山の祝福

黒弐 仁

山の祝福

大学を卒業してから十年以上勤めてきた職場とはいえ、一年以上の休職を経て復帰すると自分でも驚くくらいに仕事内容を忘れていた。上司に怒鳴られ、同僚や後輩からの冷たい視線に耐え、サービス残業にへとへとになって私は帰路に就いた。

「ただいま。」

「おかえりなさい。」

出迎えてくれたのは妻だけで、愛する息子の姿は見えない。自分の腕時計で時間を確認すると、既に夜の10時を回っていた。

「健介は?もう寝たのか?」

「えぇ。今日も友達と日が暮れるまで遊んでたわ。ここの所毎日よ。みんな、健介に会いたくて会いたくて仕方がないみたいで、いっつも迎えに来るのよ。でも、何をして遊んでいたのかはあまり話してくれないのよねぇ。」

妻は少し寂しそうな顔をしている。

「まぁ、子供だけの秘密というものもあるだろう。あまり大人が干渉しすぎるのもよくないさ。」

「そういうものかしらねぇ…」

「そういうものだよ。」

「まぁ、健介が元気ならそれでいいわ。あ、今夕飯を温めるから。」

そう言うと妻は台所へと戻っていった。


夕飯を食べ終わり、ゆっくりと風呂に浸かって疲れを癒した後、私は居間でテレビをつけた。別に見たい番組があったわけではなく、ただ何となくつけただけだった。そうすれば、少しでも気がまぎれると思ったからだ。

けれども、テレビの内容は頭には入ってこない。今私の頭にあるのはとある不安のみである。その原因は、間違いなく子供の頃のあの記憶だろう。

「どうかしたの?」

妻が唐突に話しかけてきた。すぐ近くにいたことに私は全く気が付かなかった。どうも私は、考え事をしていると周りが見えなくなっているようだ。

「どうかしたって、何がだい?」

「だって、あなたったらお笑い番組見てるのに、とても気難しい顔をしているんだもの。何かを抱え込んでる感じがしたわ。」

私は視線をテレビに戻した。テレビでは人気の芸人が体を張った芸をしている。以前の私だったらきっと爆笑しているのであろう。そして妻もそれを分かっている。

しかし、今の私では微塵も面白く感じることができない。原因は分かっている。

「ね。何か悩みがあるんでしょ?何でもいいから言って。ね?お仕事のこと?」

「いや。別に悩んでるわけではないよ。」

私はテレビを消して妻と向き合った。

「嘘おっしゃいよ。もしかして、お仕事上手くいってないの?」

「いや、まぁ、一年近くも休んでいたんだ。以前と比べれば忘れていることも多いし、新しく増えていたことも多いから戸惑うこともあるけれど、それはまたそのうち慣れていくだろうし、きっと大丈夫だよ。」

「それじゃあ、お仕事以外のことで何か悩んでいることがあるの?」

「いや、悩みというか、その…」

私は返答に困ってしまった。続ける言葉を考えていると、先に妻が口を開けた。

「お願い、何でも、どんな小さいことでもいいから言ってほしいの。私たちは家族なのよ。あなたや健介の問題は私の問題でもあるの。もう、家族が離れ離れになるのはこりごりなのよ。」

今にも泣きだしそうな顔をしている。本当に、よくできた妻であると思う。私にはもったいないほどの。

だがそれと同時に、非常にデリケートでもあるのだ。だからこそ、あの話は、なるべくなら妻の耳には入れたくはなかった。

ようやくここまで普通にやってこれるようになったのに、自分でさえまだ現状を受け入れられてはいないのに、妻が聞けば、きっと…。

煮え切らない態度の私に、妻はついに泣き出してしまった。やはり精神的にまだ不安定になっているのだろう。あんなことがあった後ではな。

その涙を見て、言いようのない罪悪感が私を襲った。

「分かった。すまなかった。話すよ。」

ついに私は決心して言った。しかし、妻はすぐには泣き止まず、私はしばらく妻の背中をさすり慰めた。

妻が泣き止み落ち着くと、私は話し始めた。

「そうだなぁ、一体、どこから話せばいいのか…」

こんな話、にわかには信じられないだろう。妻に信じてもらえなけば、結局は悪い方向にしか向かわないのは目に見えている。。

「僕はね、過去に二度、天狗を見たことがあるんだ。」

「て、天狗?天狗って、あの天狗?」

妻は笑いそうになっていた。だが、私の真剣な表情を見ると、真面目に話を聞く気になったようで、黙って耳を傾けた。

その様子を見て、私は少しだけ安心した。取り敢えず話は聞いてもらえそうだ。もっとも、話を信じてくれた後どうなるかは分かったものではないが…。

「多分、君が想像しているもので間違いはないと思うよ。まぁもっとも、僕がそれを天狗だと思い込んでいるだけかもしれないが…」



あれは、そうだな、僕が健介と同じ年くらいの頃だったかな。

当時僕は、今住んでいる市街地から少し離れた、山に囲まれた町、というよりも村に住んでいたんだ。その村は過疎化が進んでいて人口は少なかったけれど、その分人と人との距離は近く、みんながみんな顔見知りだった。僕を含めその村の子供の数は10人ほどで、そのみんなでいつも日が暮れるまで遊んでいた。


ある日、子供たちだけで山の探検をしていると、森の中に開けた場所を見つけたんだ。そこは、円を描くように木がなくなっていて、地面は芝のようになっていた。そして中央には、大人でも上るのに苦労しそうなほどの大きな岩があったんだ。

僕たちは秘密の場所を見つけたととても喜んで、それからは毎日その場所に集まって遊んでいたよ。


初めに異変があったのは、きっとあの日だろうな。その時僕たちは、その場所でいつも通り遊んでいたんだ。すると、とても大きな音がした。何と言ったらいいか、何十年も育った大木が倒れるような、とにかく耳が引き裂かれそうなほどに大きな音だった。

みんなびっくりして辺りを見回してみた。だけれども、その音の原因らしきものは見当たらなかったんだ。僕たちはそら恐ろしくなり、その日は早々に家に帰った。

その日の夕方、遊び仲間のよう君の家から悲鳴が聞こえてきた。よう君のお母さんの声だった。大人に混じって僕もよう君の家に行ってみた。よう君のお母さんは、家の勝手口の前に立っていた。よほど汗をかいていたのか、まだ季節は春だというのに服はびっしょり濡れているようだった。その顔は、なんだか怖がっているような様子だったけれども、何が起こったのか聞いても「大丈夫」を繰り返すだけだった。

よう君にも何が起こったのか聞いてみた。よう君が言うには、よう君のお母さんは急に叫びだして、その顔を見てみると何かが見えていて怖がっているようだったけれども、よう君にはその時は何も見えなかったそうだ。


そしてその次の日、それは起こった。あの場所で遊んでいると急に突風が吹いた。とても強く、木の葉が舞い、目にゴミが入ったみたいで、僕は思わず目をつむった。

それは時間にすればほんの一瞬のことだったんだ。

目を開けると、その一瞬の間に、よう君は姿を消していた。他の子たちに聞いてみても、どうやら全員が同時に目をつむっていたようで、よう君がいなくなったその瞬間を見たのは誰もいなかった。僕たちはよう君の名前を呼びながら必死に山の中を探したけれど、結局見つからず、急いで山を下りて大人たちに状況を伝えた。

村の自治体では捜索隊が組まれ、さらには警察隊も呼び、山全体で大規模な捜索が行われた。

だけれど、その時はついによう君を見つけることはできなかった。警察犬を使った捜索もしたけれど、よう君の匂いはあの場所で消えているようだった。警察たちは、おそらく鳶に捕らえられたのではないかと話していた。村にいるおじいさんやおばあさんは神隠しだと騒いでいた。

けれど、結論は結局出なかった。

その日から、よう君のお母さんは様子がおかしくなった。

「あいつがさらったんだ。」とうわごとのように繰り返し、一日中家の中にふさぎ込むようになってしまった。

よう君の家はお父さんが早くに亡くなって、ずっと二人だけで暮してきたから、よう君を失ったことで心が壊れてしまったんだと思う。いや、たとえお父さんが生きていたとしても、同じようになっていただろうな。いつだって、親にとって子はかけがえのないものだ。

今だから分かるが、悲鳴が聞こえたあの日、よう君の家にはきっと天狗が来ていたんだ。そしてよう君のお母さんの前にだけ姿を現したんだと思う。これから、よう君をさらうことを予告するかのようにね。


それから一年経って、よう君は姿を現した。

よう君がいなくなったあの日から、子供たちでよう君を探すことが度々あったんだけれど、その日、あの場所に行くと真ん中にある大きな岩の上にニコニコ笑いながら座っているよう君がいたんだ。相当な大きさの岩なのに、登るのに使った道具なんかは周りには見当たらなかった。僕たちは大いに驚いてよう君に声をかけたけど、声が届いていないのか、ただただニコニコしているだけだった。子供たちだけでは岩の上からよう君を降ろせそうにないので、僕は急いで山を下り、大人たちを呼んできた。

最初は質の悪い冗談を言っているのではないかと疑われたけれど、僕達の様子が尋常ではないのを察して、一緒についてきてくれた。

大人たちはよう君の姿を見るととても驚いて、僕たちと同じように大きな声で名前を呼んでいたけれど、やはり反応はなかった。

大人たちはよう君を岩の上から降ろそうとした。だけれども、よう君のいる位置は高く、大人二人で肩車をしても届かなかったため、結局村まではしごを取りに戻った。

見つけてから二時間ほど経って、ようやくよう君は岩の上から降ろされた。降ろされた後も、よう君はただニコニコ笑っているだけで、誰の声にも、体をゆすっても一切反応しなかった。

よう君に近づいて改めてその姿を見てみると、僕は既視感を覚えた。

抜けてなくなっている前歯、転んでできたおでこの擦り傷、短くそろえられた髪、買ったばかりの新品の服。全てがいなくなったあの日のままだった。唯一違ったのは、よう君は靴をはいておらず裸足だったということと、よう君の左のこめかみ辺りに、小さく、けれど真っ赤な痣があったということだった。

山から下りて、自分の家に帰り、よう君はお母さんと再会した。よう君のお母さんは泣いて喜んでいたけれど、よう君は変わらずニコニコしているだけだった。

その様子が、なんだかとても不気味だったのをよく覚えているよ。


よう君が喋りだしたのはそれから三日経ってからのことだった。夢から覚めたかのように、急にふっと意識を取り戻したらしかった。

よう君の様子を見に行ったけれど、とにかく混乱した様子だったよ。

よう君の最後の記憶は、一年前のあの日、あの場所で僕たちと遊んでいたことだった。それから記憶が飛んで、急に家の中に場所が移ったから、とても驚いたらしい。

そしてあれから一年の月日が経っていたのもよう君は知らなかった。その間の記憶は一切持っていなかった。村のみんなが総出で悪戯をしていると思ったと言っていた。よう君に言わせれば抜けた歯は生えてはいないし、すり傷も治ってない。それに来ていた服もあの日と同じだったから本当に信じられなかったんだ。

大人の中には病院に連れて行こうと言い出した人もいたけれど、よう君の家は母子家庭だからそこまでお金に余裕があるわけではなく、結局それはしなかったそうだ。


よう君が戻ってきてしばらくして落ち着くと、また以前のようにみんなで集まって遊ぶようになった。だけれど、よう君は様子が変になることがあった。

みんなで遊んでいると、唐突に立ち止まって、ぼーっとしだすんだ。その時のよう君は、目に光がなく、口は半開きで、なんというか魂を抜き取られてしまったようになっていた。

みんなが声をかけても、体をゆすっても、反応はなく、ただただぼーっとしている。

そして時々、ぼそぼそと何かを言うんだ。意識して聞かないと聞きとれないような声量だったんだけれど、それは日本語でも英語でもない聞いたことのない言葉だった。

しばらくすると目が覚めたかのようによう君の目に光が戻り、取り乱したかのように辺りをキョロキョロしだした。みんなが一体どうしたのか、さっき言っていたことはなんだと聞くと、記憶が飛んでいて、ぼーっとしていた時のことは覚えていなかったんだ。

そんなことが度々起こったんだけど、よう君がその状態になるたびに、こめかみにある痣が、本当に少しずつ、大きくなっていっている気がした。

僕は、言いようのない不安に駆られた。


よう君が戻ってから一か月ほどが経った。

相変わらず、よう君は唐突にぼーっとすることがあった。そして、痣が少しずつ大きくなっているのは僕の気のせいではないことに気が付いた。こめかみの痣は、左の頬にまで広がっていたんだ。

また、よう君に別の変化が訪れた。野生の動物に話しかけてることがあったんだ。あのぼーっとしている時の様子で、野良猫や野ウサギ、木にとまっている鳥なんかに、あの聞いたことのない言葉でひたすら話しかけていたんだ。

そして不思議なことに、その動物たちもまるで話を聞いているかのようにじっとして動かず、ずっとよう君の方を見ているんだ。後でそのことについて聞いてみても、やっぱりよう君は何も覚えていなかった。流石によう君自身も少し怖くなっていたようで、目には不安の色があった。

思い切ってよう君のお母さんにそのことを言ってみた。だけれど、よう君の母さんは何も言わず、少し悲しそうな目をしただけで、そのまま家の中に戻って扉を閉めてしまった。

きっと、よう君の変な様子に気づいてはいたんだろうけれど、現実から目を背けていたんだと思う。


それからさらに二か月が過ぎると、よう君の赤い痣は顔の左半分と首にまで広がっていた。また気のせいか、鼻がやけに大きくなっているように見えた。さらに、左目はやや黄色くなっていた。

この辺りから、よう君は遊びで集まるたびに、妙な道具を持ってくるようになった。本人が言うには、一日に何度か記憶が飛んで、気が付くと目の前に作り方と思われるものが書いてある紙とその完成品が置いてあるのだそうだ。

いつの間にか、みんなで遊ぶ際にはよう君がその道具を持ってきて見せてもらうのが恒例になっていた。そしてその道具は、全てがおおよそ人間には作り出せないようなものばかりだった。

ある時は長い一本歯の下駄を一足持ってきた。普通の下駄でさえ履きなれていない人にとっては歩きにくいものなのに、それが一本歯であるならバランスもとりにくく、より一層歩けなくなりそうな気がする。だけど、よう君が持ってきたその下駄は、履くと体がとても軽くなっていつもよりも全然早く走ることができたんだ。いや、走るというよりも、地面を滑っているような感じだったよ。他にもその下駄を履いていると、木を駆け上ることができたり、一回のジャンプで、あの場所にあった大きな岩よりも高く跳ぶことができたんだ。何というか、重力を無視しているかのような、あの不思議な感覚を今でもよく覚えているよ。

ある時は団扇を持ってきた。その団扇は、おそらくは何かの鳥の羽でできているようだったけれど、見たことのないものだった。それを木に向かって仰げば、大きく揺れるくらいの強風を作り出すことができたんだ。僕はその時は体の小さい子供だったから風の勢いに負けて転げてしまったんだ。そしてその時ふと思ったよ。よう君がいなくなったあの日、突然吹いたあの風は、これだったんじゃないかとね。まぁ、今となっては確認のしようもないんだけど。

ある時は藁でできた蓑を持ってきた。その蓑を付けてみると、その瞬間から他の人からは着ている人の姿が見えなくなってしまうんだ。付けている方からすると、他の子供たちが慌てる姿が見えているから、面白くなるわけだ。後ろから肩を叩かれたり、体をくすぐられたりしても分からない。そして蓑をとると今度は何もないところから急に現れるものだからさらにびっくりするんだ。無邪気な子供だったからこそ純粋に楽しむことができたんだろうけど、今にして考えてみれば、あれをもし悪い人が持って行ってしまったらと考えるとぞっとするよ。

ある時は、一見ただの竹の筒にしか見えないものを持ってきた。しかしその筒を覗いてみると、山の向こうにある隣町が見えたんだ。さらにずっと筒を覗いていると、見えている景色が移動して、知らない街の風景になって、さらにはどこか分からない、恐らくは海外の風景にまでなって、最終的には自分の後ろ姿が映るんだ。慌てて振り返っても何もない。そして再び筒を覗いてみるとまた違う風景が見えた。その筒を覗くだけでまるで世界中を旅しているように思えるんだ。よう君が作った道具の中では確かこれが遊び仲間からは一番人気があった気がする。

またある時は、病気になった友達のお見舞いによう君と行ったことがあった。その時その友達は酷い高熱が出てて、咳も止まらず、とにかく苦しそうだった。よう君はポケットから小さい布製の袋を取り出すと、さらにその中から小さな丸い何かを取り出した。それが何かはよくわからなかったけれど、何かを練った丸薬のようなものだったのは覚えている。そしてよう君は、苦しんでいるその子の口の中へそれを入れ飲み込ませたんだ。飲み込んでから1、2分経つとその子が急に痙攣を始めた。僕はそれが毒だったんじゃないかと思い、とにかく焦って、挙句にはよう君を責めたりもしたよ。だけれど、少し経つと、その子は口から何か黒い物体を吐き出したんだ。掌にのる程度の大きさで、その色は今まで見てきたどんなものよりも黒かった。なんか、こう、テレビとかで見るような放送出来ないものを消しているような、ああいう感じのものが現実にあるようだった。僕が混乱しているとその子が起き上がった。僕が大丈夫なのかと聞くと、その子はそれまでの苦しみが嘘のように体調が回復したと言った。そして、よう君はその黒い物質を自分のポケットの中にしまっていた。一体あの薬は何なのか、その物体は何なのかをよう君に聞いてみた。よう君が言うには飲ませたものは薬で、体の中の全ての悪いものをその黒い物体にして吐き出させる効果があるのだという。僕はただただ驚いたよ。子供ながらに、そんな薬など存在するはずがないなんてことは分かってはいたけれど、でも実際に目の前で見ていたんだからね。僕はよう君に、なぜ作った時の記憶がないのにそれがどういうものか分かるのか、そしてその黒いものを持ち帰ってどうするのかと聞いてみたけれど、よう君は何も言わず、足早に帰ってしまった。

こういった物珍しい道具を持ってくるものだから、僕も含めて、みんながよう君に会うのが村の生活の中での一番の楽しみになっていた。そのうち、自分たちからよう君の家に出向くことも多くなっていった。

だけれど、これらの道具のことは、大人達には絶対内緒だというルールがあった。何故かとよう君に聞いたところ、大人は賢いからこれらを悪いことに使ったり、お金を儲けるために使おうとするからだということだった。

そういえば、よう君の家に遊びに行った際、それらの作り方が書かれた紙を見してもらったこともがあった。だけど、そこに書かれていたのは漢字に似たような、だけれど決して日本語ではない、見たこともない記号のようなものが書かれているだけで、僕には何が何だか分からなかった。

それと、よう君がそれを書くのを見たことがある。その時は当時住んでいた僕の家でよう君と二人で遊んでいたんだけれど、向かい合って座っていたよう君の目つきが突然変わったんだ。とても驚いたよ。目はなんだか、ギラっと光っていて、まだ子供だというのに眉間にはものすごいしわが寄っていた。その次の瞬間、僕の机の上にあったノートとボールペンを手に取ると、すさまじい勢いでその文字を書き始めたんだ。よう君はその文字を書くのをとても手馴れているようだった。それはまるで、何か別の生物を見ているようだった。


さらに一月ほどが過ぎて、よう君の見た目は一層変化していった。

赤い痣はさらに伸びていて、半袖から延びる腕からそれがちらちらと見えていた。最初は半袖の下にもう一枚服を着ているのかと思ったよ。鼻は横から見ると、缶コーヒーの缶ほどの大きさになっていて、明らかに人間のそれより大きくなっていた。目は両方とも黄色くなっていて、異様な光を放っていた。髪の毛は所々白くなっていた。老いによる白髪とは違う、透き通るようなきれいな白だった。

そしてもう一つ。背中がやけに膨らんでいるんだ。背中を触らしてもらうと、どうやら肩甲骨辺りに一対の突起物があるようだった。大きさは、大人の手くらい。触れた感触は、骨が入っているのかしっかりとした固さがあったよ。

この頃になると、よう君は不思議な力を持つようになっていた。

ある日、僕たちよりももっと幼い村の子供が行方不明になった時があったんだ。村の人たちはよう君の時のような神隠しにあったのではないかと言っていた。

そのことをいつもの遊び仲間で話していると、よう君は静かに目を閉じて耳を澄まし始めた。その様子に、ただならぬものを感じて僕たちは静かにそれを見ていた。一分くらい経つと、よう君は急に目を開け、「こっちだ」と言って走り出したんだ。僕たちもすぐにその後を追いかけたんだけれど、よう君は異常に走るのが早くて、ついていくのがとても大変だったよ。途中大きな岩が道を塞いでいたんだけど、よう君はそれを素手で簡単にどかしてしまったんだ。きっと、ものすごい怪力を持っていたんだろう。

そしてたどり着いた先に、その子はいたんだ。一人で立ち尽くし、泣いていた。きっとよう君はこの泣き声を聞き取っていたんだと思う。

どうやらその子は山の中できれいな花を探して歩き回っているうちに帰り道が分からなくなってしまったらしかった。連れて帰ると、その子の親は泣いて喜んでいた。だけれど、よう君のその見た目には少し怖がっているようだった。

他にもよう君は、他の人の目をじっと見ると、その人の過去や未来、そして今考えていることが分かるようになっていた。この力を使って、その人にこれから起こることを教えてあげたり、昔失くしたものを見つけてあげたり、さらには村で何か盗みなどがあった時には犯人を見つけることなんかもしていた。

この不思議な力が身についてから、僕たち遊び仲間はよう君に前世、前前世、前前前世が何だったかなど、遡って聞くのが流行りだした。よう君の答えはとてもリアリティがあって、その人生をどう歩んできたかを詳しく教えてくれた。僕たちはきっと、それらは事実なんだろうと確信していた。

村の老人たちの間ではよう君を神様として祀ろうとする動きがあったみたいだけれど、大事にしたくない村の他の人達によって抑えられていたようだった。

また、よう君のことを村の外まで広めようとする者もいなかった。いや、厳密には少数ながらいたんだけど、よう君は未来を見ることができたから、そうなる前にそういった人達は村八分を受けることになったんだ。


そしてさらに二か月が経った。赤い痣は上半身全体にまで広がっていた。鼻もさらに大きくなり、エナジードリンクの缶ほどの大きさにまでなっていた。背中の突起物も大きくなって、よう君は服を着ることができず、いつも上半身裸で過ごすようになっていた。その突起物は黒っぽい色をしていて、よく見てみると羽毛のようなものが生えているのが分かった。

以前はよう君を神様として崇めようとしていた老人たちも、その姿を見て敬遠するようになっていた。いや、老人だけでなく、村の大人たちはみんなそうだった気がする。よう君に話しかけるのは、よう君のお母さんと僕たち遊び仲間だけになっていた。

この頃になると、よう君は、よう君である時間のほうが少なくなっていた。

ふと見ると、よう君は空中の一点を見つめ、ぼそぼそと何かを呟いているんだ。今までもそういうことはあったんだけれど、この頃には、長い時で僕たちと遊んでる間中ずっとその状態が続くことがあったんだ。僕は何となく、よう君の中で、別の何かが育っていて、それが出来上がりつつあるのだということを感じ取った。多分他のみんなも感じてはいたと思う。

そして、よう君自身もやはり分かっていたんだ。よう君の意識がある時には、彼はいつも泣きそうな顔で言っていた。自分が自分でいる時間がどんどんなくなっていっているのが分かると。自分がどこかへ消えてしまいそうで怖いと。自分は一体、何になってしまうんだと。何度も何度も、僕たちに会うたびに言っていた。

それを聞くたびに、僕は彼のために何かをしてあげたかった。けれど、子供だった僕はどうすることもできず、ただただ歯がゆさだけを感じた。


そして、それから少し経っての話だ。

よう君の中のものが、完全に目覚めたあの日。

その日の夜、もうそろそろ寝ようかという時に、よう君のお母さんが僕の家に突然来たんだ。息を切らしていて、目には涙を浮かべていた。その姿を見て、僕にとてつもなく嫌な予感がよぎった。

よう君がいつまで経っても帰ってこない。行方を知らないかとのことだった。

その言葉を聞いた瞬間、親の制止も振り切って、僕は寝巻のまま家を飛び出した。なぜか分からないけれど、よう君はあの場所にいるに違いないと確信し、がむしゃらに走った。

夜の山なんて明かりもなく真っ暗なはずなのに、なぜかその時は全てがはっきりと見え、すんなりとたどり着くことができた。まるで僕を導いているかのようだった。

どうやら僕と同じことを思ったのか、他の仲間たちもみんなそこにいた。そして不安そうな目をして、何かを取り囲んでいたんだ。覗いてみると、どうやらそれは大きな翼で自分の体を覆い、地面に伏せているようだった。

最初僕は、弱った鳶か何かがうずくまっているのだと思った。だけれど、すぐに違和感を感じた。

頭と思われるところには、羽毛ではなく髪の毛のようなものがあるのに気付いた。

そしてその色は綺麗な白であるのに対し、翼の色は黒に近い茶色だった。よく見てみると、真っ赤な手と足があるのが分かった。

僕達が見ている前で、それは立ち上がった。

真っ赤な顔の中心には、大きく長く太い、上に向かって少し反っている鼻があって、その目は黄色くぎらついて光っていた。体全体が真っ赤で、髪の毛は全てが透き通るような白色になっていた。右手には羽でできた団扇、足は長い一本歯の下駄を履いていた。よう君が作ったものだ。

僕はその見た目を知ってはいたが、実際のものを見るのは生まれて初めてだった。



天狗だ。



人間にはない、独特のオーラを放っている感じがした。

そしてその顔は、その天狗の顔は、僕達がいつも見てきたものだった。



よう君だった。彼の中の「何か」は、ついに出来上がったのだと察した。



僕たちはよう君の名前を懸命に呼んだけれど、全然反応をしなかった。その天狗の中には、最早よう君の人格はなくなっていたんだ。

天狗は背中の翼を広げた。とても大きかった。多分、端から端までで3メートルはあったんじゃないだろうか。

そして持っている団扇で僕たちに向かって仰ぐと、強い風が吹いた。僕はその勢いに負け、すっ転び、目をつむってしまった。時間に知れば一秒経ってるかいないかといったところだ。だけれど、目を開けると、天狗はいなくなっていた。その一瞬のうちにどこかへと消えてしまった。

飛んで行ってしまったのかと思い、僕たちは空を見上げたんだ。そこには満天の星空が広がっていて、その時、大きな流れ星が一つ、まるでよう君が天狗になったのを祝福するかのように、ゆっくりと流れ落ちたんだ。



「それ以来、よう君は行方知らずのままだ。それから三年後に、ダムを建設することになって村はなくなった。そのタイミングで、僕は少し離れたこの市街地へと引っ越してきたんだ。何故よう君が天狗に選ばれたのかは分からない。本当は、誰でもよかったのかもしれない。宝くじに当選するような確率で、たまたまよう君が当たったのかもしれない。」

話し終えた私はゆっくりと妻の顔を見た。その顔に血の気はなく、真っ青になっていた。よく見ると小刻みに震えている。

沈黙が流れた。妻はおそらく、頭の整理ができていないのだろう。

いや、整理はできているのであろうが、認めたくないだけか。

しばらくして、ようやく妻が口を開いた。

「あなた、その話で、一体何が言いたいの…」

妻の声は震えている。そのことからおそらく、本当は私の言わんとしていることが分かってはいるのだろうとは容易に想像がついた。

ここから先は、話すべきかどうか非常に迷う。果たして妻の精神は、耐え切ることができるだろうか。

「ねぇっ!!何か言ったらどうなの!!!」

私が黙っていると、妻は大声を張り上げていった。そして私は覚悟を決め、話し始めた。

「さっきも言ったように、僕が昔住んでいた村はダムの底に沈んでもうないんだ。つまり、あの山のあの場所へと入る人間もいなくなったということだ。」

少し間を置いても、妻は何も言わない。やはり最後まで言わなければならないか。

「ここからは僕の推測なんだけれど、よう君は神隠しにあった後に天狗となった。つまり、彼らはそうやって仲間を増やしているんだと思うんだ。けれど、村に人がいなくなったことで必然的に神隠しにあう人もいなくなった。そうすると、新しく仲間を増やすことができないから彼らも行動範囲を広げたのではないかと思ったんだ。いや、間違いなく、人間が昔に比べて行動範囲を広くしたのに続いて、彼らもそれに合わせているんだろう。」

もう一度妻を見てみる。また目に涙を浮かべていた。呼吸も荒い。胸が張り裂けそうな気持でいるのだろう。

「それがあなたの不安とどう関係あるのよ!一体何が言いたいの!そういえばあなた、天狗は『二度』見たことあるって言ってたじゃない!二度目はいつ見たのよ!!教えなさいよ!!!」

妻はややヒステリック気味に叫んだ。今までの私の話を聞き、動揺しているようだ。最早、落ち着かせることはできそうにない。私は再び口を開き、語り始めた。



一年ほど前のことだ。あの日の夕方、僕はいつものように会社のオフィスで仕事をしていた。

すると、何か大きいもの同士がぶつかったような、凄まじい音が外でしたんだ。ビルの前で交通事故でも起こったのかと思い、慌てて窓から外を見てみた。けれど、特に変わった様子は見られず、そこには普段通りに行きかう人々がいるだけだった。

「あの、どうかしたんですか?」

僕が混乱していると、後ろから心配そうな声が聞こえてきた。

変な様子の僕が気になったのだろう。会社の後輩が声をかけたようだった。

「いや、何でもないよ。大じょ…」

言いかけて、僕は固まった。

目の前にあるのはキョトンとした顔をしている後輩の姿。そして、その後ろに、いたんだ。

身長は、確実に二メートルは越えている。肩幅は広く、筋骨隆々な体つき。長く延びた髪と立派な髭。そのどちらもが綺麗な白色をしていた。昔ながらの山伏みたいな恰好をしていて、その腰には刀と思わしきものをつけていた。右手には大きな羽でできた団扇を持ち、足には長い一本歯の下駄を履いていた。その昔ながらの格好が、近代的なオフィスにはミスマッチで余計に目立たっていたんだ。

人間と異なるのは、真っ赤な皮膚の色と異様に大きく反りあがった鼻、そして折り畳まれてはいるが、背中から生えているのが分かる、猛禽類のような一対の大きな翼だ。

それが人間でないことは一目見て分かった。同時に見覚えもあった。

天狗だ。

あの日見たものと同じだ。そしてその顔までもが。


その顔は、懐かしい、僕の幼馴染のよう君だった。


間違いない。彼の面影が残っている。

彼は異様な光を放つ、ぎらついた目でじっと僕のことを見ていた。

あの時、よう君のお母さんは村中に響き渡るような悲鳴を上げたが、僕は逆だった。恐怖で何も言葉を発することができなかった。蛇ににらまれた蛙のように、ただただ立ち尽くしていた。全身の毛穴からは、べとついた汗が大量に吹き出していた。

僕は周りを見てみた。同僚や上司達はいつも通りデスクワークを行っている。その様子を見て、それは僕にしか見えていないことが分かった。

「あの、大丈夫ですか?」

もう一度、後輩に声をかけられた。視線を戻す。やはり、やつはそこにいる。

次の瞬間、やつはビル全体に響き渡るような凄まじく大きな声で大笑いし始めたんだ。その音量に耐え切れず、僕は思わず耳を塞いだ。こんなにも大きな音なのに、周りの人達には聞こえていないようで、不審な目で僕のことを見ている。後輩は心配そうな目をして僕に何か話しかけているが、笑い声にかき消されて何を言っているか全然わからない。

ついに僕は耳を塞いだまま、その場にうずくまってしまった。はたから見れば、とても奇怪な行動だったろうけれど、その時の僕にはそれが最善の行動だったと思った。

少し経つと、唐突に笑い声が止まった。顔をあげてみると、不安そうな顔をした会社の人達がいるだけで、やつはいなくなっていた。心配する声を無視して、僕はオフィスの外に出た。けれど、いくら探しても、もうやつの姿はどこにもなかったんだ。

その時の行動がよっぽど印象深かったのか、今でもおかしいやつを見るような目で見られるよ。まぁ、そのすぐ後に休職したっていうのもあるんだろうけれど。

時間というのは恐ろしいね。絶対に、一生忘れないだろうと思っていたことでさえも記憶を薄れさせ、忘れさせてしまうんだから。その時まで、過去に天狗を見たことがあったことなどすっかり忘れていたよ。

そしてね、全てのことを思い出した今、物凄く嫌な考えが思い浮かんでくるんだ。




なぜなら、健介が行方不明になったのはその次の日だったんだからね。




「何で!!何でなのよ!!!!」

妻は大声を上げた。もう日をまたいでいる時間帯だがそんなことは気にしていられないのだろう。

「健介がやっと見つかってっ…!!!!あなたの心も私の心も回復してっ…!!!あなたも職場に復帰して…!!!やっと家族三人で幸せになれると思ったのに…なんで…なんでこうなるのよ…!!!私たちが何をしたっていうのっ!!!何で健介なの!!!健介が何をしたっていうのよぉおぉぉぉぉおぉ!!!!!」

そう言うと、妻はワァっと泣き出してしまった。

やはり、こんな話などするべきではなかったのだ。


「おとぉさん?おかぁさん?」

眠たい目を擦りながら、健介がやって来た。恐らく、妻の声で目が覚めてしまったのだろう。

「どうしたの?お母さんは何で泣いているの?喧嘩でもしたの?」

「いや、何でもない。何でもないんだ。」

私はそれ以上の言葉を、健介に言うことができない。

私はどうすればいい。私は何をすればいい。

私には、どうすることもできないのか。

結局私は、ただ見ていることしかできないのか。

私は押しつぶされそうな思いに駆られながら、健介の顔を見た。




愛おしい息子の顔は、半分ほどが真っ赤な痣に覆われ、鼻は一般的な子どものそれに比べ明らかに大きくなっていた。

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山の祝福 黒弐 仁 @Clonidine

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