第6話
「あーちゃんとは友達だった。だから、負担にはなりたくなかった。あーちゃんは優しいから、私が教室に戻ったら私に気を遣って私と一緒にいてくれたかもしれない。でも、それってすごく負担だろうし、受験生なのにそんなことで迷惑かけたくなかった。だから教室に戻れずに保健室登校を続けているわけさ。結局、あーちゃんにプリントとか授業のノートをたまに借りているけどね」
夜桜が自爆した後も、友人の藤井はこれまでどおり友人として何かと助けてくれている。おかげで夜桜はレポート提出で授業の単位を補えているのだ。
「なるほど、確かに自爆だ」
真冬はホットドッグの最後の一口にかぶりついた。真似て、夜桜も最後の一口を食べようとしたが、大きかったので、二口になった。二人でもぐもぐとリスのように頬を膨らませながら、会話を続ける。
「でしょう?それで不登校になって、単位が足りなくてこの時期になっても毎日レポート三昧だよ。進路が決まっていることだけが救い」
「この時期にゆったりしていると思ったけど、やっぱり進路決まっているんだ。まあ、俺もそうだけどね。じゃなきゃ、編集委員の仕事なんかしていないよね」
「良かった。忙しい受験生さまを捕まえてしまったかと、少し不安だった」
ごちそうさま、と夜桜はホットドッグの包み紙を丸めた。
「とりあえず寒いし、図書館に入ろうか」
真冬は夜桜の手から丸めた包み紙を取り、自分の分と合わせてゴミ箱に捨てた。
真冬は夜桜の事情を聞いても余計なことは言わなかった。女の友情って難しいんだな、と一言ぽつりと漏らしたぐらいだった。
図書館に入ると、暖房の温い風が冷えて赤くなった頬を撫でた。夜桜は真冬を連れて、図書館の二階を目指した。人気のない階段を上っていると、ひそひそ、と話声が降ってくる。段上の踊り場で誰かが話している。
「ええ、館長……まだ暫くは大丈夫だと思うのですが……の結果次第で……すみません、ご迷惑をおかけしますけど」
途切れ途切れに聞こえてくる女性の声を夜桜は知っていた。階段を何段か上ると、話している二人の姿が見えた。初老の男と、幼馴染の栞の姿だった。
「良いんですよ、初めから承知で貴女に来ていただいたんですから」
「ありがとうございます、館長……」
栞が深々と頭を下げると、初老の男はお疲れさま、と一声かけて階段を下りて行った。夜桜と真冬は男とすれ違い、階段を上る。栞が姿勢を直して顔を上げると、夜桜と目が遭った。
「栞ちゃん、こんにちは」
夜桜が挨拶すると、栞は少しびっくりしたような顔をして、どこか気まずそうに挨拶を返す。
「よっちゃん、来てくれたのね。そちらはお友達?」
栞は夜桜の隣にいる真冬にちらりと目をやる。
「そう、小一時間ほど前に友達になった真冬くんです」
「どうも、春日井真冬です」
「あら、随分と浅い友情だったこと。でもよっちゃんの友達なら、大歓迎ですよ。何年生?同じクラス?どのあたりに住んでいるの?」
夜桜が友達といることは珍しいので、栞は彼に興味津々だった。真冬は人の良い笑みですべての質問にすらすらと答えてみせた。
「三年生で、同じクラス、二丁目の駅の近くに住んでいます。夜桜ちゃんとはずっと友達になりたくて、頼み込んでオーケーしてもらいました」
「あらあら、とってもいい子みたい。お姉さん、安心したわ」
「真冬くんが笑い方を調べるのを手伝ってくれることになったの」
「それは心強いのね。よっちゃんが来ると思って、笑顔がキーワードの本をいくつかリストアップしておいたよ。気になる本があったら、読んでみてね」
栞は夜桜に本のタイトルと本棚の場所が書かれた紙を手渡した。
「ありがとう、そうするわ」
夜桜は受け取って、真冬と手分けしてリストアップされた本を読んでみることにした。
二人で図書館のあちこちから、数冊の本を抱えて、閲覧テーブルに戻ると、手当たり次第に本を読み漁った。
「何だか、難しいことばかり書いてあるわ。表情筋の使い方とか」
二時間くらい経って、夜桜が本を閉じて言った。本の題名は『魅力的な笑顔は作れる!』だった。数百ページにわたり、笑顔とは何ぞやから始まって、筋肉の動かし方、人間の目の錯覚などを懇切丁寧に記してある。
「魅力的な笑顔の作り方は、魔法の趣旨に背くんじゃないのか?それじゃ愛想笑いみたいなものだよ」
「それもそうね、心からの笑顔でないと」
「こっちの『笑顔で楽しく生きる方法』のほうがまだ面白いよ。笑えないのは心の問題だって。こっちの本にも書いてあったよ」
真冬が呼んでいたのはどれも、心理学系の本ばかりだった。夜桜は笑えなくなった時、そう言った関連の書籍を何冊か読んだので、内容はおおよそ予想がついていた。
鬱病、適応障害など、たぶん今の自分は病院に行けば何かしらの病名をつけられるに違いない。それが、それらの本を読んだ夜桜の感想だった。
「心の問題があるという自覚はるけれど、それってどうしようもない」
「ゆっくり休むと良いんだってさ」
本に目を落としたまま、真冬が言う。夜桜は自嘲した。
「休み過ぎなくらい、休んだよ」
四月だけまともに学校に行った。教室に行くと女子の空気が凍り付いて、佐野の取り巻きから安っぽい嫌がらせを受けた。真面目に学校に行くのが嫌になったのが五月になってすぐのこと。
その後、二か月は不登校で引きこもり。保健室登校になってからも、疲れやすくてすぐにベッドに横になる。保健室に五つあるベッドのうち、窓際のベッドは夜桜の指定席の一つだった。
「休んだ次は何か楽しいことをすると良いみたい」
そう書いてあるよ、と真冬は本を開いて、夜桜へ向けて見せる。
「楽しいことかあ」
「夜桜ちゃんは何をするのが好きなの?」
「読書、あとは料理やお菓子を作るのが好きかな。母さんが薬草で薬を作るのを手伝うのも好き。でも、それは今もしているけどね」
「魔女っぽいなあ、お菓子作りは楽しそうだね」
「今度やってみる?」
「やりたい、ハートのクッキーとか作ってみたい」
「案外乙女なのね。でも、私の趣味ってインドアで、笑っちゃうような状況にはそうはならないな」
「うーん、笑えて楽しいことって何かないかな……あ、あれ!あれはどう!?」
真冬は夜桜に向かって指さした。正確には夜桜の真後ろにあった掲示板を指さした。掲示板には、図書館だよりの他に、市内の催し物などポスターが何枚も掲示されている。真冬はその中の一枚に近づいてまじまじと見つめた。
「お笑いライブ、あるんだって!」
それは地味な市広報などのポスター類の中でもひと際奇抜な色彩で目立っていた。見たことがあるような、無いような、若手のお笑い芸人の写真が掲載されている。
「見に行こうよ!抱腹絶倒、間違いなし!って書いてあるよ」
「ええー……」
夜桜は胡散臭いと思ったが、真冬の目が輝いていたので何も言えなかった。
「あ、落語の独演会もあるみたいだよ。どっちも行ってみようよ。大笑いできるかもしれないよ」
「うーん、まあ、物は試しだよね」
「じゃあ、さっそく行ってみよう!」
二人は思い付きのまま、その日の夕方、お笑いライブの会場へ足を伸ばした。
市民会館へ行くと、夕方の公演にギリギリ間に合う時間だった。落語は上演日がまだ先だった。真冬に引っ張られるまま、夜桜はチケット売り場へ走る。チケットがすぐに買えたことから夜桜の不安は募ったが、そのまま会場へ入った。
結果として、夜桜の不安は的中した。お笑いライブに出てくる芸人は新人ばかりでどれも面白くはなかったのだ。会場はくすくす、とたまに笑い声が上がるくらいの寂しいライブだった。一番笑っていたのは、夜桜の隣にいた男、真冬だった。
「つまんなすぎて逆に面白かったよね」
ライブ後、真冬はこのような感想を述べた。真冬は失礼極まりない男だった。
「真冬くんはすごいね。私は笑うところが分からなかった」
夜桜もまた、大概に失礼な女だった。滑り倒した芸人たちは舞台袖でしおれていたが、高校生たちの感想を耳にしてさらにしおれた。二人は席を立ち、劇場を出ると、落語のポスターの前で足を止めた。
「次は落語にしようよ、落語のほうが今日のお笑いライブよりは笑えると思うよ」
「意外、あなた、落語が好きなの?」
「俺、おばあちゃん子だからね。チケットの入手は任せておいてよ」
「なんと心強いお方でしょう」
「ふふふ、何て言ったって、この俺は春日井真冬だからね」
真冬は得意気に鼻を鳴らした。
市民会館を出ると、すっかり夜になっていた。冬至の時分より、日は長くなったとはいえ、まだまだ春は遠いように思われる。
「遅くなっちゃったから、家まで送るよ」
「丘の上だから遠いよ」
「いいよ、もう少し話がしたいし。今日のお笑いライブのことなんかを」
「語るほどの内容はなかったでしょうに」
「実を言えば、魔女の家に行ってみたくて」
夜桜はそれを聞いて、納得した。もしかしたら、真冬が夜桜を納得させるために言ったのかもしれないが、それはひとまず考えないでおいた。
「魔女の家ってどんな感じ?」
「植物ばかり、面白いものは何もないよ」
「喋る黒猫はいる?」
「いないわ」
「空飛ぶ箒は?」
「ないね」
「薬草を煮る大きな鍋は?」
「それはあるわ」
「それはあるんだ」
「他の魔女はどうか知らないけど、桜の魔女は薬を作るからね」
「へー、よく効きそう」
「どうかな、ほとんど植物用だから」
「植物用か、残念」
他愛ない話を続けているうちに、商店街と住宅街を抜けた。川沿いにある町一番の大きな病院を通り過ぎて、橋を渡り、丘へ続く桜並木を歩く。花がない桜並木は寂しいものだった。
桜並木は魔女の家までまっすぐに続く。まるでそれは道標のように。
「私、桜の花なんて本当は大嫌いなの」
ぽつり、と夜桜は愚痴をこぼすように言った。
「花を咲かせるのが役目なのに?桜の魔女の子どもなのに?」
真冬は可笑しそうに、夜桜の嫌がりそうな言葉をわざと重ねる。
「桜の魔女の子どもが桜を好きとは限らない。好きでもない花を咲かせないといけないなんて、全く嫌になるわ」
夜桜は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「何故、嫌いなの?」
「桜の花を見ると、春だと思う。春が来たら、嫌なことばかりある。クラス替え、進学、出会いと別れ」
夜桜は深く、ため息を吐いた。
「四月は嫌い。だから桜の花も嫌い。環境が変わって、いつも私はついていけない」
夜桜は環境の変化に弱かった。不器用で強がりだが、彼女は繊細でもあった。
「友達は私に優しくしてくれるけど、友達の友達とは仲良くできない。それが一番、しんどかった」
はらはら、と桜の花の代わりに涙が落ちる。
笑わなければならないのに、泣いてどうするのだと夜桜は自分を叱咤した。これでは泣き虫の兄と変わらない。
事情を知っている、あの息苦しい教室を知っている人に、何の遠慮もなく、気持ちを吐露した。もはや、夜桜の心の壁は緩みに緩んで、抜かるんでしまったのだ。泥の壁から、染み出た水分が涙になって、目から溢れた。別に真冬に心を許したわけではない、と夜桜は自分に言い聞かせる。
「四月って、しんどいよね。俺もあまり得意ではないけどさ。でも、新しい出会いの季節でもあるよ」
「どうせ、魔女の子どもだって、偏見から入られる。これから進学しても、就職してもそれは変わらない、ずっとそうなんだ。でも、私は、そんなに強くない」
卑屈なことを言って、真冬を困らせたいわけではなかった。それでも、夜桜の口は勝手に動いた。
「私は魔女の子どもだけど、特別じゃない。でも、みんなにはちょっと特別に見える。子どものころから、人付き合いは得意じゃなかった。大きくなって、誤魔化すのは上手くなった。当たり障りないことを言って、笑っていれば輪の中からはみ出さずに済んだ。でも、それがどんどん辛くなった。桜の花を見ると、辛いことばかり思い出すの」
「だから桜の花が嫌いなのか」
勿体ないね、あんなに綺麗なのに。
真冬はそう言って、桜並木の桜たちを見上げて小さく笑う。木々は白い蕾をつけていた。まだ小さく膨らみかけているそれは、夜桜が咲かさねばならない花たちだ。
真冬とは対照的に夜桜は桜の根に目をやる。木の根元で眠る桜の精たちの姿が夜桜には見えていた。冬の眠りにつく無数の桜の精たち。彼らの静かな寝息が聞こえてくる。
ああ、どうか、目覚めないで欲しい。また、春が来てしまう。
「嫌なのは環境が変わることへの不安でしょう。桜の花を嫌うなんて、桜が可哀想だよ」
真冬はゆっくりと夜桜の前を歩く。真冬が通ると、桜の精たちは眠りながらくすくすと楽しそうに笑う。
「日本の年度替わりが春だから桜が嫌なんでしょ。桜の花はとばっちりだ。もし、年度替わりが秋なら紅葉や秋桜を嫌いになるんじゃない?」
真冬は振り返って、「ね、そうでしょう」と言うように唇の端を上げた。
「そうかもね」
夜桜は紅葉や秋桜を嫌う自分の姿を想像した。
秋を嫌う自分はどこか可笑しくて、少しだけ気が楽になった。
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