第2話
庭園の中央に、丸テーブルと四脚の椅子がある。そこに茶と菓子を並べて、母と子どもは向かい合った。
「二人は今年でいくつになったかしら」
桜の魔女は、尋ねてからティーカップにジャムを落とした。
「お兄ちゃんが二十二歳、私が十八歳だよ」
答えた妹は、自分で焼いたクッキーを口に放り込む。
「そう、二人ともそんなに大きくなったのね。母は嬉しいですよ」
「何だよ、改まって」
兄の葉桜は、妹よりも母との付き合いが長い分、この異様な空気を真っ先に感じ取っていた。桜の魔女は音を立てずにカップを置いた。
「二人はもう立派な大人。そこで二人に母からお願いがあります」
葉桜は母親の奔放さに慣れていたので驚かず、冷静に身構えた。夜桜はぼけっとした顔でクッキーをもぐもぐしていた。
「わたくしは遥か昔、桜の精から魔女に堕ちて、あの人を愛する道を選びました。あの人が何度、死に、生まれ、輪廻転生を繰り返しても、それでもわたくしはあの人を愛し続けました」
「その話は何度も聞いたよ、母さん。二人の深い愛に感動して、母さんを魔女に落した花の精たちは母さんを許したのでしょう?さくら町の人みんなが知っているよ」
妹の夜桜はやれやれと、うんざりした顔で口を挟んだ。この話は黙って聞いていると、一時間ほどかかるのが常だった。
「ええ、その通り。花の精は母を許すかわりに、母に桜の精のお役目を果たすことを約束させました。わたくしは桜の精の長たる存在でしたから。私が魔女になって、桜たちは困っていたらしくてね」
「お役目……?それは初耳だな、桜の精のお役目ってどんなことをするの」
葉桜はすかさず尋ねた。両親の馴れ初め話は耳が腐るほど聞いてきたが、今日はどうやら風向きが違うらしい。
「桜の木を見守るのです。命が芽吹き、枯れ果てるまでを見守る、それが桜の精のお役目でした」
桜の魔女は胸に手を当てて語る。過去を振り返っているのかもしれない、と葉桜は思った。
「何だか難しそうな仕事なのね」
「そんなことはありませんよ、夜桜。生まれてきた桜におはようと言って起こし、死にゆく桜にはおやすみと言って眠らせる。それだけのことです」
母親の言葉はいつも抽象的だった。具体的な言葉を求めても、答えは返らないことを知っている兄妹は黙って母の言葉に耳を傾ける。
「母は許された時から、そのお役目を一人で果たしてきました。しかし、そろそろ母ひとりでは手が回らなくなってきたのです。昔と違って、世界は国と国が交わりましたからね。桜も地球のあちらこちら、そこかしこに。世界を飛び回らねばならなくなりました」
「桜の木も国際化したわけか」
「歴史の流れを感じるわね」
魔女が淡々と語る内容を、現代っ子の兄妹はすんなりと受け入れていた。二十年近くも魔女の子どもをしていれば、大抵のことは驚くに値しない。
「そこで、この春から、二人にもお役目を手伝ってもらいます」
魔女がきっぱりと言い切ると、途端に大人しく話を聞いていた子供たちから「無理だわ」「そんなこと僕らにできないよ」と口々に拒絶する声が上がった。
「いいえ、できますとも。二人は魔女の子ですもの」
「魔女の子どもだと言っても、僕らは普通の人間と然程変わらないじゃないか」
「そうだよ、私達が変わっているところなんて、桜色の瞳ぐらいだわ」
兄妹は父の黒髪を引き継いだ代わりと言っては何だが、瞳は母譲りの桜色だった。瞳の色で二人は少しばかりの苦労を強いられてきた。
「その瞳で、桜の精を映すことができるではありませんか。これほど素晴らしいこともないでしょうに。そう心配せずとも、始めから難しいことは頼みませんよ。まずは腕試し。二人にはお役目のほんの一部を手伝ってもらうだけです」
「本当かしら……」
「あら、わたくしが嘘をついたことがあって?」
兄妹は息を合わせた様に同時に首を縦に振った。これには魔女も苦笑せざるを得ない。二人の口から過去の恨み話が止めどなく出てくる前に、魔女は話を戻した。
「二人には春のお役目を手伝ってもらいます。春は桜の季節ですからね、一年で一番忙しいのですよ」
「ふうん、だから母さんは春に家を空けることが多かったのね?」
「ええ、そうなのですよ。幼いあなたたちには寂しい思いをさせましたね」
「別に、そんなことはないよな」
「花の精たちが遊んでくれたもの」
素っ気ない二人の返事に魔女のほうが寂しそうに肩を落とした。魔女が家を空けることは頻繁にあったが、特に春は家にいないことが多かった。おかげで、兄妹はたくましく育ったのだった。
「それで、春のお役目って何をするの?」
「桜の花を咲かせて、散らせるのですよ」
兄妹の頭上には疑問符が浮かんでいた。
「そのための魔法の力をこれから与えましょうね」
魔女は席を立ち、子供たちの間に割って入るようにして立った。そしてゆっくりと膝を折る。長い桜色の髪は庭園の中央に敷かれた石畳に零れ落ち、桜色の小川のように石の上を流れた。
魔女は、まず初めに娘の夜桜に手を伸ばした。
「夜桜、あなたには開花のお役目を」
夜桜の前髪を払い、額を露わにすると、魔女はそっと口づけた。夜桜は体をぶるりと、小さく震わせた。
「桜へ春の訪れを知らせ、花を咲かせる力を与えました」
魔女はにこりと静かに笑みを浮かべ、反対側を向いて息子の葉桜を見つめる。
「葉桜、あなたには散花のお役目を」
魔女は同じように葉桜の額へ手を伸ばし、前髪をかき分けて、額にキスを落とした。葉桜はぽろりと一滴の涙を流した。
「桜へ春の終わりを知らせ、花を散らせる力を与えました」
魔女は耳元で囁くように告げて、ゆったりとした動作で立ち上がる。するすると長い桜色の髪がその後を追う。
「魔法の力……でも、私達、何も変わってないよ?どうやって、その力を使うの?」
夜桜は魔女を見上げながら問う。見た目には、二人とも何ら変化はなかった。
「花を咲かせる力は、心からの笑顔で発せられます」
魔女は夜桜を見て言った。
「花を散らせる力は、心からの涙で発せられます」
葉桜に向き直って、魔女は言った。
二人は数秒、言葉を失った。互いの顔を母親の身体越しに見合わせ、金魚のように口をぱくぱくさせた。その後、同時に母親を見上げて、怒鳴るように喚いた。
「それは、母さん、とっても難しい魔法じゃないか!僕はともかく、夜桜は不愛想で笑顔が大の苦手なのに!」
「お兄ちゃんだって、泣き虫じゃない!花が咲いても、すぐに泣くから一瞬で散ってしまうよ!」
「夜桜、酷いじゃないか!でも、その通りだよ!」
「お兄ちゃんだって酷いわ!でも、その通りね!」
喧嘩腰だったが、兄妹の息はぴったりと合っていた。
魔女は兄妹の言い分を聞き比べ、あらまあ、とわざとらしく両手を口に当てる。
「困ったわねえ。あるべき時期に咲き、そして散る、それが何より春のお役目で大切なことですのに。早すぎでも、遅すぎてもいけません」
「いつ咲いて、いつ散るべきか、明確に決まっているものなの?」
「時期が来れば、自然と分かるものですよ。春が教えてくれます」
「私、とっても不安だわ」
「僕らには絶対に無理だよ……」
夜桜は頭を抱え、葉桜は泣き声で突っ伏した。
卓上の紅茶はすっかり冷えてしまっていた。
「力は与えましたが、まだ時間はありますよ。暦は二月ですからね。初めてのお役目、二人にはこのさくら町の桜を任せますよ」
「それって、このさくら町の桜だけを咲かせて散らせるってこと?」
葉桜は泣き顔を上げた。息子の不細工な顔に愛しさがこみ上げ、魔女は口元を緩めた。
「ええ、そうです。二人にはさくら町の桜を託します。わたくしは他の町、他の国の桜へ春を知らせねば」
魔女は子供たちの肩をぽん、と軽く叩いて、大きく一歩下がる。
「母は家を空けることが多くなりますが、あなたたち、さくら町の桜をくれぐれもよろしくね」
温室の中なのにもかかわらず、ふわりと、真下から風が吹きあがる。兄妹はすぐに分かった。これは母親の魔法だと。二人は慌てて立ち上がって、母親を振り返る。
「そんな、母さん、待ってよ!」
「私達には荷が重すぎるわ!」
二人の制止など魔女は気にも留めない。背後の花々が風で揺れて、魔女の代わりに手を振っているようだった。咲き乱れる花たちを背に魔女は桜色の髪を揺らし、同じ色の瞳を細めた。
「健闘を祈りますよ、愛し子たちよ。ごきげんよう」
吹きあがる風は桜の花びらの幻影を作り、魔女の身体を桜色の渦で包み込んでいく。風のマントを着込むようにして、魔女は桜の渦を翻すと同時に庭園から姿を消してしまった。
冷えた紅茶と共に置き去りにされた兄妹は、呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。二人は知っていた。奔放で常識知らずな母は、言い出したら絶対に曲げないのだと。どう足掻いても、もう二人の運命は決してしまった。夜桜は何としても笑わなければならないし、葉桜は何としても泣くのを我慢しなければならない。
それが二人にとってどれほど絶望的に難しいことであっても、だ。
さくら町の春は、出来損ないの兄妹に委ねられてしまった。
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