夜桜の章

第3話

 一、

 

「それは、なんとまあ、大変なことになったねえ」

 栞は全く緊迫感の無い声で、空になったカップを卓上に置いた。

「そんな他人事みたいに言わないでよ、栞ちゃん!」

 葉桜は憤慨しながら、ハーブティを注いだ。

 ハーブは自家製のもので、庭先ではなく室内に生えているものを使っている。魔女の家の中は、どんな植物も過ごせるようになっていた。そのため、室内には多種多様な植物が生い茂っている。壁には壁紙の模様かと思われるほどの蔦が、床や棚には影を好む草花が、窓辺の鉢には光を好む草花が生息している。屋上の空中庭園に比べると花よりも草が多く、特に食用や薬用の草が多い。

 緑に囲まれたダイニングには、夜桜と葉桜、そして幼馴染の栞が一人ずつ肘掛椅子に掛けていた。

「だって他人事だもの」

 栞は湯気を立ち昇らせているカップを手に取り、一口啜る。

「酷いよ、栞ちゃん、このままじゃさくら町の春は大変なことになっちゃうのに!」

 兄の葉桜は幼馴染の栞に早速、泣きついていた。妹の夜桜はこの光景を何万回と見てきたので、もはや風景の一部にさえ思えた

「お兄ちゃんの泣き虫はいつものことだけれど、私達、本当に困っているの。どうしたらいいと思う?栞ちゃん……私、笑うの下手だから」

 夜桜は兄の葉桜とは違い、表情にこそあまり出ていないが、深刻に悩んでいた。

 偶然、仕事終わりにこの家へ寄った栞に、困り果てた兄妹たちは縋りついた。逃がさないと言わんばかりの力強さで家の中へと引っ張り込み、無理やり茶菓子でもてなした。

 お人好しな栞は事の顛末を親身に聞いてやった。栞と兄妹は親同士の仲が良く、三人兄妹のように育てられた縁がある。魔女が家を空けがちだったので、兄妹は栞の家に世話になることもしばしばあった。葉桜より一つ年上の栞は、二人にとって姉のような存在だった。

「魔女さまも、人選を間違えたわね。あの人のことだから、わざとかもしれないけれど。それにしても、ふふ……泣き虫のはっちゃんが泣いたら、花が散っちゃうのでしょう?今年のお花見は絶望的ね。花見をする前に散ってしまいそう。名前が葉桜なだけあるわ、名前負けしていないよ」

 栞は今現在、既にぽろぽろ泣いている葉桜を見て、呆れたように笑った。

 葉桜は今年で二十二なるが、彼の涙腺はそこらの子どもより緩かった。怖くても、痛くても、辛くても、哀しくても、すぐに泣く。嬉しいときはもっと泣く。

 壊れたダムのように、彼の涙腺は惜しげもなく涙を流すのだ。それは幼いころからで、成長しても一切変わらなかった。おかげで小中高大ともに、ついたあだ名は泣き虫ハッチ。そんな彼が酷い苛めに遭わずに済んだのも、栞や周囲のできた友人あってのことだ。

「栞ちゃんってば、また僕のことを馬鹿にして!反論できないじゃないか!」

「お兄ちゃんは我慢すればいい話だから、まだいいじゃないの。私は、笑わないといけない。私が笑わないと、桜は咲かないんだよ……やっぱり今年のお花見は絶望的だよ」

 夜桜は気が重そうに肩を落とす。

「えー、そうかな?はっちゃんはともかく、よっちゃんはやればできる子だから、大丈夫だと思うけどなあ」

「ちょっと、栞ちゃん。間接的に僕をやってもできない子って言っているよ、それ!」

「じゃあ、直接的に言おう。はっちゃんはやってもできない子だよ」

「うう……酷い、酷いよ、栞ちゃん」

 葉桜は泣きながら、テーブルに突っ伏した。夜桜は我が兄ながら何て情けない姿なのだと頭を抱えたくなった。

「よっちゃんは、ちゃんと笑えるよ」

 栞は夜桜にそう言って、紅茶を一口飲んだ。

「幼馴染の私が保証する」

「でも、うまく笑えないんだよ。私はもうずっと、ちゃんと笑えてないの」

 夜桜の声は暗かった。

「うーん、そうねえ、じゃあ、図書館においでよ。あれだけ本がいっぱいあるんだもの、笑い方を教えてくれる本が見つかるかも」

「そうね……ありがとう、明日、学校が終わったら行ってみる」

「ね、一歩進みそうでしょう。だから大丈夫だよ。こっちの泣き虫なお兄ちゃんより、百倍大丈夫。栞ちゃんのお墨付き」

「うん、ありがとう、心強いよ」

 栞の優しい笑顔に、夜桜は力強く頷いた。

「後はそうだなあ、周りにいる笑顔が素敵な人に、話を聞いてみたらどう?」

「笑顔が素敵な人……」

 夜桜は誰かいないかと考えたが、すぐには思い当たらなかった。もともと、夜桜には知り合いも少なければ、ましてや友達などさらに少なかった。

「あ、いけない、もうこんな時間」

 栞は植物に埋もれた壁掛け時計に目をやって、慌てて鞄を手に立ち上がった。

「そろそろ帰るね。魔女さまに用事があったのだけれど、いらっしゃらないみたいだからまた今度にするよ」

 栞は慌てていたのか、転びそうになりながら、魔女の家を足早に去った。夜桜は不安な気持ちのまま、葉桜と共に栞を見送った。

 栞は母に何の用事だったのだろう、と夜桜は後になって思ったが、寝たら忘れてしまった。

 

 明くる日、夜桜は通学路を一人、歩いていた。コートを着込み、マフラーはぐるぐる巻きにした。もう二月も終わると言うのに、乾いた風は肌をチクチクと刺す。夜桜は寒いのは苦手だった。

 登校する生徒たちに混じり、校門を抜け、下足箱で靴を履き替えた。そのまま、生徒たちの流れに逆らって、夜桜はまっすぐ保健室を目指した。

「おはようございます」

 保健室に入ると、養護教諭がカーテンを開けているところだった。

「おはよう、夜桜ちゃん。今朝は寒かったでしょう」

「はい、とっても。春なんて本当にくるのかしらってくらい」

 春が来なければ、桜の花を咲かせずに済むのに。夜桜は心の中で独りごちた。

「本当よねえ、今年は特に寒いわ」

 夜桜は保健室の一角にある学習机に鞄を置き、防寒具を脱いで、椅子に腰かけた。この一年、ここが夜桜の定位置だった。いつものように教科書とレポート用紙、筆箱を並べる。

「毎日大変ね、レポート提出」

「自業自得ですから」

 恥じ入るように顔を伏せて、夜桜は黙々とレポート用紙に鉛筆を滑らせた。

 午前中いっぱいかかって、夜桜はレポートを書き終えた。養護教諭から登下校時間の確認書類にサインをもらい、夜桜は荷物を片手に職員室へ向かった。

 きょろきょろしながら、担任教諭の姿を探す。会う機会が少ないので顔がなかなか覚えられない。印刷機の近くに担任と思しき顔を見つけて歩み寄る。

「こんにちは、先生。今日の分のレポート提出に来ました。それと、登下校時間証明書です」

 夜桜は挨拶もそこそこに担任教諭にレポート類を差し出した。職員室は居心地が悪く、今にも足が出口へと勝手に動き出そうとする。

「ああ、今日もちゃんとやったんだな」

「はい」

「あと一ヶ月で卒業か」

「はい」

「一年は早いもんだ」

 夜桜は少しの間を置いて、はい、と相槌を打った。私には長い一年でした、と内心、彼女は呟いていた。

「明日もしっかりな……ちゃんと卒業してくれよ」

 担任教諭の言葉には切実さがあった。

 結局、夜桜は「はい」しか言わぬまま、職員室を後にした。何となく、ぐったりと疲れた気持ちで、夜桜は職員室の前の廊下をのろのろと歩く。

「あれ、もしかして、吉野さん?」

 背後から男子生徒の低い声がした。吉野、とは夜桜の名字だった。

 夜桜は名前を呼ばれて、その場で一時停止した画面のようにぴたりと止まった。二、三秒くらい躊躇って、彼女はやっと振り返った。

 男子生徒は「やっぱり吉野さんだ」と親しげに笑いかける。頬にできるえくぼが印象的な柔らかい笑顔だった。

 草臥れたシューズ、着崩した学生服、シャツは学校指定の物ではない。人懐こい笑顔に、明るい髪色とピアス。一見して派手な生徒だった。夜桜は足元から順番に彼を見上げていき、まじまじと顔を見て、頭の中では焦っていた。

 この顔に多少の見覚えはある。女子に囲まれていた、割と人気のある男子生徒だったはずだ。話したことはもしかしたらあったかもしれない。彼は名前を呼んで夜桜を引き留めたのだ。面識はあるはずだ。しかし、困った。

「あの」

「どうかした?吉野さん」

「……ごめんなさい、君の名前が、ちょっと、出てこない」

 夜桜は観念して、彼に真実のまま言った。申し訳ない気持ちはあったが、分からないものはどうしようもなかった。しかし、彼は全く気分を害した様子もなく、自分の名前を夜桜に教えた。

「春日井真冬だよ、同じクラスの」

「あ、そう、なんだ……同じクラスなのに、ごめんね」

「仕方ないよ、あまり話す機会はなかったから」

 漫画なんかでクラスメートの名前を憶えない、知らない、というクールなキャラクターを時折見かけるが、夜桜は去年までそんなことあり得ないだろうと思っていた。同じクラスで一年も過ごしていれば、嫌でも名前を聞くし、覚えたくなくても覚えてしまうものだ。

 しかし、現在の夜桜は、クラスメートの名前をほとんど知らない。顔も何となくしか分からない。担任教諭の顔だってうろ覚えだ。あの設定は実在するのだ、と夜桜は身をもって実感していた。

 特段、クールを気取っている訳ではない夜桜にとっては、名前を知らないことは申し訳なさと居心地の悪さしかない。漫画を読んだときのような格好いいという感想は到底自分自身には持てなかった。やはりフィクションと現実は違うのだ。

「か、春日井くんだけじゃないの……私、ほとんど教室で授業受けなかったからさ、他のクラスメートも名前が分からないの。言い訳にしかならないけれど、あまり気分を悪くしないでもらえたら助かる」

 夜桜は、口調こそ淡々としていたが、その実、冷や汗をかきながら必死に言葉を紡いでいた。

「心配しなくても、怒ってないよ。吉野さん、教室には来てなかったけど、学校には来ていたよね?保健室とか相談室とか」

「え、うん……よく知っているね」

「時々、見かけたことがあるんだ」

 なるべく、学校では人に遭わないように行動していたつもりだった。見られていたのか、と思うと夜桜は少し気まずい思いがした。

「……あの、春日井くんは」

「真冬でいいよ。名字で呼ばれるとむずむずするんだ。俺も吉野さんのこと夜桜ちゃんって呼んでもいいかな」

 爽やかな笑顔に夜桜は気圧されて頷いた。

「え……まあ、何でもいいけど」

 夜桜は困惑した。そして危惧する。もしかしたら、この男は自分の嫌いなタイプかもしれないと。夜桜はちょっと話しただけで友達面をする輩は大の苦手だった。

 気を引き締めて、警戒しながら夜桜は彼に尋ねた。

「それで、真冬くんは私に何か用でも?」

 保健室登校のクラスメイトにわざわざ声をかけるのだ。用が無かったら嫌がらせでしかない、と夜桜はやや偏った考えで彼を見つめた。

「ああ、ちょっとお願いしたいことがあって。今、時間は大丈夫?」

「少しくらいなら」

「良かった。俺ね、卒業アルバムの編集委員なの。クラスのページ、行事とか休み時間とかの写真を何枚か選んでレイアウトしているところなんだけどさ、夜桜ちゃんが写っている写真が一枚もなくて困っていたんだ」

 夜桜は彼の言葉を聞いて、二つ納得したことがあった。

 まず、彼が編集委員であること。この学校は一応、進学校である。今、三年生は受験真っただ中で、学校は基本的に自由登校だ。登校している三年生は少ない。そんな中、真面目に登校しそうにない見た目の彼が学校にいたことが気になっていた。しかし理由は簡単で、彼には委員の仕事があったのだ。

 二つ目は、夜桜の写真が無いこと。これは当たり前で、当然のことだった。夜桜は三年生になってから、行事には一切参加していないからだ。

「私は別に卒業アルバムに載せて欲しいとは思わないから、無くていい」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る