◆1冊の絵本◆
さらに翌日。日曜日。今日は特にやることがないため、開館時間10分前に出勤する。すると、入り口の前で制服姿の貴和子が浮いていた。
「おはよう。貴和子」
「……あ、おはようございます」
こちらに気づいた貴和子が会釈をする。
「いらっしゃい。ミュージアムはあと10分くらいで開くから待ってて」
「はい」
それだけ言い残すと裏口へ向かい鍵を開けて中に入る。まさか開館前にやって来るとは思わなかった。急いで仕事服に着替えると館内の灯りを点ける。館長に挨拶もせずに玄関口へ向かい、少し早いが鍵を開けた。
「改めてようこそ。昨日来てくれなかったからどうかなと思ってたのよ」
「昨日は寮や学校の説明を受けていて来る時間がなかったんです」
「ああ、なるほど。じゃあ、今日はゆっくりしていって。ただし喋らないでね」
最後の言葉は軽い口調で言う。貴和子は神妙な顔で頷いた。暴れるコレクションによほど驚いたのだろう。貴和子を中へ誘う。
「わたしは事務所にいるから、何かあれば来て。階段上がって正面の扉ね」
「分かりました」
その後はお互い無言になって通路を進む。最初の展示スペースまでやって来ると、貴和子に笑顔で手を振り2階へ向かった。
事務所に入ると館長がいた。サンダルではなくスニーカーを履いていることから今日はコレクションの収集に行くのだろう。平日はわたしが学校に行っている間ミュージアムを出られない。休日は積極的に外出してコレクションの収集に勤しむのだ。
「貴和子が来ましたよ」
「……そうか。では、今日は早めに帰ってこよう」
端的な言葉に館長は唇にだけ笑みを浮かべた。いつもは閉館時間まで帰ってこないが、今日は昼過ぎくらいには帰ってくるかもしれない。ゆっくり見たとしても2時間はかからない規模だ。なにせコレクションには解説文のひとつついていないのだから。
館長を見送り、事務作業に打ち込む。増えたコレクションをデータ化し、来館者数1人と記録する。その他、細々とした処理をしているとあっという間に2時間経っていた。
そろそろ貴和子の様子を見に行った方がいいだろう。もしかしたら帰っているかもしれないが。1階へ降り、順路を逆走していく。なかなか貴和子と出会わない。半分ほど戻り、もう帰ってしまったかと思い始めたときに貴和子の姿を見つけた。
貴和子は熱心にひとつのコレクションを見つめていた。そっと近づき後ろからコレクションを見る。それは本だった――いや、薄くて長方形という独特の形をしているところから絵本だろう。真っ白でなんの絵本かは分からない。
制服のポケットからメモ帳とペンを取り出し、さらさらと文字を書く。
『その絵本が気になるの?』
目の前にメモ帳を差し出すと、貴和子がコクリと頷いた。メモ帳とペンをポケットに仕舞い、もう一方のポケットから鍵束を出す。貴和子が見ていたショーケースの鍵を開けると、絵本を取り出した。貴和子は驚いた顔でこちらを見てくる。それに笑顔で答えてからついてくるように促す。
休憩スペースまでやって来ると、絵本をテーブルの上に置いた。再びメモ帳とペンを取り出す。
『見ていいわよ』
貴和子は困惑した様子だったが、おずおずとテーブルに近づくと絵本にそっと触れた。まるで繊細なガラス細工に触れるようにページをめくる。当然ながらすべてのページは白紙だ。
1ページ1ページ、切ないような悲しいような目をして見つめる貴和子。こちらまで胸がきゅっと締め付けられるようだ。
『この絵本について詳しく知りたい?』
メモ帳に書かれた文字を目で追った貴和子はゆっくりと頷いた。その返事に積極的には使わない能力を発動させることにした。
貴和子を絵本から離れさせ、両手を絵本の上にかざす。静かに息を吐き、意識を集中させる。両手から淡い金色の光が溢れだし、絵本を包み込む。光は魔法陣のような円を描き始め複雑な文様を作り出す。
「オブジェクトリーディング」
そっと呟くと絵本がカタカタと動き出す。そして、絵本から立体映像が飛び出してきた。映像は淡い金色だ。
膨らんだお腹を優しく撫でる女性の手。膝の上に1冊の絵本が置かれている。徐に絵本に手を伸ばすとゆっくりとページが開かれる。場面が変わりベビーベットの上に赤ん坊の映像が流れる。うとうとする赤ん坊の横で絵本のページがめくられた。再び場面が切り替わる。布団な中で女の子と寄り添い、絵本を読んでいる。
映像が大きく揺らぎ、乱れる。横になった状態で景色が動いている。慌ただしい雰囲気。くまのぬいぐるみを抱えた女の子が走りながら必死な表情で何かを叫んでいる。病院に運びこまれたのか。そして、白い布を顔にかぶせられベッドに横になる人とその人に縋りついて泣く女の子を上から見る映像。
その後は成長していく1人の女の子を追い続ける映像だった。徐々に大人びていく女の子は、揃えられた前髪に黒のストレートヘアだ。その子が笑顔を浮かべたシーンで映像が途切れる。
「……」
淡い光が徐々に収まり完全になくなる。絵本はパラパラとページをめくり続けている。貴和子を見ると、声も上げずほろほろと涙を流していた。
「……お、かあさん……」
この絵本の魂は――貴和子の母親だ。
「貴和子……」
貴和子の母親は病に倒れるなどし、早くに亡くなった。それ以降ずっと貴和子の成長を見守り続けていたのだ。そこを館長に収集されたのだろう。きゅっと拳を握りこむ。
「わたしは、ものの歴史を読み解く〈オブジェクトリーディング〉って力が使えるの。今の映像はこの魂が生きてきた頃の記録よ。――あなたの、お母さんだったのね」
貴和子はただ涙を流し続ける。ページをめくり続ける絵本を手に取り、貴和子に差し出す。
「この絵本は、あなたが持つべきよ」
「うっ……ふっ……」
貴和子が絵本に触れると、絵本は花が開くように色づいてゆく。そして、温かい光を放つと、それは人の姿を取った。さらさらの黒髪。白いワンピースを着た優しそうな女性。涙をうっすら浮かべた瞳は喜びと悲しみに満ちている。両手を広げ、貴和子を抱きしめた。
「お母さん……!」
「貴和子……ごめんね」
ふたりは互いに抱きしめ合い、涙を流す。すうっと足元からふたりの姿が消えていく。わたしはただ消えていく様を見つめ続けた。
「……」
ふたりが完全に消えてしまうと、ようやく振り返る。そこには館長が立っていた。
「コレクションを勝手に消してしまうなんていただけないね」
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