絶対不可侵聖女領域

アーキトレーブ

血染めのマリア

 これは天涯孤独な「聖女」達の物語である。

 彼女らに出会えば、きっと悪魔だって泣き出してしまうだろう。


 最強、故に孤高。

 聖賢、故に残虐。

 不死不老、故に活殺自在。


 そんな聖女の一人、マリアは銃火器の「神工品」を授かった。

 香る硝煙。舞う血しぶき。


 永遠の命を得た彼女はこの世界を旅している。その後には草も生えない。


 彼女は自由だった。

 何にも束縛されない。気まぐれで街を巡って、御飯を食べる。


 マリアは今日も狩りを続ける。


 そんな彼女がオーランド大陸西部の国ジュネス、南部の港町ミーシェルに訪れた。


 今回の主人公は、彼女に出会った一人の少年ジャン、齢十七の小さな宿屋の一人息子である。



******



 ミーシェルは観光で成り立つ町である。

 ジュネス内からだけでなく、隣国からもバカンスを目的に大量の観光客が訪れるのだ。

 一年中安定した温暖な気候。

 透き通るような青い海。

 真っ白な石造りの建物。


 ミーシェルと聞けばこの三つが真っ先に思い浮かぶものだ。


 時期は秋の始まり。観光シーズンも過ぎ、町を行き交う人達の数も少なくなってきた。


 この街の大教会の塔の先端から、澄んだ鐘の音が鳴り響く。

 

「もう夕方か……」


 街の宿屋の一人息子、ジャンはぼそりと呟いた。


 生まれてから十七年、この街で生きてきた。だが不満な点なんて一つ思い浮かばない。

 住みやすく、空気も良い。さらに豊富な海の幸。毎日見る景色に飽きることなんてなかった。

 

 ジャンはさらに宿屋の手伝いとしての暮らしも気に入っている。宿屋の酒場で旅人の土産話を聞けるからだ。

 血湧き肉躍る冒険話。絶体絶命の大ピンチ。お酒を飲んでいる旅人は饒舌で、普段決して聞くことができない物語を語ってくれた。


 ある人は恐ろしい怪物を切ったと言う剣を見せてくれた。

 その輝きが目に焼き付いて離れないのだ。

 あれはまだ十歳になっていなかった頃だろうか。

 

 この街に不満なんてない。ただどうしても気になってしまうことがある。

 しかし、それが何かはわからなかった。

 ジャンはそれを上手く言葉にできない


 ただ、ヒンヤリとした憂鬱に似たものを感じてしまうことがあったのだ。


 それは日常の中のささくれだった。


 ジャンは買い出しの帰り道、そんな心底どうでもいいことを考えていた。



 食材をたんまりと両手で抱えて、坂道を登っていく。

 振り返ると水平線の上を帆船が漂っていた。

 見慣れた景色にため息をついてしまう。

 そして、自分の家、この街でありふれた宿の一つ、『三匹のカエル』の重い木製のドアの前に立ち止まっていた。


 ジャンは一呼吸入れて、仕事へ意識へと切り替える。

 これからやることは山ほどある。夜は店主であるジャンの父親バール、ジャンの二人だけ。バールは料理担当。それ以外の雑用は全て、ジャンがやらなければならないのだ


 両手はふさがっているが、ジャンは器用に肩を使って押し開ける。


「おお、どうだ? あったか?」

「言われたものは全部買ってきたよ。ついでにこれも!」

「おお、気が利くじゃねえか」


『三匹のカエル』は入り口から入って一階は酒場、二階が宿になっている。


 ドアを入ると外見がイノシシのような、バールの声。ジャンは旬の食材であるギューの実を見せる。

 それは一種のスパイスで、なかなか手に入れるのが難しい。

 懇意にしている店に手に入ることがあればキープしてほしいとお願いしていた。

 それが今回手に入ったのだ。

 気を回すことは不足することがあっても、やり過ぎることなんてない。物心ついたときから宿の経営を手伝って、ジャンは多くのことを学んだ。

 ギューの実があれば、料理のうまさは倍になる。


「よしっ」


 これから一瞬のミスも許されない。ジャンは頭の毛先からつま先まで意思を通わせて、テンポ良くこなしていく。


 食材の在庫の補充、テーブルを拭く。料理を出して、客に欲しがっている情報の提供。

 すべき仕事も少なくなって、休憩がてら旅人の話を聞きながら、楽しい一時。

 

 何も変わらない一日のはずだったのだ。


 夜も過ぎ、後片付けも終わった頃だった。

 今日の売り上げの計算も終わり、ジャンはバールに今日の売り上げを確認して貰う。


 ジャンは仕事がどうも終わりきっている気がしない。どうもおかしい。四号室に宿泊している客が食べに来なかったのだ。


「親父、四号室の客なんだけど――」

「ああ、そういえばな。あの変な嬢ちゃんは、今日の昼前に部屋に入ったきりだ。」


 確かにおかしな出で立ちだった。

 真っ赤なコートに身を包んでいた。あんな『赤』をジャンははじめて見た。深く、そして鮮やかな色が眼から離れない。


 この街に酷く似つかわしい色である。

 それを纏った彼女は昼前に来た。目付きも悪く、明らかに一般人ではない雰囲気だったので、ジャンはしっかりと覚えていた。


 同年代で、それも驚くほど綺麗な顔立ちをしていたのも、その原因かもしれない。


 赤い外套、その下は髪の色と同じ漆黒で固められていた。

 髪の長さは肩にかかるほど。口を一文字に結んでいた。無愛想な客だった。

 

 宿泊名簿に書かれていた名前はマリアだったかと、ジャンは思い出してた。


「なんだ? 気になんのか?」

「そんなんじゃねえよ」

「お前なウチは客商売だからな――」

「だから、違うって言ってるだろ。そんなことは百も承知だって」


 親父はにやにやとした顔になる。軽いジョークも交えながら後始末を完全に終わらせたときだった。


 バールはもう自分の部屋に戻った。酒場には最後のチェックをしているジャン一人である。


 コツン。コツン。


 足音が聞えた。その音は寝静まった空間を切り裂くように響く。


 四号室の彼女だ。


 二階の宿と一階の酒場を繋ぐ、中央の大きな階段から一人の少女が降りてくる。


 その鮮血のような赤に背筋が寒くなる。


 眼に入って、ジャンは思わず叫びそうになるが、なんとか堪えた。


「お、お客さん!? 申し訳ありませんがもう夕食の時間は――」

「ちっ」


 あからさまに嫌な顔をされた。

 自分の不機嫌を前面に押し出している。ジャンの短い経験でも分かる。これは面倒な客だ。

 ああ、今夜は寝付きの悪い思いをしなければならないのかと不安に思ってしまった。


「え?」


 ジャンの心配とは裏腹に、マリアは文句や無茶苦茶な注文を押しつけることなく、颯爽と出口へ向かう。


「そんなもんは喰わん」


 バタリとドアが閉まる。

 もう日をまたぐ時間帯である。まだ営業している店なんてほとんどない。


 ジャンは何事かと彼女を追いかける。ドアを勢いよく開ける。しかし、彼女はまるで蒸発したかのように消えてしまった。


「消えた……?」


 唖然とするジャンは周囲を根気よく見回す。夜の港町は強い風が轟轟と唸るだけ。彼女の欠片さえ見つけることはできなさそうだ。


 父親に報告するか一瞬迷う。しかし、ジャンでも上手く説明できる自身が無かった。

 なにより一日の終わり、もうそろそろ寝る時間である。明日の朝の仕事もある。

 ジャンは諦めて、ドアに手をかけたときである。


 どうしてか名残惜しさを感じてしまう。通りを一望する。

 

 何か赤い目印のようなものがちらついた。

 眉をしかめて、もう一度注視する。どうも勘違いではないようだ。


「なんだこれ?」


 近寄ってみてみると、そこには小さな血痕が花のように咲いていた。


 その色はひどく心に刺さる。

 痛みはないが、どうもそのささくれが気になってしまった。


 その赤い花は点々と通りに続いている。

 まるで道しるべのようだった。


「……」


 ジャンはそれを眼で追ってしまう。その赤いしるべは二,三メートルの間隔で落ちていた。そして、闇の中に続いている。


 もうこんな機会はないかもしれない。 

 自分の中の自分がそう語り掛けてくるようだった。

 一種の危険と魅力を感じた。

 危険とは見えない蛇に狙われている兎が感じるようなものだった。


 魅力とは恐い物見たさに近かった。

 しかし、もしかしたら日常の日課が狂えば、自分も何か変わるかもしれない。そんな一つの夢を抱いてしまう。


 ただ一つ言えるのは、ここで逃したらもう見つけられない気がした。


 ジャンは心を決めて、それ辿り始めた。

 自分の中の培われてきた冒険心が躍り出すのを感じた。



 夜風は心地良かった。

 

 静かになった街をみるのははじめてかもしれない。

 こうやって買い出しで通った道も全く別の道に感じてしまう。

 血痕は点々と落ちていて、大きな通りから一回り幅の狭い道へ、さらに細い路地へと続いていく。

 

 三十分ほど歩いただろうか。

 何もない路地。街の中心部から遠ざかった、街の外れ。


 血痕が途切れた。

 路地の行き止まり。何の変哲もない。

 生臭い匂いが充満している。

 それだけだった。


 なんだか熱が冷めてきてしまった。


「何もない……か……」


 そして、ジャンは冷静になっていく。

 そう何もないのだ。明日の朝の仕事を思い出して、青くなってしまう。

 何を考えていたんだ自分はと、己を叱りつけたい。

 一時のよくわからない考えに身を委ね、馬鹿なことをしてしまった。

 そして、後悔の念に飲まれてしまう。

 第一なんでこんな所に来てしまったんだ。自分はそこまで疲れていたのだろうか。


 いや、まだ取り返せる。一刻も早くベットに潜り込まなければと振り返った。


 その時だった。


 爆発。

 夜の闇に覆い被さるように目の前の壁が吹き飛んだ。ジャンは瓦礫に呑み込まれてしまう。


「おわっ!??」


 舞い上がる土煙を吸い込んでしまう。

 崩れていく建物の音。

 そして、ジャンは嗅いだことのない匂いを感じたのだ。


 ツンと鼻につく硝煙の香り。

 連続した爆音とともに熱気が肌を撫でる。

 

「死ねっ!!」

「うわっ!?」 

「邪魔だ! ボケ!」


 蹴り飛ばされて、体が固い地面に叩きつけられた。


「!??」


 顔に生温かい液体がぶちまけられる。

 視界が塗りつぶされてよくわからない。

 血液を浴びせられて、


「ひっ」


――グルル。


 粉塵が薄れていき現れたのは大きな真っ黒な塊。


 真っ黒に塗つぶされた犬だろうか。猟犬のような鋭く尖った頭。

 その表皮は影のようにとらえどころがなく、一見柔らかそうな形をしている。

 のっぺりとした黒だった。まるでシルエットが浮かび上がっているような錯覚を覚えてしまう。


 ジャンなんてぱくりと呑み込まれてしまいそうな黒い犬。


 そして、その背に立っている少女がいた。

 マリアだ。


怪物の頭にショットガン――子の世界では一般的ではない銃火器――をその怪物の頭蓋に向けている。


「いい加減くたばれ!」


 声だけは可愛らしいマリアの叫び。

 ガチャンとリロードして、真っ黒な犬の頭にズドンと撃ち込む。

 周囲に鈍く衝撃が響き渡った。

 マリアはガチャンと装填して、一発。


 黒い巨大な犬は頭に銃弾が撃ち込まれる度に身をよじらせる。

 四発撃って、マリアのショットガンの残弾がなくなった。


「クソっ」


 怪物の頭にショットガンを押し当てたまま、銃弾を装填しようとする。


 遅れたようにジャンの口から言葉が漏れた。


「何だよ……これ……」


 ジャンが浴びたのはこの生物から滲み出ている真っ黒な液体だった。

 それは影が重油を纏ったような生命体で、そいつが動く度に周囲に黒い液体が撒き散らされる。

 匂いはなく、腐臭もない。ただ生温かいものだった。


 ジャンの声を聞いて、次弾を装填しようとしているマリアは眼だけを一瞬動かす。

 マリアはジャンの目が合って、その体が一瞬硬直してしまった。


 その隙を見逃してはくれなかった。


――グギャアアアアアア。


 黒い体から全方向に向かって間歇泉のように真っ黒な血が噴き出す。

 その衝撃でマリアは吹き飛ばされてしまった。

 その小柄な体がへたり込んでいるジャンへ。そのまま、ジャンは頭への衝撃と共に意識を失ってしまった。



*******



「起きろ。なに? 死にたいの?」

「……」


 眼が覚めると、街の中心大広場のど真ん中。ジャンは手脚をキツく縄で縛られていた。 


「なっ!?」

「早く質問に答えてよ。なんであそこにいたの?」

「いや、あの……」


 何でと言われると、ジャンはなんて答えていいのか分からなくなってしまった。

 特に理由がないのだ。

 気まぐれとしかいいようがない。


「……」

「ほう?」


 ジャンはマリアの美しい瞳で見下ろされていた。

 鼻先に固そうなブーツを突きつけられていた。ジャンは見上げたようとするけれど、頭を踏んづけられてしまう。


「フンッ」

「――ぐわっ!?」


 まち針で貫かれた昆虫標本のように固定された。そのまま、ぐりぐりと踏まれてしまう。


「痛い痛い痛い痛い!!」


 マリアはため息をついて、ウンザリした顔でジャンを蹴り上げる。

 数メートル宙を浮いて、尻餅をつく。体中がずきずきと痛む。

 マリアはツカツカと歩み寄って、顔をあげようとするジャンに顔を近づけた。

 鼻が触れるほど近くに顔があって、ジャンは驚いて顔を背けてしまう。


「ただの一般人――みたいね……」

「は、はい! そうだって! 俺はただ偶然――」

「フーン」


 マリアは前屈みになって垂れた髪を払いのけてふんぞり返る。

 その金属室な冷たい眼がジャンに突き刺さる。


「あ、あの……」

「なに?」

「アレって一体?」

「なんで教えなきゃならないの?」


 マリアは面倒くさそうにジャンに冷たい言葉を叩きつける。

 数秒間仁王立ちして、ようやく口が開いた。


「あれはマモノ」

「マモノ!?? な、なんですかそれは!! ええ!?」


 もうパニックになって、もう分からない。恐怖と痛みがごちゃ混ぜになって頭の中がいっぱいになる。

 遅れたように心臓が高鳴る。恐怖だ。あの化物が視界いっぱいに広がる。黒いねっとりとした体、研ぎ澄まされた白い牙。

 ジャンはあんな生物をみたことがなかった。

 マモノなんて聞いたことがない。

 異形の存在だった。あんな悪夢が実現したような、おぞましさの塊。

 思い出すだけでジャンは吐き気がしそうになってしまう。


「うるせえ」


 殴られた。


「あぐっ!?」

「ああもう! 説明が面倒くさいからあいつは私の餌。あんたはあいつの餌! わかった!?」

「餌ってどういうことだよ」

「これ以上は知らなくていい。貴方に必要なのはその事実だけ」 


 マリアはこれ以上教えてくれる気はないらしい。素っ気ない返事をジャンに浴びせた。


「痛ッ!?」


 右肩が燃えるように熱い。そこから血がダラダラと流れている。

 気付かないうちに傷がついてた。

 あの吹き飛んできた瓦礫でついたのだろう。ジャンは今になってようやく痛みを感じてしまう。


 マリアはその傷口をなめ回すように見つめて、嬉しそうに鼻を膨らませた。



「ふふ、ちょうどいいわ。そのままちょっとここにいなさい」


彼女はにっこりと微笑む。それは聖人のような汚れのない笑顔だった。


「貴方、釣りは好き?」


 ジャンは釣りが好きだ。しかし、眞莉愛の発言は

さらにそれを言い放つ彼女の姿がゾッとするほど美しかった。

 この笑顔だけを見ればきっと多くの人は女神様が降り立ったと信じてしまうかもしれない。しかし、ジャンがそう思わなかったのは、彼女のこれまでの乱暴な振る舞いと行動。その意思の中にたった一欠片の配慮がないからだ。


 ジャンは嫌な予感がした。

 そして、その予想は的中した。


 街の中心にある広場は一辺が百メートルほどの正方形である。石畳は隙間無く敷き詰められていた。

 その中央には傷を負ったジャン一人。


「ははは……」


 乾いた笑いしか出てこない。

 マリアは何も言わずに闇に消えてしまった。

 ジャンは焦ってきた。彼女が助けてくれるわけがない。


 右肩の傷を治療することなく、マリアはどこか行ってしまった。

 彼女は釣りが好きがかとジャンに聞いた。ジャンはその意味がよく分からない・

 

 血が止まらない。意識も朦朧としてきた。

 もう意識が遠のいていく。ロープをほどこうともがくけれど、きつく縛られて解くことはできない。ただ無駄な力を使っただけだった。


 ぬめりとした振動が伝わる。

 体が地面に横たわっているからなおさらわかる。


「うっうそだろ」


 あの巨大な黒犬は四本脚をゆっくりと動かす。広場の入り口。ジャンから五十メートル先にいる。鼻を左右に動かして、何かを探しているようだった。


 そして、その先端はジャンに向く。

 

 ジャンは黒い犬が笑った気がした。


 その刹那。ぬめりとした足音は、硬質な移動音に変化する。

 一目散にジャンに走ってくる。ジャンは叫びたくても、出血量が多くてもう逃げる元気なんてない。


 ジャンは大きくなってくるそれを見て、後悔してしまう。知ってはいけない。触れてはいけない。小さな選択で簡単に死ぬことだってあるのだ。


 大きな口がジャンに覆い被さる。


「捕まえた」


 マリアの声が聞えた。


 真っ直ぐな一線を引くように、闇を何かが貫いた。

 ジャンは生温かい液体のシャワーを浴びた。

 息ができなくなって、ジャンはまた意識を失ってしまった。



 咀嚼音。常闇の中でがつがつと肉を歯で切り裂く音。


 薄い眼を開けると、黒犬の体が真っ赤な血の沼に飲まれていた。


 地獄の門が開いているのかとジャンは思った。

 どす黒い血の池からは、触手のように赤く長い手がうねうねと立ち上り、倒れている犬の体に巻き付いていた。

 ゆっくりとそれを沼の底へ呑み込んでいる。


 半径五メートルほどの池は、一人の少女の足下から広がっていた。

 そして、不気味だったのはむさぼる音が聞えているのに、それをかみ砕く口がみえないことだった。

 化物は深紅の沼に呑み込まれている。どうやらその沼の中で、がつがつと何かそれを囓っている。


「人が食事する様子を見るんじゃない」

「しょ、食事って。おい! あんた! どこ行ってたんだ」

「どこって釣りだよ、釣り。あそこからこれでズドン。いやー、あそこまで大物だと隙を見せないと難しいのよね。一か八かだったけど――」


 彼女は手を合わせると、さらに数本の赤い手が沼から突きだしてきた。

 その複数の手に支えられて、沼の中から出てきたのは黒い鉄の数メートルの兵器。異様に長いアンチマテリアルライフル――もちろんジャンはその存在を知らないそれは――ちらりとそのフォルムを見せて、そのまま沼に沈んでいく。


 もうほとんど沈みかけている犬の頭にはぽっかりと大きな穴が空いていた。

 そして、ジャンの横には、その銃弾で空いたのであろう、小さなクレーターができている。

 もしかしたら当たってたかもしれない。そう思うと、ジャンは縮み上がってしまう。


 対して、マリアは久しぶりの食事で上機嫌だった。


「こんなに簡単に大物が掛るなんて。餌も粋が良かったかしら。やっぱり生き血じゃないと駄目ね」

「餌?」

「だから言ったでしょ? 餌だって。ああ、喰った、喰った。お腹が減るとイライラしてしょうがない」


 食事が終わったようで、小さな血の池地獄が小さくなっていく。

 食後のコーヒーとばかりに彼女は内ポケットから煙草を取り出して、火を着ける。

 カチャンと金属音が鳴って、ライターが閉まり、マリアは美味しそうに煙を吐く。


 そう、ジャンは釣り場に引っかけられたざざ虫と変わらない。マモノをおびき寄せる餌だったのだ。


 釣りは好きだが、釣り餌になることは好きじゃない。ジャンは声に出して、言いたかったが、マリアの賛美歌のような声で思考を遮られてしまう。


「一夜の夢ってことにしときな坊主。さっさと帰れ。見世物じゃねえ。誰にも言うなよ。まぁ、言っても誰も信じてくれないと思うけどな!」


 マリアは鼻歌でも歌いたいだしそうだった。



******



「行ってきます」

「おう、気をつけて行きな」


 ジャンは翌朝目を覚ました。いつの間にかベッドの上、フラフラの体で深夜遅くに布団に滑り込んだのかもしれない。記憶があやふやで、家にどうやって帰ってきたのかジャンは思い出せなかった。


 不思議と眠気もなく、高揚感すら感じてしまう。見かけ上はいつも通りの一日が始まった。


 自分の右肩の傷跡も綺麗に治っていた。痛みは皆無である。


 あの夜のことは全て夢だった。そう言われたら、信じてしまうだろう。実際、彼女にもそう言われたことをジャンは覚えていた。


 四号室は既に空になっており、バールは四号室に誰かがあの少女が止まっていた事実も覚えていなかった。

 街も普段と変わっていない。昨夜の血痕の道しるべも――ジャンはあれはマモノを呼び出す罠だとようやく気付いたが――すでに消えていた。


 ただ一つ痕跡と言えるものが残っていた。

 ポケットに薬莢が一つ。

 何故かここに紛れ込んでいたのか。

 

「……記念にとっておくか」


あの一件は夢だった。そういうことにしようじゃないか。

 

ジャンは今日の買い出しに元気良く向かった。足取りは軽く、憂鬱さなんて一切感じていなかった。


「あ」


 一つ大事なことを忘れていた。

 彼女から冒険の話を聞けば良かった。それは次の機会にしよう。

 ジャンは坂道を駆け下りた。

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