日常の狭間の光

鍍金 紫陽花(めっき あじさい)

第1話

 俺には親友がいた。どこに向かうにも同じところで遊び、親公認で仲良しと言われたほどだ。でも、彼女は遠いところに行ってしまった。それが克明に現れる小学生の頃の思い出がある。

 当時の先生はホイッスルを鳴らした。彼女はプールの水に勢いよく飛び込んだ。

 一列になった人たちは追いかけるように手を動かす。でも、誰も届かない速度で、ゴールを迎えた。


「沙月(さつき)。すごーい!」


 彼女の友達はかしましく、先生の注意は聞こえていない。沙月は周りに友達が集まるから恥ずかしそうに微笑んだ。

 その頃の俺はコンクリートに尻の跡をつけたくなくて位置をずらしていた。その努力は彼女の姿で忘れてしまう。夏が近くて目が痛かった。やたら眩しい1日だった。



「優希(ゆうき)。どこ見てんだ?」


 友達の晃(あきら)が俺を呼んだ。慌てて窓から顔をずらす。外は夕暮れで、放課後のチャイムが鳴った。


「誰か傘もってきた?」


 俺含め四人は学校の廊下を横に並んで帰る。正面から向かってくる生徒会の生徒を避けた。


「持ってきてないけど、降るの?」

「降るよ」

「ええ!」

「優希は持ってきたのか?」


 晃が俺の顔を見てくる。そういえば、前に人と話す時は顔を見なくちゃ失礼だって熱弁されたことを思い出した。ほんとに些細で話のネタにはならないけど。


「あるけど、何で」

「病院行くんだろ。ないなら貸そうかなって」

「ありがと」


 晃の隣にいる友人が顔を青くしてた。自転車通だから雨は天敵なのだろう。


「優希さー、コレ見たことある?」


 見せてきたのはある速報で、今日の朝頃にローカル番組が話題にしていた。知らない政治家が女性記者にセクハラしたらしい。


「学歴あってもセクハラだってさ」

「医者でもモテないって噂あるよね」

「世の中、金じゃねえよな」

「んなこと言ってもお前は女子に嫌われてるけどな」

「な"ん"でだよ"ー!」

「あっははは。カイジのモノマネやめろよ」


 靴箱が見えて人がバラける。晃は俺と近かったから横にいて、そういえばと話題を振ってきた。


「沙月って覚えてる?」


 探るような目つきだった。俺は平然と答えるように気を落ち着かせる。沈黙すればするほど答えにくくなった。


「?」

「覚えてないか。いや、その沙月ってやつがさ」


 彼女のことは理解している。将来有望な水泳の選手で、この町と宝として崇められていた。高校はスクールバスに乗って、水泳の有名なところに通っている。さいきん、将来のスターを伝える番組にも出演していた。


「やめるってさ」

「何を?」

「は?」

「沙月、水泳をやめるってさ」

「……え?」


 言葉を失った。隣りにいる彼は履き替えて外に出ようとしている。


「な、何で?」

「先輩のセクハラが露見したってさ。なんでも付き合いをせがんだって」


 腹のあたり、いやもっと上の方が刺されたように痛い。水泳をやめたことと、セクハラされたという現実が苦しめてくる。


「悪い。話さない方が良かった?」

「え、いや。大丈夫 大丈夫」


 すると外はポツポツと降り出す。手のひらに当たった雨粒は大きかった。


「ほら降り出した」

「じゃあ、急ぐから」

「じゃあな優希」


 彼らは駐輪場へ歩いていき、俺は反対の道をたどる。雨の中で傘をさして歩く。雨の音がひどくて周りが聞こえない。傘は頭しか守らずに足が濡れてしまう。


「セクハラ……」


 晃は悪いと言いそうな顔をしていた。その表情にさせた申し訳なさもある。でも、沙月がセクハラされてやめたという情報は打撃を与えた。

 俺は水泳をやめたのが悲しいけど、セクハラされる事実が辛かったのだ。浅ましい人間だからどの程度か気にしてしまう。

 バス停は生徒であふれて、尻尾の方に俺は並んだ。バス停の屋根から外れている。そして、到着したバスは乗り口に泥をつけていた。


 俺の祖母は病院に入院している。もともと、祖父に先立たれ実家暮らしをしていたら不意に倒れたらしい。民生委員が祖母を発見してくれて、入院のち入所という運びになった。

 祖母は大転子部の褥瘡がひどく歩けない。


「次は春日~」病院の近くについた。俺は椅子から降りて、運転手の横に立つ。料金を払い外に出る。雨は以前止まない。


 長い道を歩いたら病院が見えてきた。最近の病院は他をつけぬ雰囲気がない。むしろ、現代アートと言われても頷ける外面をしている。中に入ればアルコール臭いのは変わらない。


「また来たとね」


 ばあちゃんは窓を見たまま俺に話しかけてくる。近くの椅子を掴んでベットの横に置いた。


「そりゃ来るよ」

「勉強しとるか?」

「しとるしとる」


 テレビからイヤホンがたれている。画面は暗くてテレビを見ていなかった。


「カード買ってこようか」

「いらん。そんな見らんでね」

「え、じゃあいつもリハビリだけ?」

「そうよ」

「ふーん」

「でも、あれな」


 ふっと、口で息を吐いた。祖母が面白いことを思いついた癖を披露する。


「テレ朝は同じことしか言わん」

「見とるやん」


 それが俺の日常だった。代わり映えのない日常で何が楽しかったのか話したり、相談する。祖母は耳を傾けて相槌を打ってくれた。


「優希」

「なに」


 俺は祖母が言おうとしていることを知っている。見に来るたびに同じことを繰り返すからだ。そして、嘘を重ねるごとに罪悪感が連なる。


「なあ、恭子は元気しとるや?」

「母ちゃんは元気にしてる」

「なんか言ってたか?」

「忙しくて来れない。ごめんって伝えてってさ」

「そうか。それなら仕方ないな」


 俺は祖母が好きだった。それを家族は嫌っている。何もできないから、気休めしか言えない。


「そろそろ行くね」

「もう来んでよか」

「じゃあね」


 病室を出て外に出る。看護師に会釈したら階段を降りた。

 俺には名前をつけられない感情がある。祖母と母親の関係や、友達の恋人ができるアドバイス。そして、沙月のことを聞いた時だ。

 そして、いつも通りバス停へ歩いた。 その時、奇跡が起きる。


「さつ、き?」


 イヤホンを耳にして携帯を触っている。その後、俺の視線に気付いた。


「え?」


 憧れがバスを待っていた。あの頃のちょっと変わって、出るところを出ている。それに目を当てないようにした。


「もしかして、優希?」

「久しぶりだね」


 彼女も思い出してきたらしい。俺を指さして甲高い声を上げた。


「懐かしい! 小学校以来だよね?」

「うん。沙月の噂は―――」


『沙月がセクハラされたらしいよ』


「……、いや。俺のこと覚えてくれたんだ」

「それはこっちのセリフー」


 土砂降りの中で足に水が跳ね返る。大人がバス停の時刻表を見てた。俺たちは周りを気にせす口を大きく開けた。


「怪我したの?」

「体調悪くて学校休んでさ。それで、診断書貰ってきたんだ」


 優希はどうして病院にいるのと質問を返される。俺は素直に見舞いに来たとつたえた。


「え、優希の婆ちゃん入院してるの!?」

「家で倒れてしまって、それからかな」

「うあっ、心配だ」

「今は元気だから大丈夫だよ」


 それから彼女は俺と遊んだ思い出を話しかけてきた。話題の上がるたびに俺は反応して会話をする。椅子に座れないから後ろの方で立っていた。


「懐かしいね。何であの高校に進んだの?」

「特に理由はないよ」

「何かやりたいことあるのかなって思ったんだけど違うんだ」


 身体の筋を伸ばしていた。手を伸ばしつま先で立ち、着地する。


「私、転校するんだ」

「え、どこに」


 ふたりは静粛する。口を開こうとして、止めた。

 なにか話そうとした。でも浮かぶのは祖母の思い出だけだ。そんなこと話しても彼女は耳を傾けないし、そもそも会話を済ませている。どうして自分の話しか出来ないのだろう。他人に興味があればよかった。


「母さんが他のところでやりたいことやりなさいってさ」

「やりたいことあるの?」


 先程まで聞いていたイヤホンが人差し指に巻き取られている。彼女は携帯を見せてきた。聞いたことのないバンドの名前が書いてある。


「バンドやろうって考えてる」

「メンバーは?」

「これから集めるよ。その後は今まで出来なかった買い食いや朝まで友達と遊ぶんだ」


 携帯をポケットに直した。交通道路は渋滞してバスの時間を過ぎている。苛立ちがバス停を支配している。その中で俺は目を伏せた。


「いいね」

「私は羨ましかったな。みんな普通の生活ができてさ」

「普通?」


 俺は冗談だと思った。だけど、彼女は笑わないで真剣な眼差しを向けてくる。反応を失敗してしまった。


「知ってる? お父さんが無理やりやらせてたんだ」

「やりたくなかったのか」


 あの水泳は美しいと思ってしまった。その思い出が変わろうとしている。


「まだやめた実感がないからなー」

「うん」

「噂ではセクハラでやめたことになってるじゃん。そのセクハラのこと、そんなにみんな好きなのかな」

「違うの?」

「知りたいの?」

「いや、知りたくない」


 俺はバスが来るの遅いなってわざと口に出した。


「あのさ、沙月」俺も携帯を出して彼女にQRコードを表示する。「ライン交換していい?」


 彼女の目線は上から右に移動し、ポケットから取り出した。雨粒が画面に付着したから指で伸ばす。


「ありがとう」

「え、アイコンなにこれ」

「道端で見つけた猫」

「かわいい~」


 停車したバスが扉を開ける。彼女はそれにつられて顔を上げた。


「あ、もう行かなくちゃいけない。ばいばい」

「あ、うん」


 彼女の背中が見える。俺をすぎて、列に並び、話は終わったと雰囲気で伝わる。


「沙月!」


 俺の呼びかけにビクリとして振り返る。彼女は怪訝そうな顔をしていた。


「大丈夫なんだよな?」

「うん。大丈夫」


 イヤホンを耳にする。

 バスは扉を閉めてエンジンを唸らせた。彼女は後ろの席に座ってスマホの画面を見つめている。

 携帯の画面に目線を移す。彼女は複数人で撮った写真をアイコンにしている。彼女はあの頃と違って成長していた。表向きでは前を向いているように見える。たとえ幼なじみでも今は会話すらままならない。

 身勝手な俺は落ち込んでいるものだと決めつけていた。そして、水泳に全てを捧げている。そう勘違いしていた。


『まけるな』

『いや、何でもない』


 俺は文字を打って携帯を閉じた。

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日常の狭間の光 鍍金 紫陽花(めっき あじさい) @kirokuyou

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