6
第11話
六、
卒業式当日、校庭の桜は蕾のまま眠っていた。そろそろ蕾が開き始めてもおかしくない頃だったのだが、今年はまだ花は咲きそうにもない。蕾は堅く閉じている。
まだか、まだか。桜の精の声が校庭から響いてくる。それを聞こえない、聞くまいと夜桜は耳に手を当てて、校庭脇の通学路を足早に歩いて校舎に入った。
式典のため、校内は何処もざわざわと人が出入りして、華やかで光に満ちていた。卒業生と在校生、そして教職員たちは誰もが晴れ晴れとした顔で教室へと足を進める。校舎は晴れやかな喜びと、垣間見える惜別の情が混ざって、独特の空気が流れていた。
教室へ向かって歩く卒業生たちは浮足立っていた。生徒の群れから外れて、夜桜はいつも通り保健室に向かった。
扉を開けると、養護教諭がいた。今日は白衣ではなく、黒いスーツを着込んでいた。見慣れぬ姿の先生に、夜桜は一瞬、戸惑ってしまった。それを察した養護教諭は小さく笑みを零した。
「夜桜ちゃん、おはよう。晴れて良かったわねえ」
「ええ、そうですね」
窓の外を見る。麗らかな春の日、というにはまだ少し肌寒かったけれど、空は青く澄んでいた。遠く漂う白雲がひとつ、ふたつ。校庭の桜の後ろに隠れて見える。
この部屋で、いくつ、雲の数を数えて過ごしただろう。
この一年、保健室は夜桜にとって砦だった。唯一、学校で息ができる場所だった。
この小さな部屋で、夜桜は守られていた。
「先生、一年間、机とベッドを貸してくれてありがとうございました」
夜桜は心から頭を垂れて、礼をした。
養護教諭は「卒業おめでとう」と一言、肩を力強く叩いてくれた。そんなつもりはなかったのに、不意に目頭が熱くなって、暫く顔を上げられなかった。
保健室で養護教諭と話をしてから、夜桜は教室へ向かった。
教室の並ぶ廊下を、生徒が溢れるこの廊下を歩くのは、夜桜にとって勇気が必要なことだった。彼女はこの一年ほど、授業中や休み時間中、生徒のいない廊下しか歩いたことがなかった。
三年六組の前で、彼女は足を止める。自分は六組で合っていたかしら。自信が無かったのは、そのくらい長くクラスを離れていた証拠だった。恐る恐る、忍び込むように彼女は教室に入った。
教室の中では生徒たちが仲の良い者同士集まって話をしているか、写真を撮っているかしていた。どうしよう、どこにいたらいいのだろう、と逡巡して自分の席に座ればいいのだと思い当たる。
「……あ」
思わず声が漏れた。夜桜は自分の席がどこか、知らなかった。
ドアの前で夜桜は固まってしまう。それがいけなかった。一人でドアの前に突っ立っているのは、とても目立つのだ。
周囲の視線がいつの間にか夜桜に集まっていく。緊張は最高潮に達した。
「夜桜ちゃん、おはよう」
クラスメートに囲まれていた真冬が声をかけた。夜桜はふっと肩の力が抜けて「おはよう、真冬くん」といつものように返した。
クラスのほとんどは、夜桜と真冬が下の名前で呼び合う仲だと知らないので、二人の周囲はざわ、とどよめいていた。峰岸を筆頭に男子生徒に何か言われているらしい真冬は適当にはぐらかしていた。
程なく夜桜に気が付いた藤井が駆け寄り、夜桜の座席を教えてくれた。藤井は「よかった、クラス間違えてなくて」と言って笑った。
教師が来るまで、夜桜は佐野やその取り巻きからの視線をしばしば感じたが、気づかないふりをした。
卒業式は退屈なものだった。
保護者席に目立って仕方ない桜色の髪を見つけて、嬉しいやら、恥ずかしいやら。それでも桜の魔女にとって繁忙期であるこの時期に、晴れ姿を見に来てくれたのだ。嬉しくないはずはなかった。対して思い入れもない校歌を歌い、卒業証書を授与され、式は淡々と終わった。朝はあれほど緊張していたのに、夜桜の心は落ち着いていた。
式典後は、教室や廊下に在校生、卒業生、教師に保護者と人が溢れかえっていた。夜桜の母、桜の魔女は、式が終わり、教室での最後のホームルームを見届けると、夜桜に「卒業おめでとう、素敵だったわ」と声をかけた。魔女の親子に周囲の視線は集まっていた。
「忙しいのに来てくれてありがとう、母さん」
「母さんだけでごめんなさいね」
両親揃って出席している家族を横目に、魔女は申し訳なさそうに言った。
「いいの、いないものは仕方ないもの。母さんが来てくれただけで嬉しい」
魔女は娘の頬にキスをし、「ごめんなさい、もう行かなくちゃ」と一足先に帰って行った。春、桜の魔女は多忙だった。
一方、真冬と藤井は峰岸や佐野といった同じクラスの友人たちと写真を取り合っていた。
以前、真冬は峰岸を嫌いだといったが、彼は嫌いな人間とも友達になれる人だった。峰岸と話す真冬は親友のように仲が良く見えて、夜桜は複雑な気持ちだった。
夜桜は荷物を抱えて、教室を出た。廊下はうんざりするくらいの人口密度だった。一方では学ランのボタン争奪戦が、もう一方では運動部の胴上げが、さらにもう一方では教員と父母たちの涙ながらの最後の懇談会が行われていた。玄関まで行くだけでも、一苦労しそうなことは容易に想像できた。
夜桜は早々に学校を退散するつもりだったが、やはりそうもいかなかった。廊下が混み合っていたことに加え、偶然行き会った友人、主に二年生までのクラスメートたちに声をかけられ、想い出話に花を咲かせた。
夜桜なりに卒業式を楽しんで夜桜はやっと玄関までたどり着いた。耳に入った話によれば、クラスの皆は、これから駅の近くの飲食店で卒業祝いをするらしい。夜桜には関係のないことだった。
夜桜は玄関でひとり、靴を履き替えていた。
下足箱の名札を取って、くしゃりと丸めてセーラー服のポケットに突っ込む。
「よっちゃん」
反射的に声がした方向へ顔を向ける。声の主は肩で息をしていた。
下足箱と下足箱に挟まれた空間で二人は向かい合っていた。
「あーちゃん……」
夜桜は驚いて、ほとんど無意識に友人の愛称を口にしていた。
この学校で藤井を「あーちゃん」と愛称で呼ぶのは夜桜だけだった。一年生の時、夜桜は藤井に親から未だに愛称で呼ばれると愚痴を零されたことがあった。夜桜は自分も未だに「よっちゃん」と兄や幼馴染から呼ばれていると話したら、お互いにふざけて愛称で呼び合うようになったのだ。
「気づいたら、教室にいないから急いで追いかけてきちゃった。帰るんなら、一声かけてよ。友達甲斐がないんだから」
「ごめんね」
夜桜は言ってから、この一年、藤井に謝ってばかりだったと思い出していた。
藤井は夜桜が不登校になってから何度も教室においでと言ってくれた。その度に謝った。教室に行ったら、藤井は一緒にいてくれただろう。それはその内、彼女の負担になると思った。迷惑になりたくはなかった。
それはたぶん建前だった。
本音は、本当に怖かったことは。
「私、あーちゃんに嫌われたくなかった。重いって思われて、離れられたら辛いと思って、自分から距離を置いちゃった」
学校に行かなかったことより、何より、後悔していることはそれだった。
「気づかないわけないよ」
藤井は、首を横に振った。
「他に言うことあるでしょ?」
夜桜が距離を取っても、彼女は無理に詰めず、けれど離れもしなかった。
夜桜は今になって分かった。彼女は待っていてくれたのだと。
「ずっと言えなかったけど、私が休んでいる間のノートとかプリントのコピー、いつもありがとう。とても助かった。すごく感謝しているの」
「うん」
「学校においでって言ってくれてありがとう」
「うん」
「私が卒業できるのは、あーちゃんがいてくれたからって思ってる」
「やめてよ、泣いちゃう」
藤井は恥ずかしそうに目じりを擦った。その声はくぐもっていた。
「……そんなの、全然、いいんだよ」
藤井は赤くなった目を夜桜に向けた。
「あのね、私、地元の大学に進学するつもりなの。国立か私立かは試験の結果次第だけど……よっちゃんは?」
「私も、地元。製菓学校に行くの。あの、さ……良かったら、卒業しても前みたいに遊びたい」
「うん、私もよっちゃんのお菓子食べたい」
「いっぱい作るよ」
「絶対だからね」
また連絡するね、と言って藤井は校舎の中に駆けて行った。
彼女の背中を見つめながら、夜桜は玄関のロッカーに背中を預ける。ぽろぽろと両目から涙がこぼれて、セーラー服の袖で頬を拭った。
「良かったね、夜桜ちゃん」
夜桜の向かい柄のロッカーの陰から、真冬がひょっこり顔を出す。
「真冬くん、また盗み聞き?相変わらず趣味が悪いのね」
「偶然だってば。取り込んでいたから邪魔しないようにしてたの」
聞かれていたかと思うと、夜桜は急に恥ずかしくなった。
「藤井さんと卒業しても仲良くできそうじゃん」
「おかげさまで……真冬くんは?もう帰るの?」
「まだ帰らないよ、藤井ちゃんと一緒。夜桜ちゃんが帰っちゃう前に話そうと思って追いかけてきた」
「そう、それはお手数を」
「全くだよ」
真冬はふざけてみせて、夜桜の向こう、玄関の外へと目をやった。
彼が何を見ているのか、夜桜は振り返らずとも察していた。
「桜、咲かないね、やっぱり」
真冬は残念そうに遠くを見つめる。玄関前の庭に植わっている桜を彼は見つめていたのだ。
「……うん」
「いつ、この町を離れるの?」
「二週間後くらい」
「そっか……やっと友達になれたのにね。私達、友達になるのがちょっと遅すぎたかな」
「馬鹿だな、夜桜ちゃんは……帰省したら会えばいいじゃん」
真冬は幼子をあやすように夜桜の頭に手を置いた。
「なに、もう寂しくなっちゃったわけ?」
夜桜はしょぼんと項垂れた。
「可愛い顔しちゃって。引っ越すまでは笑顔を思い出す手伝いするからさ、落ち込まないでよ」
「ありがとう……引っ越しの邪魔にならない程度によろしく」
真冬は夜桜の隣に並び、彼女と同じようにロッカーに背中を預けた。
「俺、あの日、職員室の前で夜桜ちゃんに声をかけた自分を褒めたい」
「何、急に?」
夜桜は真冬を見上げたが、彼は目を合わせない。
「心の残りだったんだ。君と友達になれないまま、卒業するのが。かっこいいな、友達になりたいなって自分から思った初めての人だから」
真冬の言葉に、夜桜は桜色の瞳を大きくする。
胸がじわじわと暖かい。まるで、彼の言葉が染みわたるようだ、と夜桜は胸に手を置く。
「高校生活に心残りは山ほどあるけれど、夜桜ちゃんのおかげで心残りは一つ減ったよ」
真冬は照れくさそうに笑った。恥ずかしいことを言っている自覚はあるのか、彼は夜桜を見ない。
「真冬くんにも、心残りなんてあるんだ」
「あるよ、いっぱい。峰岸にお前なんか嫌いだバーカって言えず仕舞いだったこととかね。俺は夜桜ちゃんほど勇敢にはなれなかった」
「それは勇敢ではなく、無謀か馬鹿と言うんだよ。友達に嫌いなんて言ったらだめだよ」
「俺と峰岸は友達だった。でも俺は峰岸が嫌いで、それを言えないまま卒業する。これってちょっと哀しいことだと思わない?」
夜桜は「どうして?」と質問に質問を重ねた。
「俺は結局、一度も本当の心を友達に晒せなかったんだ」
真冬は視線を落として、独り言のように呟いた。
友達をやめることになっても一度くらい本当の心で話してみたかった、と。
「私も、心残りがたくさんある」
夜桜は校内を振り返った。玄関を入ってすぐに吹き抜けがある、そして広い廊下、右に曲がって保健室、階段を登ったらクラスの教室。反対の棟に化学室、地学室、音楽室、美術室、書道室、渡り廊下を渡って体育館とグラウンド。この小さな箱庭の中に青春全てが詰まっている。
「この学校の中に、私の心は残ったままだ」
早く卒業したくて仕方なかった。学校なんて大嫌いで、登校するのに吐き気がした。
それなのに、後ろ髪を引かれる。
「でも、置いて行かなくちゃね」
夜桜は言い聞かせるように呟いた。
家に帰ってから、渡された卒業アルバムを開いた。クラスのページには知らない人ばかりいた。真冬と編集したスナップ写真を集めたページで夜桜は手を止める。
自分と真冬の写真があった。真冬と友達になった日、職員室の前で撮ったものだ。自分の仏頂面は想像以上に酷いものだった。隣に映る真冬はえくぼを作って満面の笑みを浮かべている。夜桜はため息を吐いてアルバムを閉じた。
もっとうまく、笑えたらよかったのに。
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