考えるだけ無駄

 夜が理事長である慎二の頼みを断れず、番頭まがいの仕事を始めてから一時間三十分くらいが経過した。


 丁度、入浴可能なクラスが変わる時間ということで温泉でさっぱりしたC組の生徒はそれぞれの部屋へと戻り、やっと温泉に入れる……とB組の生徒が次々と暖簾をくぐっていく。


「……はぁ、早く俺も入りたい……」


 全日本人がきっと愛してやまない温泉である。勿論、夜だって例外ではない。


 だからこそ、一刻も早く温泉に浸かりたくて仕方がないのだ。


 ただの浴槽ならまだしも、温泉である。露天風呂なのである。寧ろ、我慢出来てる自分偉い。ほんと偉い。


「……おにいちゃん?」


 さっさと入浴したい気持ちを番頭まがいのこの仕事が終われば好きなだけ入っていられるのでは……? と思うことでなんとか抑えていると、聞き覚えのある、否、聞き覚えしかない声が耳に届く。


 声の聞こえた方へと視線を向ければ、そこには当然あかりの姿が。美優と志愛も一緒のところを見るに、三人でここまで来たということなのだろう。仲がいいようで何よりである。


「あれ、あかりちゃんのお兄さん?」

「こんなところで何をしているのですか?」

「何かあったら対応出来るようにって理事長に番頭まがいの仕事をさせられてるんだよ」

「「お、お疲れ様です……」」


 夜の苦労を思ってか、同情の眼差しを向けてくれる美優と志愛。優しくしてくれるのはありがたいのだが、時と場合によっては優しさが人を傷付けることもあるのだ。まぁ、気遣ってくれることが嬉しいことに変わりはないのだが。


「ねぇ、おにいちゃん。おにいちゃんはいつお風呂に入るの?」

「そうだな、少なくともB組とA組が入り終わった後だから……一時間後くらいか?」

「……一時間後……。それじゃあ、おにいちゃん。またね、、、。ほら、二人とも行こっ?」

「う、うん……」

「そ、そうですね……」


 どことなく上機嫌なあかりの背中を、美優と志愛は追いかけながら。


「ね、ねぇ、志愛ちゃん。もしかしてあかりちゃん……」

「美優さん。きっと考えてはダメです、ダメなのです……」


 だって、あのあかりである。


 兄が好きすぎるが故に新入生代表挨拶では変な虫が付かないようにと思いの丈を思う存分打ち明け。


 兄が好きすぎるが故に離れたくないという一心で理事長を脅は……ごふんごふん。説得して宿泊研修への同行を認めさせ……げふんげふん。認めてもらった、あのあかりさんである。


「ま、まさかですよね……?」

「まさか、ね……?」


 見つめ合いながら、渇いた笑みを浮かべることしか出来なかった。




「はぁ、やっと終わったぁ……」


 二時間三十分という長い間が経過し、漸く番頭まがいの仕事が終わったことに安堵の息を漏らす夜。


 結局、特に何も起こることはなく、夜はただ二時間三十分を棒に振るったことになったのだが……まぁ、何か起きた方が困るし対応が遅れて問題になっても困るので、こんなことしなくてもよかったんじゃ……とは思うものの、悪態は吐かない。


 強いて言うなら、慎二が自分でやればよかったとは思うが、あんなのでも一応は柳ヶ丘高校の理事長である。きっと、何かしらの仕事があったに違いない。


 まさか、部屋の中でスマホゲームにうつつを抜かしていた……なんてこともなかろう。うん、ないと信じたい。


 だが、気がかりが一つだけ。


「……夏希来なかったな……」


 夜は番頭のお仕事中、一度たりとも夏希の姿を目にすることはなかった。


 夜の目をかいくぐって温泉に入るなんてことは出来ないし、そもそもそんなことをする理由だってないはず。


 夏希とて女の子、お風呂に入りたくないなんてことはないだろう。


 まだ春とはいえ、飯盒炊爨では火の近くにいたし、ドッジボール(?)にだって参加した。だから、多少なりとも汗をかいているはずだ。


 他の人と一緒に入りたくないという可能性も少なからずあるかもしれないが……だとしても、汗を流しにシャワーくらいは浴びに来るだろう。


 だとすれば、何か他の理由があったのかもしれない。


 といっても、この場を離れるわけにはいかない……と夏希の様子を窺いには行けなかったのだが、仕事が終わった今なら違う。


 まぁ、女子部屋に行くのは躊躇いがあるが、そうも言っていられない。


 というわけで、気を引き締めて夏希の部屋――あかりと美優、志愛の四人部屋――の扉をノック。流石にいきなり開けるのはマズいし。


 はいは~いという声とぱたぱたと駆け寄る足音が聞こえ、扉が開かれた。


「あれ? お兄さん?」

「突然で悪いんだけど……夏希いる?」

「それが、いないんです。晩ご飯を食べたあと、部屋から出てってそれっきりで……」

「そっか。心当たりとかは?」

「ごめんなさい、ないです……」

「わかった。俺の方でも探してみる。見つけたらあかり経由で連絡してくれ」

「あ、それなんですけど……って、行っちゃった……」


 美優が言い終わる前に、夜は走り出していた。


「今のってあかりさんのお兄さんですよね?」

「うん。どうしよ志愛、言う前に行っちゃった……」

「わ、私に聞かれましても……でも、あの様子ですと……」

「うん。あかりちゃんのこと知らないっぽいよね……」

「一体、どこに行ったんでしょう……」

「う~ん、どこだろうね~」


 二人とも、何となく察しはついているのだが……その場所を探すのは勇気がいるというか、そもそも無理な話というか……。


「私たち、止めた方がよかったのかな……」

「美優さん、私たちに止められると思いますか?」

「……無理だね……」

「はい、その通りです。ですから、考えるのをやめましょう……」

「……だね」


 考えるだけ無駄、と二人は思考を放棄した。

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