1920年 羅馬『大白蚕』
イタリア王国は、この時期、政治的混乱に巻き込まれていた。
1918年、独逸第二帝国が内部崩壊する形、世界初の世界大戦は終結し、表面上、欧州から戦火は去っていたが、イタリアの参戦理由であった『未回収のイタリア』(※1.)の全てを回収出来ず、国内経済は戦後不況により停滞。
既存政党に嫌気がさした民衆は、一人の男が率いる政党へ期待を寄せつつあったからだ。
ベニート・ムッソリーニ。
この名を知る者は、余程、イタリア史に精通していると言っていいだろう。今日の世にあって、第一次大戦前から、戦後すぐに大きな影響力を持っていた男、と答えられる者は少ない。
彼こそ、誰あろう、後に世界を再度の戦火へ叩きこむこととなる、アドルフ・ヒトラー、その先駆けなのである。
残された当時の様々な資料から推察するに、おそらく彼は後数年で、イタリアの政治を牛耳れた。そして、その政治思想から考えて、独裁制に近い政体を選択したことも容易に想像出来る。
そうなった場合、イタリア王国は、第二次大戦に参戦していた可能性は極めて高かっただろう。現実には、かの国は、厳正中立により大きな利益(※2.)を得たわけだが……それを左右したのも、また『怪獣』だったのだ。
1920年も終わろうとする頃、羅馬の市民達が騒ぎ始めた。
『コロッセオが白い糸らしき物に覆われている!』
『繭の中に何かが動いているっ!!』
『多くの人が取り込まれた! 早く、救ってくれっ!』
『警官じゃ、駄目だっ! 軍だ、軍の出動を要請するっ!』
その日、倫敦、奉天、巴里を経験した人物が、羅馬にいたかについて、歴史は沈黙しているが、いたとするならば、この後の惨劇は容易に想像がついたことだろう(※3)。
イタリア政府の対応は案の定、遅れた。市民達や現場に急行した警官達からの訴えは無視され、上層部は平時体制を維持。かつての倫敦、巴里で起きた事の再来だった。
そんな中、ムッソリーニは、自らの私兵を率い、コロッセオへ向かったとされる。
彼が何を考え、そんな行動をしたのか、解明するのは不可能であろう。彼とその同志達は、この日、その悉くが死亡しているし、残った同志達の中に、ムッソリーニと個人的に親しい人物は皆無。生き残り、現在でも存命中の親族の言では「ただただ、救う為だ」との話だが、それは話半分に聞いておくべきだろう。
ただし、公的機関の動きが鈍い中、彼は少なくとも勇敢ではあった。何しろ、糸に絡まり、もがいていた警官の数名は救出されてもいるのだ。その際「これらの生物(※4)を殺すのは、小火器では不可能だ!」と、現場で叫んだともされている。
その後の話は、つとに有名であろう。
コロッセオから羽化した巨大な白い蛾は、遥か羅馬帝国時代の遺跡を粉々にしながら、羅馬上空を飛翔。当然、その場にいた、ムッソリーニとその同志及び私兵達は死亡している。
人を直接襲いこそしなかった(※5)ものの、ようやく迎撃に出た空軍機多数を撃墜。最後は、港まで誘導されたところを、戦艦群の一斉砲撃で仕留められたが、都市に与えた被害は甚大そのものだった。
ただし、この事件後イタリア王国は、英仏独とは異なる対応とった。すなわち、世界へ向けて、事件を全て公表したのだ。
『――この生物を我が国の市民達はこうよんでいる。『怪獣』と』
※1.イタリア統一時に、版図に含める事が出来なかった旧ヴェネツィア共和国領。
※2.武装中立を宣言しながら、大戦末期まで独逸へ膨大な物資を売り、欧州各国が荒廃、没落する中で、最大の利益を得、戦後欧州世界において衰退した英国をも超える地域大国へと躍進を果たした。結果、戦後各地で勃発した対『怪獣』戦争の矢面に立たされることとなったのは歴史の皮肉の一つと考えられているが、同時にその不屈の戦いぶりは、『羅馬帝国の偉大な後継者である事を証明した』と歴史家達から激賞されている。東欧・中欧諸国、北アフリカ失陥後、四方を『怪獣』の群れに囲まれ、逐次攻勢を受けながらも、イタリア王国は戦い続け、多くの人的資源脱出の防波堤となった。2009年の巴里失陥後は、羅馬は
※3.赤ペンで三重線。余程、強く引いたのか、一部、頁が破れている。
※4.今日の世では『大白蚕』と称される、飛翔能力を持った怪獣。後に出現し猛威をふるった飛翔怪獣群の中にあって、そこまで好戦的ではなく、個体数も少ない、とされるが、戦闘能力は極めて高く、超大型空母『瑞鶴』『翔鶴』を主力とする日本海軍空母機動部隊が80年代後半、印度洋上で交戦。僅か十数頭相手に、艦載機隊の半数を喪失し、一頭も仕留められなかった事例がある。この後、日本軍は、航空機を超機動:重武装の両機種整備へ突き進んだ。
※5.『白大蚕』が、怪獣の中では比較的、危険度が高くはない、と誤断されたのはこの性質にある。事実、この種は直接、人を襲う事こそ稀であるものの、飛翔物体に対して、極めて高い敵対行動を取る。また、広範囲にまき散らされる鱗粉は、後年の研究により、肺癌その他の気管支系疾患を誘発する、と断定されている。
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