第2話 別れ
「すごいじゃん美果!かっこいい~!」
「うわ、美果さん、マジですげえ!」
美果は、新年会が終わって数日後の仕事帰り、行きつけの柔道の道場に、美南、哲人の2人を、招待していた。
そして、美果は2人の前で、柔道の技を披露した。
美果の技は、華奢な体の割に豪快で、柔道を見慣れていない美南、哲人の目には、さながらオリンピック選手の技のように見えた。また、この、女の子っぽい美果から繰り出される男性顔負けの技が、美果の「ギャップ」であり、魅力の1つになっている、美南はそう思った。
「いや~それほどでも、あるかもね!」
「…って美果さん、それ自分で言うかよ。」
「冗談冗談。
でも、やってみたら意外と簡単だよ!
そうだ、2人もせっかくだから、やってみなよ!
ここの道場、体験だけでもOKだからさ!」
「まあそういうなら…やってみるか、美南?」
「そうだね哲人、面白そう!」
「そう来なくっちゃ!
あっちに男性用・女性用の更衣室があって、柔道着もきれいなのが置いてあるから、着替えて来なよ。」
「は~い美果!」
「分かったよ、美果さん。」
こうして美南、哲人は、柔道の体験を、することとなった。
「そういえばさ、美果って柔道習ってるんだって?」
退勤時刻になったその日、(美果が美南たちを柔道の道場に連れて行く前)美南は美果に、こう話しかけた。
「うん、習ってるよ。
今日もこれから、稽古があるんだ。」
「へえ~そうなんだ!
…私最近、格闘技にハマってるんだ。だから、柔道も…興味あるかも!」
「へえ~美南が格闘技って、意外だね!
それなら、うちの道場に、遊びに来なよ!」
「えっ、いいの?」
「もちろんですとも!」
「ありがとう美果!
あと、まあハマってるって言っても、ちょっとテレビで見てるだけなんだけどね。」
そう言いながら美南は、美果の前で破顔した。どうやら、前から美南は柔道の道場に、行きたかったらしい。
「じゃあ、哲人も来るよね?」
美果の招待を受けて上機嫌になった美南は、すかさず哲人も誘った。
「えっ、いや、俺は…。
…しゃあねえな。美南の頼みだし、ついて行ってやるよ!」
哲人は、少し嫌そうな顔をしたが、コンマ数秒のうちに気持ちを切り替え、こう答えた。
「さすが美南の彼氏さん、優しい~!」
「そ、そんなんじゃねえよ。」
「え、美南のためじゃないの?」
「いや、そ、それは…。」
「きゃあ~哲人くん恥ずかしがってる!かわいい~。
まあ冗談はこれくらいにして、行きましょうか!」
美果は(いつものように)哲人と美南を冷やかしながら、柔道の道場へ2人を案内した。
そして、美南、哲人の2人はまず柔道の礼法、そして簡単な受身の仕方を習い、次に、簡単な技のかけ方を学んだ。美南は、技のかけ方に苦戦していたが、哲人の方は、ある程度練習するとコツを覚え、少しの技なら、かけられるようになった。
「それにしても哲人くん、上手だったねえ~!」
美果は、その日の稽古終了後、哲人にこう語りかけた。実際哲人は、美南と変わらない、男性にしては少し低い身長から、大きな投げ技を、短期間で習得し、繰り出していた。
そして、哲人と美南は、少し柔道の技などを体験した後、美果の稽古が終わるまで、道場の端で稽古の見学をしていた。
そして、その日の稽古は夜に終わり、美果たちが帰る時間、辺りはすっかり、暗くなっていた。またその日は1月ということもあり寒く、美果・美南・哲人の3人は、コートを羽織っていた。
そして、美果のコートは、柔道の道場には似つかわしくないピンク色のもので、
『こんな格好で道場に行っていたら目立つし、男性の参加者からも、モテるだろうなあ…。』
と、美南は声には出さずに、密かにそう思った。
「いや俺も、初めての割にはよくできたな、って思ったよ。」
「何それ調子乗りすぎ!
でも哲人くん、かっこ良かったよ。
美南も、これで哲人くんのこと、惚れ直したんじゃない!?」
「そ、そんなこと、ないよ…。」
「じゃあ美南は、哲人くんのことかっこいいって、思わなかったの?」
「いや、そ、それは…。」
美果は、ことあるごとに、哲人・美南のカップルを冷やかしていた。(この時の美果は、柔道をやっている時とはまるっきりモードが異なる、猫撫で声のモードであった。)
「ごめんごめん、冷やかしはこの辺にしておきますか。」
「…でも、美果ってホントにすごいね!
ところで美果、美果はどうして柔道を、習おうと思ったの?
何か普段の美果からは、想像できないっていうか…。」
「う~んそうだなあ…。
何か私、体が細いじゃん?だから、護身用に、って、始めたんだけど…。
やってみるとこれが面白くて、すぐにハマっちゃった!いい汗かいて運動にもなるし…ね!
美南も、これから柔道、続けてみなよ!」
「え、いや、私はいいよ…。
格闘技は、見る専門で…。」
実際美南は、興味はあるものの運動は全体的に苦手らしく、柔道の稽古でも、あまりうまく技をかけられないようであった。
「そっか~ちょっと美南には難しかったかな?」
「う、うん…。」
「でも哲人くんは、続けるよね?」
「いや~美果さんには悪いんだけど、俺、やっぱ格闘技より、球技の方が好きだから…。」
「ちょっと~それじゃあ美南が悪い奴に襲われたら、どうするの?」
「その時は…全力で美南を守るよ。」
哲人は、美果の冗談交じりの質問に、意外なほど真面目に答えた。
「ちょ、ちょっと哲人、恥ずかしいじゃん!」
「え、あ、ごめん…。」
「…何かごめんね。哲人くんがそんなに真面目に答えるとは、思わなかったから…。
冗談だよ。2人とも、気にしないでね。」
美果は、哲人の予想外の答えに虚をつかれ、そう答えるのがやっとであった。
「あ、見て見て!星がきれいだよ!」
美南が話を変えたいとばかりにそう、哲人、美果に語りかけた。
「ホントだ、きれい~。」
「そうだな。」
そこには冬を象徴する、オリオン座、そして冬の大三角が、瞬いていた。
「何かあの星たちって、こんぺいとうみたいだね!」
美果がそう言うと、
「何かそれ、ロマンチックじゃない…。」
と、美南がその例えに苦言を呈した。
「え~でも良くない?
それに、ちょうど運動もして、お腹もすいてきたし…。」
「いやそれとこれとは話が別だろ。」
哲人も冷静に、そう美果に言った。
「でも~。
そうだ、『オリオン座、食べてみたい。』ってタイトルで、新しい詩、書けないかな?
ちょっと、『星空がこんぺいとう』ってだけじゃ、オリジナリティがない気がするし…。」
「えっ、それ、止めた方がいいんじゃ…。」
「やっぱり詩に関しては、『安定の美果』だね…。」
哲人・美南は、美果にそう言った。
そして、そんなおいしそうな(?)星空の下、3人は
「また明日、仕事がんばろうね!」
「うん!」
「おう!」
と声をかけ合い、家路についた。
「美果、大事な話があるんだ。確か美果って、土曜日は休みだよね?逢えない?」
「何々、大事な話って?気になるなあ~。」
「それは逢ってから話すよ。とりあえず…、」
「分かった!じゃあ、金曜日の夜はどう?忙しい?」
「え、いや、大丈夫だけど…。
美果は忙しくないの?」
「私はその日は定時で仕事が終わりそうだから、大丈夫だよ!
じゃあ、金曜日の6時に、いつもの駅前で、待ち合わせね!」
「分かった。僕も金曜日は定時で仕事、終わりそうだから…。」
「忙しいのにごめんね。じゃあ、また金曜日ね!」
「じゃあね!」
美果の携帯に、木曜日の夜、直樹から電話が入った。
そして美果は、直樹と逢う予定の金曜日、いつものように川北園に出勤していた。
「へえ~この後美果、直樹さんに逢うんだね!」
「そうなんだ!だから、今日は着替えに化粧直しのセット、ちゃんと持って来たんだから!」
美果はその日の昼休みも、いつものように美南と話をしていた。
「でも、大事な話って、何だろう?」
「そりゃあ~もう、大事な話って言ったら、決まってるじゃん!」
「決まってるって、まさか…。」
美果の予想を、美南は容易に、想像することができた。
「ああ~私、何て言われるんだろうなあ~。
ちょっと回りくどい感じかな?それともキザな感じかな?それとも…、
『結婚してください!』
って、ストレートな言葉かな?」
「け、結婚って…。
いくらなんでも早くねえか?」
たまたま美果と美南の話が聞こえてきた哲人は、美果たちにそう答えた。
「ちょっと~今日は哲人くんには話してないよ!
これは、女の子同士の大事な話なんだから…。」
「わ、悪かったよ。」
そう言われた哲人は、気まずそうに職員室を出た。
「でも、私も思うよ。さすがに結婚は、早いんじゃないか、って…。」
「いいのいいの!恋は、スピードじゃなくて、タイミングなんだから!」
美果は美南の懸念にも、気にする様子はない。
「ああ~でもドキドキするなあ~!」
「た、確かに…。」
「それと、婚約指輪、どこのブランドかなあ~。」
「え、そんなことも気にするの?」
「当たり前じゃん!女の子にとって、特別な指輪だよ!
でも直樹のことだから、とってもおしゃれな指輪なんだろうな~!」
「そ、そうなんだ…。」
美南は美果の指輪発言に、少し呆れながらも、そう答えた。
「でも午後からの勤務も、ちゃんとしないとダメだよ!
楽しみは後にとっといて、気持ち切り替えて、ね!」
「分かってますって!私が手、抜くと思う?」
「ううん、思わないよ!念のための確認、ね!」
「はい!」
美果は、しっかりした様子で、美南に返事をした。実際美果は、普段しゃべっている時は、猫撫で声を出したり、誰かを冷やかしたり、冗談を連発したりしているが、仕事に関しては、心のスイッチを入れ替え、集中するタイプの性格であった。また、美果は気がよく利き、周りをよく見ているだけでなく、パソコン操作や計算など、事務系の仕事も得意で、他の職員がパソコン操作等で分からないことがあっても、
「ああ、これはここを操作して、こうすると、うまくいくよ!」
とアドバイスもできる、しっかりした支援員なのであった。
その日の午後からの業務も、特にいつもと変わりなく、過ぎていった。
ちなみに、川北園では、各週における、「生活支援プログラム」担当職員の割当が、順番に回って来る。これはその週における、レクリエーションなどの「生活支援プログラム」を、立てる職員のことだ。そして、その週の担当職員は、例えば、
月曜日:午前…ペーパークラフトタイム(折り紙や画用紙を使って工作を行う。)
午後…みんなで紙芝居を聴く。
火曜日:午前…ペーパークラフトタイム(月曜日の続き)
午後…ハンドベルタイム(ハンドベルで、冬の曲を演奏する。)
水曜日:午前…ペーパークラフトタイム
午後…スポーツレクリエーション(柔らかいボールを使い、簡単な運動を行う。)
木曜日:午前…ペーパークラフトタイム
午後…歌を歌おう(童謡や唱歌などを、みんなで歌う。)
金曜日:午前…ペーパークラフトタイム
午後…リラクゼーションタイム(ヒーリングミュージックを聴きながら、リラックスする。)
などの、計画を立てなければならない。
そして、担当職員は、ただ計画を立てるだけでなく、その計画を行う際の注意事項についても、計画書に書かなければならない。
例えば、
「ペーパークラフトタイムの際、ハサミを使用するので、利用者が手を切るなどの怪我がないよう、十分配慮しなけれなならない。」
また、
「スポーツレクリエーションの際、ボールが顔にぶつかるなど、怪我につながるような事態を防がなければならない。」
さらに、
「『歌を歌おう』の際、恥ずかしがって歌うのを嫌がる利用者もいるため、参加利用者が歌いやすいよう、雰囲気作りを行う。(ただし、無理強いはしない。このプログラムに参加しない利用者のため、別室で音楽を聴くなどのプログラムも同時に行う。)」
などである。
また、この「生活支援プログラム」には、園で受注している作業等、プログラムとは別の活動もあるため、利用者全員が、参加するわけではない。(基本的に、各利用者がこのプログラムをするか、その他の活動をするかを選べるのであるが、作業の進捗状況などの都合により、
「今日は○○さんは、作業の方に入ってね。ごめんね。」
と声かけし、職員側がその日の日課を指定することもある。)
その週は、美果が担当職員で、金曜日の午後は、「リラクゼーションタイム」であった。そして美果たち職員は、利用者の過ごす作業室にマットを用意し、寝転んでヒーリングミュージックが聴けるように、準備をした。(ちなみに川北園では、金曜日の午後は、利用者も1週間の疲れが出ていると思われるため、「リラクゼーションタイム」をすることが多い。)
「さ、準備ができましたよ!みんな、音楽を聴きながら、ゆっくりしてくださいね。」
美果は、利用者にこう呼びかけた。そしてヒーリングミュージックのCDをセットし、利用者が音楽を聴ける態勢を整えた。
その作業をしながら美果は、
『今週ももうすぐ終わりだな。今週のプログラム、利用者のみんなは喜んでくれたかな?』
と考え、美果の顔は、(自分でも気づかないうちに)優しい顔になっていた。(そのことを他の人が指摘すると、
「そんなことないよっ!」
と、美果にしては珍しく恥ずかしがって全否定するであろうが。)
そして、美果たち職員は、利用者の状況把握をしながら、その日の「連絡帳」を、書き始めた。
ちなみに、この「連絡帳」というのは、川北園の職員と、利用者の保護者との間で、連絡事項などの情報を共有するためのノートのことである。川北園の職員は、毎日、その日の利用者の様子を、この「連絡帳」に記載する。
例えば、
「今日の木村祐太さん(川北園の利用者)は、午前中、(業者からの受注の)モーターの部品作りの作業を、されました。この作業を祐太さんは気に入っておられるようで、時間いっぱい集中して、正確に作業をされていました。午後からはモーターの作業が一段落したため、リラクゼーションタイムで、ヒーリングミュージックを聴きながら、マットに寝転び、ゆっくり過ごされました。」
また、
「今日の○○さんは、午前中はペーパークラフトタイムで、折り紙を折って過ごされました。(○○さんが折った作品は、連絡帳に挟んでおきます。)そして午後からは、「歌を歌おう」ということで、童謡・唱歌をみんなで歌いました。ただ、午後の歌の時間に、周りがうるさい、と感じられたせいか、他の利用者につかみかかろうとする行為が見られました。(すぐに職員が気づいて止めに入ったので、他の人に怪我はありませんでした。)その後も○○さんは気分が落ち着かない様子であったため、別室で、アニメのDVDを見て、残りの時間を過ごされました。」
などである。
そしてこの「連絡帳」を職員は利用者が帰園する前に利用者本人に渡し、保護者に見てもらうのであった。また、保護者によっては、利用者の家庭での様子などをこの「連絡帳」に書いてくださる方もおり、それも参考にして、美果たち支援員は利用者の支援にあたるのであった。(そういった意味で、この連絡帳は、支援員と保護者とをつなぐ、便利なツールである、と言える。)
この「連絡帳」を、ともすれば「忙しい」などの理由で、職員は適当に書いてしまいがちであるが、美果は、この「連絡帳」の記入に関しても1度も手を抜いたことがなく、その日の利用者の様子を、毎回克明に書くのであった。
そしてこの「連絡帳」は、本来は利用者の「生活支援プログラム」が終わってから、利用者が帰園するまでの時間に書くのであるが、この日のように職員の手が少し空く時は、先に書いてしまうことも、あるのであった。
「最近祐太さん、こだわりも減ってきているし、作業はしっかりしているし、落ち着いてるよね。」
「そうだね…。」
美果たちは、少し利用者に関する話をしながら、また利用者の状況をしっかり把握しながら、「連絡帳」を書いていた。
そして、
「さあ、リラクゼーションは終わりですよ!みんな、帰る準備、しようね!」
美果は午後のプログラムが終了する3時になると、利用者にこう声かけをし、帰る用意を促した。
「よし、今週の勤務も、終わりだ~!」
美果は、勤務終了の午後5時15分に、こう言った。
「今週もお疲れ様だね、美果!
じゃあこの後、…直樹さんと逢うんだよね?」
「うん、何かちょっと、緊張してきたな…。」
「そっか。頑張ってね、美果!」
「ありがとう、美南!
じゃ、着替えて行ってくるね!」
美果はそう言い、園の更衣室を借りて仕事着から私服に着替え、直樹との待ち合わせ場所に、向かおうとした。
その日の美果の私服は、冬物の黒のシックなワンピースの上から、白のコートを羽織り、黒のヒールが高めのブーツを履く、というものであった。(黒のワンピースは、茶色く染めた美果の髪の色を際立て、「大人の女性」を演出していた。)
そして美果は着替えを終え、
「お先に失礼します。お疲れ様でした!」
と元気よくあいさつし、川北園を出た。また、川北園から、直樹との待ち合わせ場所までは近かったので、美果はすぐに、待ち合わせ場所に着くことができた。
「お待たせ直樹!待った?」
「いや、僕もさっき着いた所だよ、美果。」
美果が待ち合わせ場所の駅前に着いた時、直樹は、既にその場所に着いていた。
「おっ、いつものことだけど、直樹のスーツ姿、決まってますね~!」
「そうかな?」
この日の直樹は、仕事を終わらせてそのまま来た、ということもあり、グレーのストライプの入ったスーツに、身を包んでいた。そして、直樹は背も高く、そのスーツを完璧に着こなし、「デキる銀行員」の雰囲気を醸し出していた。
「そういう美果も、今日もおしゃれだね。美果はその服装で、仕事してたの?」
「もう~そんなわけないじゃん!私は支援員の仕事だから、普段は動きやすい、ジャージに近い制服だよ!
今日は直樹のために、着替えて来たんだから!」
「ごめん、今のは冗談だよ。
そっか、ありがとね。
あと、サラッとドキドキするような台詞、言わないでくれる?」
「分かった!ごめんね。
でも、ドキドキしてくれるならもっと言っちゃおうかな~!」
美果と直樹は、こう冗談を言い合い、笑った。
しかし…、
今日の直樹には、いつものような元気がない。
人の感情の機敏に聡い美果は、そのことを敏感に、感じ取っていた。
『直樹、どうしたんだろう?
もしかして…、プロポーズ前で緊張しているのかな?』
とも考えたが、何かがおかしい、と感じる美果であった。
「じゃあ美果、行こっか。」
「うん!」
直樹・美果は、直樹の予約してあったレストランに、向かった。
「おっ、レストラン到着~!
今日は楽しもうね、直樹!」
「そうだね…。」
美果は自分の心の中に生まれた懸念を隠すように、わざと気丈に振舞ったが、胸のざわつきを、完全に消すことはできなかった。また直樹の方も、そんな美果の様子に気づいたのかどうかは分からないが、やはりぎこちない雰囲気は、消すことができなかった。
「わあ~おいしそうだね、直樹!」
「そうだね…。」
レストランの料理が運ばれて来ても、その空気は、消えることがなかった。
そして…、
「美果、実は…。
今日は美果に、話があるんだ。」
『大丈夫大丈夫。これは、直樹の『男性版・マリッジブルー』だ。
だから…、
気持ちを落ち着けて!』
美果は自分自身にそう言い聞かせ、
「何?話って?」
と、返事をした。
「美果、あのさ…。
僕たち、今日で別れない?」
その瞬間、美果には、美果の周りを含む全ての時間が、止まったように感じられた。それは美果の、いつもなら速い頭の回転も、例外ではなかった。
「え、何!?どういうこと?」
「ごめん美果、もう1度言うね。
僕たち、もうこれ以上、付き合うことはできない。
だから、今日で別れて欲しいんだ。」
美果は、さっきの直樹の言葉、その一瞬で、一気に錆びてしまった思考回路の歯車を、無理矢理回しながら、こう言った。
「え、一体何で…。」
「理由は聞かないで欲しい。
でも、これだけは言えるよ。
僕は、美果と出会って、付き合うようになって、今まで過ごしてきた時間、本当に楽しかった!
これは僕の本心だよ。嘘じゃないよ。
でも、僕たちは別れないといけない。
だから…、
さよなら、美果。
お金はここに置いていくから、この後もディナー、楽しんでね。
じゃあ、僕は帰るよ。」
「ちょっと待って、直樹!私そんなんじゃ、納得できない…。」
美果がそう言うのを尻目に、直樹は、レストランを後にした。
美果は、少しの間、呆然としていた。その時の美果の目には、わざと照明を落とした店内が、それ以上に暗いように、感じられた。
そして、しばらく経った後、美果は何とか自分の気持ちに応急処置をして、レストランの食事には手をつけずに、その場を後にした。
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