と考えていた。真冬にもこれ以上、突き合わせるのは悪い。

「次はさ、遊園地とかどお?」

 静寂を先に破ったのは真冬だった。あと数秒、その明るい声が遅かったなら、夜桜はもういい、と口に出していたかもしれない。

「弾けるような楽しさを求めてさ!ジェットコースターとか乗ろうよ!」

 真冬は白い歯を見せて、頬にはえくぼを作り、子供っぽく笑った。夜桜はその笑顔に、落ち込みそうになった心を救われる思いだった。

「なるほど、楽しいと言えば遊園地だね……試してみよう」

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