1940年 倫敦『大顎:不明種』

 本報告書内では、確実な物的証拠(死体等の)がない事例を扱うつもりはなかった。

 が、本事例は高い蓋然性を有しており、またその被害の甚大さから記載の必要性があると判断した。

 1930年以降、欧州各地では極少数の目撃情報を除き、被害が報告されることはなかった。

 ロシアは血みどろの内戦に喘ぎ、その隙に極東では、大日本帝国とアメリカ合衆国の合成獣とでも言うべき満州国が台頭。シベリア戦争(※1.)、大陸事変(※2.)によって、広大な領土を得ていたが、所詮は東の果ての出来事であり、世界は概ね平和だった。

 

 しかし、その平和が仮初のそれであったことを我々は知っている。


 独逸を掌握したアドルフ・ヒトラー率いるナチスは周辺各国を次々と併合。

 1939年にはポーランドへ侵攻。これを圧倒し併合。

 同年、独仏軍事同盟締結。英国は、日米と連携し徹底抗戦を決意。

 ドーバー海峡上空にて、連日激しい空中戦が繰り広げられた。未だ正式参戦していなかった我が国からも多数の義勇航空隊(※3)送り込まれ、世界初の空母機動部隊(※4)も遥々、大西洋へ参陣。1940年には、ブレスト奇襲作戦(※5)を英空母と共に成功させ、独仏軍の英本土上陸を阻んでいる。

 おそらく、この時点で日英首脳部は、戦争の行く末にさほど危機感は持っていなかったと思われる。

 何しろ、参戦こそしていないとはいえ、米国は日英支持。物資の面で独仏に劣ることはありそうになく、海軍力では圧倒。

 独逸が秘密作戦としていた潜水艦による全面通商破壊戦は、想像していた程でもなく、日英米の造船能力を持ってすれば、損害を埋めることは容易かった。

 この原因は、独逸の魚雷が安定しなかったこと。第一次大戦でも遭遇した『大海蛇』によるものと、現在では断定されている。


 ――ここで錯誤が発生した。


 1940年、倫敦近郊。

 奇しくも、1899年に世界で初めて『怪獣』が出現したこの都市で、人類は『何か』に遭遇した。

 『何か』とは?

 この60年余り多くの研究者が、その正体を探ってきた。しかし、依然として不明(※6)である。

 にも関わらず、皆がその存在を恐れている。

 出現したのは一頭だった。

 形は『大顎』に酷似していたらしい。決定的に違ったのはその脅威度だった。

 既に、『大顎』の存在は認知されていた為、当時の軍首脳部は直ちに部隊を派遣。即時殲滅を命じた。兵力は歩兵一個中隊。

 一頭相手ならば、過剰。

 少なくとも、この時点ではそう判断されていた。


 ――しかし、飛び込んできたのは悲報だった。


 中隊は壊滅。救援要請を泣きながら懇願していた兵士が喰われる音を聞き、司令部は容易ならざる事態が起きつつあることを認識した、と伝わる。 

 予備部隊は次々と投入されたが――都度、連絡は途絶えた。僅か一日の間に、死亡した兵士の数は千数百名以上。しかも、生存者はいない。

 紛れもなく異常事態だった。普通の『大顎』なら、このような事態になる筈がない。

 この段階に及び、陸軍は空軍及び海軍に支援を要請。

 だが、戦時下において『怪獣』と暇はない、と断られた陸軍司令の懊悩は察するに余りある。 

 『何か』がいる。

 それは恐るべき脅威である。このまま倫敦に達すれば悲劇となるだろう。 

 

 決断されたのは、近辺一帯への重砲一斉射撃であった。


 米国からの支援物資に物を言わせたそれは、約半日にも及んだとされている 

 殺した筈であった。今までの『怪獣』ならば。

 ――が『何か』はそれに耐え、重砲陣地を蹂躙。現代の我々がよく見る、重砲を咥えている写真はこの時、撮られたものだ(※7)。

 事態が容易ならざるものであることを突き付けられた陸軍司令部は、海空軍司令部へ状況を説明。

 ようやく戦艦群が動き出し、重爆編隊の総動員が実施されたものの、既に『何か』は忽然と姿を消していた。

 英国が、第二次大戦中、対独仏全面戦に極めて消極的だったのはこの事件があったからこそ、と言われている。

 私見ではあるが、この生物は遠くない将来、現代を生きる我々の目の前に現れるであろう。早急な対策が必要である。


※1.

1935年以降、偶発的に衝突したロシア軍と満州軍との間に起った戦争。大日本帝国とアメリカ合衆国の全面支援を受けた満州が圧勝し、イルーツク以東のシベリアを割譲させた。


※2.

1938年、国境線争いから満州と中華民国が大規模衝突に至り、満州軍と同盟国として参戦した大日本帝国軍が、僅か三ヶ月で中華民国を全面降伏へ追い込んだ事変。満州国は内モンゴル及びモンゴルを得た。


※3.

当時の最新鋭機である零式艦上戦闘機は片端から英国へ送り込まれ、多数の独仏機を撃墜。多くの撃墜王が生まれた。 


※4.

装甲空母に改装された「赤城」「加賀」、中型空母「飛龍」「蒼龍」を主力とする、当時世界最強の機動部隊。


※5.

この作戦により仏海軍は半壊。建造中の新鋭戦艦もドック内で喪われ、以後、ただでさえ劣勢な海軍戦力は、日英絶対優位に傾いた。


※6.

赤ペンで『怪物』『人類にとって、余りにも脅威』との走り書きあり。


※7.

2030年時点での判定では『大顎:成虫』とされている。なお、この同一個体が2024年東京においても確認されている。

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