桜の魔女の子
犀川みい
序章
第1話
さくら町には桜の魔女がいる。
魔女には子供がふたり。男と女、一人ずつ。
兄は泣き虫、妹は無愛想。
魔女の力を受け継いだ出来損ないの兄妹。
これは、さくら町に春が来て、春が去るまでの物語。
***
さくら町立図書館は日曜の朝から、子供たちで賑わっていた。
小さな町に一つだけある古くてこじんまりした図書館だが、図書館員による絵本の読み聞かせは子供たちの楽しみの一つであった。
「お話の時間だよ。さあ、みんな、集まれ、集まれ」
子供たちは大判の絵本を抱えた図書館員の周りに吸い寄せられるように集う。図書館員の女性はすっと息を吸って、「桜の魔女と庭師」と、よく通る声で絵本の題名を口にした。ざわついていた子供たちは途端に、静まり返った。
「昔々、このさくら町には優秀な庭師がおりました」
図書館員は冒頭の一節を読み上げる。子供たちは絵本の絵と、読み手の声に集中している。彼らはもう、絵本の中にいた。
「庭師はある時、町で一番立派な桜の世話をするように、親方様から命を受けました。その木は病にかかっておりました。庭師は桜の木が元気になるように薬を塗り、虫を除けました。それはもう懸命に、毎日毎日、休むことなく手入れに励みました。すると、次の春、桜の木は数年ぶりに満開の花を咲かせたのです」
図書館員は満開に咲き誇る桜の木が描かれたページを開いて見せた。子供たちは「わあ」「きれい」と幼い声で呟く。
「この桜の木には、桜の精がおりました。桜の精は、懸命に手入れをしてくれる庭師を毎日枝の先から見つめておりました。桜の精はいつしか、庭師に恋をしました」
恋、という言葉に小さな乙女たちの目がぱっと輝いた。
「桜の精は人間に恋をしてしまったのです。しかし、それは、いけないことでした。桜は人に恋をしてはいけない決まりだったのです。それでも、桜の精は庭師に恋い焦がれました」
図書館員はページを静かに捲る。月夜に桜の下で、二人の男女が見つめ合っている絵だった。一人は庭師の男、一人は桜色の髪をした女だった。
「ある月の綺麗な晩のことです。ついに想いが溢れて、桜の精は枝葉の先から、美しい女の姿をして、庭師の前に現れました。桜の精は『私のお世話をありがとう、あなたが好きなのです』と庭師に伝えました。庭師はたいそう驚きました。しかし、日々休まず桜の手入れをしていた庭師には、女がその桜そのものなのだとすぐに分かりました。庭師と桜の精は恋に落ちました」
図書館員はさらにページを捲る。次のページには色とりどりの花の精と、黒い魔女、燃える花の絵が描かれていた。子供たちは不安そうな顔になり、図書館員は声を低くした。
「桜の精が人間と恋に落ちたことを知った花の精たちは、花びらが焦げてしまうほど怒りました。咎められた桜の精は、罰を受けました。桜の精は人の世に身を落とし、魔女となってしまいました」
次のページには、庭師と魔女が手と手を取り合う絵があった。
「桜の魔女は、それでも庭師を愛し続けました。庭師が死に、その魂がまた生まれ、その度に魔女は庭師を愛しました」
図書館員は最後のページをゆっくりと捲る。庭師と魔女は桜の木々に囲まれて、笑みを浮かべている。
「長い年月を経て、花の精たちに魔女は許されました。花の精は魔女と庭師の愛に、心打たれたのでした。魔女は庭師と結ばれ、さくら町で幸せに暮らしました。それ以来、さくら町は桜が日本一美しく咲く町となりましたとさ。めでたし、めでたし」
図書館員は静かに本を閉じた。
子供たちはぱちぱち、と小さな手で拍手する。幼い聞き手たちは読み手に「面白かった」「心打たれるってなあに」など感想や疑問をぶつけている。
暫くすると、子供たちが徐々に散り散りなっていった。それを見計らって、読み手であった図書館員のもとへ、不満げな様子の若者二人が物凄い剣幕で詰め寄った。
「ちょっと、今の読み聞かせどういうこと!」
二人の子はぴったり揃っていた。
一人は男で、細身で背は高いが、猫背で下がり眉毛、目はうるうると涙が今にも溢れそうになっている。情けない、という言葉の似あう男だった。もっさりとした癖毛の黒髪とよれた私服がさらに彼を貧弱に見せている。
もう一人は女で、痩せており、長い黒髪を一つに結っている。顔は能面のように圧のある無表情だった。セーラー服を着ていなければ、社会人に見えるくらい大人びた雰囲気の学生だった。
一見、何の共通点も無さそうな二人だが、たった一つ同じ特徴があった。
彼らは、桜色の瞳をしていた。
「よっちゃん、はっちゃん、来てくれてありがとう」
図書館員はのほほんとした口調で、詰め寄って来た二人に声をかける。
「栞ちゃん、あの絵本の読み聞かせはやめて欲しい」
仏頂面の女、夜桜は不愉快と言わんばかりの不機嫌そうな声で言った。
「僕らを呼んでおいて、あんな話を読み聞かせるなんて栞ちゃんも人が悪いよ」
泣き顔の男、葉桜は怒っているのに、眉は八の字で弱弱しく抗議した。
全く悪いと思っていない顔で図書館員の栞は二人に謝った。
「ごめん、ごめん。だって、私はあの絵本が子供の頃から大好きなんだもの。この地に伝わる逸話だし『桜の魔女と庭師』は人気があるんだよ。二人が聞きに来てくれるって言ったから、読み聞かせはあの本が良かったの。二人が来てくれて、嬉しかったよ」
「自分の親の馴れ初めなんて聞いても何も楽しくないわ」
「右に同じく。僕らがあの惚気話を何回、いや何百回、母から聞かされたと思う?もう物語の内容を空で言えるよ」
二人は反省の色がない栞に不満を募らせていた。栞は思わず笑って非難の声を跳ね除けた。
「良いじゃない、魔女のお母さんなんて素敵だわ」
ちっとも素敵じゃない、と二人は声を揃えて呻いた。
さくら町には今でも桜の魔女がいる。桜の魔女と呼ばれる女は子を作った。
葉桜と夜桜、二人は桜の魔女の子どもである。
「魔女の子どもだからって、何も良いことないよ」
「そうさ、僕らが魔女の子どもってだけで、どれだけ苦労してきたことか!早く開花しろ、とか。一年中桜を咲かせろ、とか言われてさ」
葉桜はほろ苦い思い出を振り返り、それだけで涙目になった。
「そんなこと言っちゃって、二人ともお母さんが大好きな癖に」
「それは、まあ」
「否定はしないわ」
文句を言いつつ、兄妹は母親が好きだった。
図書館員であり、二人の幼馴染でもある栞は呆れて笑うこともできなかった。
「栞ちゃん、ごめん。僕ら、そろそろ行かなくちゃ」
葉桜は腕時計に視線を落としながら言った。
「大事な話があるから今日は早く帰るようにって母さんに言われているのよ」
「そうなの。それは残念。二人とも、また読み聞かせを聞きに来てね」
「次はもっとマシな本で頼むよ」
「あの絵本は売って他の本を買うべきね」
軽口を叩き、兄妹は急ぎ足で図書館を後にした。
まだ春の来ないこの町には空っ風が吹いていた。二人は防寒具にすっぽり身を包み、冬の町を歩く。
丘の上にある家まで、桜並木道が続いている。さくら町はその名の通り、町中が桜でいっぱいだ。一家に一本、桜の木があると言われるほどだった。住宅街、商店街を抜けて、下り坂を行くと川沿いにある病院の前を通る。川を越えると小高い丘があった。丘の上には一軒だけ、古い家が建っている。それが魔女の家だった。
その丘には、町でも一番と言われるほど立派な桜の木がある。その桜から少し離れた場所に、魔女の家は建っている。草花で壁一面覆われた煉瓦造りの家だった。家の屋上にはドーム状の空中庭園がある。
兄妹は家の前で人影に気が付いて立ち止まり、屋上の空中庭園を揃って見上げた。
「二人ともお帰りなさい」
頭上から鈴の音のような声が降ってきて、兄妹は顔を綻ばせた。
桜色の髪が、青い空に靡いている。黒いワンピースを着たその女性は、このまま絵にしてしまいたいほどに麗しく、空を背に微笑むのだった。桜色の髪と、同じ色の瞳、黒のワンピースは彼女のシンボルだった。
彼女こそが、桜の魔女である。
「二人とも早く上へおいで、庭園でお茶にしましょう、今日はダージリンがいいわ」
桜の魔女は家の屋上から声をかけ、空中庭園に姿を消した。
お茶に誘ったのは魔女だが、お茶の用意をするのは、兄妹の仕事だった。それは昔からの決まりだった。二人はまっすぐキッチンに向かった。
魔女の家は、家の中も植物で溢れていた。壁には多種多様の蔦が伸びて、窓際には鉢植えの花が並ぶ。キッチンには二十日大根やベビーリーフ、ハーブなど食用の植物が多く生息している。家の中はさながら植物園のようだった。
兄が湯を沸かし、妹が食器を用意する。兄が菓子を並べ、妹がティーポッドに茶葉を入れ、湯を注ぐ。兄妹は用意したティーセットを落とさないようにと気を付けて、狭く小さな階段を上っていく。屋上に出て、ガラス張りのドームに入ると、母親は花々に語り掛けていた。
温室の中は見た目以上に広い庭園となっており、魔女の魔法によって年中何かしらの花が咲いている。
東には春の花を、南には夏の花を、西には秋の花を、北には冬の花を。それぞれの方角に、季節に合った花たちが根を下ろしている。周年咲く花は中央付近に円を描いて集まる。
現在は暦に合わせ北東の方角、冬から春にかけての花たちが庭園の主役を務めている。
北と東の狭間には黄金色の福寿草、梅に似た黄色の花をつける素心蝋梅(そしんろうばい)、真北には黄色の紙を咲いたような形の花弁をつけた満作。やや西よりに、白い手毬状の花をつけた沈丁花、褐色の水仙に、紅白の椿が並ぶ。
庭園は季節ごとに主役が変わるのだ。
暖かな春には、紅紫の花をつけた木蓮に、黄色で小ぶりな銀葉アカシア、山吹や紫花菜(むらさきはなな)、青い勿忘草が見事に咲く。春から夏にかけては、赤白黄の鬱金香(チューリップ)が、木春菊(マーガレット)が、かすみ草が、赤や白の花弁を幾重にも織り込んだ麝香撫子(カーネーション)が競うように色とりどりの花をつける。
暑い夏になれば、紫陽花に向日葵、朝顔を筆頭に藤、梅花空木(ばいかうつぎ)の爽やかな白い花、紫紅色の酔仙翁(すいせんのう)に菖蒲、白と赤の絵具を混ぜたような色の立葵が花開く。夏から秋にかけては薄桃色や紫色の丸い花をつけた千日紅、紫や白の桔梗が庭を彩る。
涼やかな秋が来れば、白やピンク、紫など多彩な秋桜(コスモス)の花、純白と深紅の薔薇、花香る金木犀に多種類の菊、淡紅色の山茶花たちが庭を飾る。
寒々とした真冬には花は少ないが、石蕗は黄色のこじんまりした花を、八つ手は円錐状の白い花を、千両と万両は赤い実をつける。他に緋紅の花をつける木瓜や薄緑に紫が混ざった原種のクリスマスローズも冷たい冬の庭に彩りを加える。春が近づくと桃や梅は静かに蕾をつけて春を待つのだった。
この庭は花たちの楽園であった。
咲き誇る花々を縫うように羽ばたくのは揚羽蝶に紋白蝶、足長蜂や蜜蜂などの昆虫たち、たまに小鳥や鼠が迷い込む。昆虫や小動物にとっても、ここは楽園に違いなかった。
庭園には花の甘い香りが満ち満ちている。
透明なドームは天井から穏やかな冬の陽を取り込む。まるで外界から切り離された別世界のようで、訪れる者を皆、夢心地にしてくれる。
ここは、桜の魔女ご自慢の空中庭園、夢の花園である。
「それで、話って何さ、母さん」
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