第3話 マンション

 そして美果は、何とか家にたどり着いた後、着替えもせずに、家にあったウィスキーを開け、ダブルで飲み始めた。

 しかし…。

 今日のウィスキーは、全く味がしない。

 そのウィスキーは、今から28年前に作られた、ウィスキーだ。美果は、直樹に年齢を訊き、直樹が美果より2つ年上の、28歳であると知った後、少し奮発して、

『このウィスキーは、直樹と一緒に成長して来たものだから、直樹と一緒に、直樹の誕生日に、飲みたいな。』

と思い、そのウィスキーを買ったのであった。

 ちなみにそれはヴィンテージ物のウィスキーで、お互いにウィスキー好きの美果と直樹なら、細かな味の違いも分かり、絶対においしい、ものであった。

 それなのに…。

 大好きなお酒の味も、その時の気分や、一緒に飲む人によって、左右されるものであるということを、美果はこの時、まざまざと思い知らされた。

 『でも、今日は飲まなきゃやってられない…。』

美果はそう思い、そのウィスキーを、ダブルを超え、どんどん飲み始めた。これは、世間一般に言う、「やけ酒」であるが、この時の美果には、そんなこと、また自分の健康のことなど、どうでもよかった。とにかく美果は、自分の悲しい気持ちを紛らせ、ぽっかりと空いた心の穴を埋めるように、ウィスキーを煽り続けた。

 またその頃、家の外では、降り出した雨足が、さらに強くなっていた。以前美果は、

「私、今日みたいな強めの雨が、全部お酒でも、全然平気だよ!ああ、この雨を浴びる大地のように、私もお酒、いっぱい浴びたいなあ…!」

と、美果流の(半分以上訳の分からない)詩的な表現を語っていたが、その日の天気は、まさにそのようなものであった。しかし、それは美果にとって、楽しいお酒ではなく、悲しみに包まれた、お酒であった。

 そして美果は、美果にしては珍しく酔いつぶれ、化粧も落とさず、そのまま眠りについてしまった。


 『あ、頭が、痛い…。』

翌日の土曜日、美果は、激しい二日酔いに襲われた。普段はお酒にめっぽう強い美果は、今までこのような経験がなく、そのため二日酔いの症状に、どう対処していいのかが、分からなかった。

 『とりあえずメイク、落とさなきゃ…。』

美果は、1日メイクをそのままにしておいたため、また自分の目から溢れた涙のため、完全に、化粧崩れしていた。そして、そんな自分の顔を鏡で見て、美果は、少し吹き出しそうになった。

 『何笑ってるんだろう、私。バカみたい。』

しかし、その笑顔も空虚なもので、美果は心の底から、笑顔になることはできなかった。

 そして美果は、その日は一歩も外に出ず、家の中で、1日を過ごした。

 またその間、美果は直樹に電話をかけ、話をしようとしたが、直樹は美果からの電話に出る気配はなかった。


 「おはよう、美果!」

「おはよう…。」

美果が直樹に振られてから最初の月曜日、美果は、川北園にいつものように、出勤していた。

 しかし、いや案の定、美果に元気はない。美果は土曜日の後の日曜日も、(いつもアクティブな美果にしては珍しく)1歩も外に出ずに家で過ごし、この日、月曜日が久しぶりの、家の外に出た日であった。

 「美果、今日は元気ない?どうしたの?」

美南がそんな美果の様子を心配して、こう美果に尋ねた。

 「ううん、何でもないよ。」

美果は美南に、素っ気ない態度でそう答えた。また、その日は快晴の天気であったが、美果の周りには、どんよりとした雲が立ちこめているようであった。

 「いや、でも…。」

「だから、何でもないって言ってんじゃん!」

なおも美果を心配して話しかけようとする美南に、美果は強い口調で、こう言い放った。それは、プライベートで嫌なことがあっても、しっかりと気持ちを切り替え、仕事に私情を持ち込まないタイプの美果にしては、珍しい行動であった。

 「ごめん、美果…。

 でも、私、美果の友達だから…。

 何かあったら、泣き言言って、いいんだよ?」

「あ、ご、ごめんね…。」

美南のこの発言で、美果は我に返った。

「…分かった。じゃあとりあえず仕事終わったら、全部話すから。

 今週も、頑張ろうね。」

「そうだね!頑張ろうね!」

美南は美果の気丈な発言を聞き、少しホッとすると共に、

『もしかして、直樹さんとの間に、何かあったのかな?』

と勘づき、美果のことが心配になった。


 しかし、そんな美南の心配をよそに、また美果の、朝の棘のある態度が嘘であるかのように、美果のその日の仕事ぶりは、いつもと同じように、完璧であった。美果は、木村祐太君と他の利用者がトラブルになりそうになった時は、それを止めに入り、

「分かりました。それは、どっちも悪いね。だからちゃんと2人とも、謝ろうね!」

と祐太君ともう1人の利用者に声かけし、場を収めた。

 また、昼食時、自分の力だけでの食事ができない利用者の、食事介助に入ったり、午後からいつも利用者がしている軽作業の完成品を、納品先に公用車で持って行ったりと、美果は勤務時間中、精力的に動いた。

 しかし、

『美果、今日もいつも通り、いやいつも以上に働いてるけど、何か見てて、痛々しいな…。』

と、美南はいつもと同じように見えて、いつもと違う、美果の様子を気にかけていた。

 実際美果は、能動的に仕事をし、仕事に没頭することによって、直樹との件でできた心の傷を、紛らせようとしていた。それは、自分の心からの出血を包帯で無理矢理縛り上げ、止めているようなものであった。

 

 「さ、17時15分だ。今日もお疲れさま、美果!」

「お疲れ…。」

「ところで美果、今日これから時間、空いてる?

 ご飯、食べに行かない?」

「…分かった。じゃあ、行こっか。」

「じゃあ、近くのファミレスでいい?」

「いいよ。」

こうして、美南は美果をご飯に誘った。


 そして美果は、金曜日にあったこと、直樹との一件を、全て美南に、話した。

 「どうしよう美南。私、振られちゃった。もう、私どうしたらいいか、分かんないよ…。」

「そっか。辛いね。

 …でも、その、直樹さんの振り方、いやごめん、言い方、何か気になるよね?

 『僕たちは、別れないといけない。』

なんて…。

 何かまるで、

 『まだ美果のことが好きだけど、別れないといけない。』

…みたいなニュアンスだよね?」

「そうかな…。

一応、直樹のその言い方、私も気になったから、何度か直樹に電話したんだけど、直樹全然、出なくって…。

 どうしたらいいのかな?」

 「そうだなあ…。

 あっそうだ!美果って確か、直樹さんのマンションの場所、知ってるんだよね?」

「うん、1回行ったから、覚えてるよ。」

「じゃあさ、直樹さんのマンションに、押しかけちゃいなよ!

 それでもう1度、直樹さんとちゃんと話をして…ね。

 それで無理だったら、仕方ないけど…。

 とりあえず今のままじゃ、納得できないもんね!

 うん、それがいいよ!直樹さんも何か事情があって、美果にそう言っただけかもしれないし…。」

 美果は、美南のアドバイスを、素直に受け入れた。

「そうだね!ありがとう、美南!

 何か、美南と話してたら、私たち、もう1度うまくいくような気がしてきた!

 美南に直樹とのこと話して、本当に良かった!ホントに、ありがとね。

 あと、朝冷たい態度とっちゃって、ごめんね。」

「いいのいいの!気にしないで。

 でも、美果が少しでも、元気になってくれて、良かった~!」

「何でそこ語尾伸ばすの?」

「いいじゃん別に!」

こう言って2人は、笑った。それは、美果にとって、久しぶりの心からの笑顔であった。

 「じゃあ、善は急げだね!

 早速明日の夕方、退勤後、直樹さんの家へ行ってみれば?」

「分かった。そうする!」

 こうして、美果は1人で、直樹の住むマンションに行くことを決めた。


 次の日、美果は退勤後の、17時15分以降、直樹のマンションに行くために、着替えをしていた。その日、美果は直樹に逢うために、仕事着からベージュのコートに、ピンクのワンピースを合わせ、また茶色のブーツに履き替え、女の子の勝負服に、「武装」した。

 そして美果は、美果の職場からは少しだけ距離のある、直樹のマンションへと向かうため、地下鉄の駅まで、歩き始めた。

 その道中、また美果が直樹のマンションに向かう際の電車の中、美果は、地下鉄の駅で出会った、直樹とのことを思い出していた。

 

 ―「すみません。突然で、びっくりするかもしれませんが…、

 僕、あなたともっと、話がしたいです。

 あなたの連絡先、教えて頂いても、よろしいでしょうか?」―


 『思えばあの時、直樹と出会ってから、直樹の顔は、初めて出会う女の人に声をかける緊張感だけじゃなく、ある種の悲しみ、大げさかもだけど悲壮感も、漂わせていたような気がする…。

 それで、私と逢って話をする時はいつも、その悲しみが、直樹の心の中にあった、って言ったら大袈裟かな…。

 もしかして直樹は、私たちがこうなることを、始めから分かってたのかな?

 そんなこと、直樹に訊いてみないと分かんないけど…。』

美果は、そんな物思いに耽りながら、直樹のマンションの、最寄駅に着いた。


 その日も、1月の寒い日であった。地下鉄の駅を出て、歩き始めた美果の口からは、白い息が漏れる。そして美果は、最初は歩いていたものの、途中からはやる気持ちを抑えきれなくなり、ヒールの高いブーツを履いているにも関わらず、小走りになっていた。

 そして美果のブーツからは、「カッカッ」と歩道のアスファルトを叩く音がし、その音はさながら、好きな人のもとに行くお姫様が乗った馬車の、馬の足音のようであった。

 そして…、

 美果は、直樹のマンションに、やって来た。

直樹の部屋は、マンションの7階で、美果はエレベーターに乗って、直樹の部屋へと向かった。(待ちきれない美果は階段を使うことも考えたが、エレベーターを待った方が結局は早いと思いとどまり、はやる気持ちを抑え、エレベーターの「上へ上がる」方のボタンを押したのであった。)

 その後、美果は7階に到着し、直樹の部屋の前に、着いた。そして美果は、直樹の部屋のインターホンを押したが…、

 直樹は、出て来る気配がない。

『直樹、まだ帰ってないのかな?今日は平日だし、職場で残業してるのかもしれない。

 …うん、ちょっと待てよ?』

美果は次の瞬間、部屋の異変に、気づいた。そして、部屋のドアを、開けてみようとした。

 するとドアに鍵はかかっておらず、美果はドアを開け、部屋の中を見た。

 しかし…、

 部屋の中は空っぽで、家具はおろか、何の荷物も、残っていなかった。

『直樹、もしかして…。

 このマンション、引き払っちゃった?』

美果はその瞬間、直樹に振られたショックと共に、「マンションを引き払う」ということを伝えられず、勝手にいなくなってしまったという直樹の行動に対するショックも、受けることになった。

 そして美果は、道に迷った子が、ふらふらと知らない店に入るように、そのもぬけの殻のマンションの部屋の中へ、入っていった。その部屋には、前回泥酔した直樹を送った時とはまるで異なり、何の生活感も、残っていなかった。

 『これじゃ、直樹に逢えない…。

 直樹、電話にも出ないし…。』

美果が途方に暮れていると、「ブッ、ブッ」という、美果の携帯の着信音が、(マナーモードであるにも関わらず)がらんどうになったその部屋の中に、響いた。

 『ちょっと、こんな時にニュース?』

美果は、携帯のバイブの種類で、それがニュースなどの情報を定期的に伝えるものであると、分かった。そして、美果はそれをほったらかしにしていたが、

『一応、既読にしておいた方がいいかな?

 …まあ、どうでもいいけど。』

と思い直し、携帯をポケットから取り出した。

 そして、美果は携帯のニュースを、読み始めた。次の瞬間、美果は、あっと声をあげそうになるほど、驚いた。


 ―【未解決事件】

 山北(やまきた)ニュータウン一家殺人事件

 犯人は未だ逮捕されず、逃走中。

 詳細:,08(H20)、4、1 山北ニュータウンに住む、

 高浜良幸(たかはまよしゆき)、和子(かずこ)、直樹(なおき)さん一家が、殺害された事件。現場は荒らされており、警察は、強盗目的の殺人事件として、捜査中。―

 

 『これ、どういうこと?

 2008年、平成20年の4月1日に、直樹の一家が、殺された?

 じゃあ、私の出会った、直樹って誰?

 私、幽霊と、付き合っていたってこと?』

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