ラッパ吹きの思い出

「知ってる?街の外の雪山へ行って戻ってきた人、誰もいないんだって」


**********


 大通りは雪に埋もれて、街の人がみんないなくなったみたいに静かだった。丸裸の姿に氷柱を着た街路樹。道の中心に横たわる、灰色に凍った川。背の高い家々には雪がこびりついて、よく見ないと煉瓦造りだなんて分からない。墓標のような雪国の建物が上り坂に沿って、雲のたれ込める空に消えていく。月曜日の午前、こちこちに凍った路上に人影はぽつぽつとしか見えない。

 通りに並ぶ家の一軒から、桃色でふかふかのコートを着込んだ少女が顔を出した。小さな玄関ドアの中にかかったカウベルがカランコロンと音を立てる。外にそうっと足を踏み出すと、すり抜けるように玄関を出て、再びそうっとドアを閉めた。

 家の前から通りを見下ろした少女の目に、真っ先に飛び込んだのは凍った川。少女は足踏みすると玄関ドアの前の石段を飛び降り、つるんつるんと足を滑らせ、そのまま転がるように走り出した。

 身を切るような北風を背中で受ける。歩道を斜めに突っ切って、川べりの街路樹の間を抜け、思いっきり凍った川に着地した。

「うわっ……うわうわうわ!うわぁぁぁーっ!」

 立とうとしたところが、勢いそのまま氷の上を滑り出したら止まらない。まっさらな氷は遮るものもなく、スキーよろしくどんどん加速する。

「うわあああ、あはっ!あっははは!いぎゃあーっ!」

 大笑いしながら川を下っていると、街路樹の間から大きなものがこっちにやってくるのが見えた。真っ黒の大きな犬だ。つるつる滑る川面をものともせず、悠々と飛ぶように走ってくる。犬は少女のそばまでくると、横に並んだ。

「どうしたのおまえは!どこから来たの!?」

 たずねると、犬はちらりと少女を見て瞬いた。ウェーブのかかったお洒落な毛並みと垂れ耳がゆっさゆっさ揺れる。身体は狼かと思うほど大きくて、いかにも温かそうだ。眺めていると、少女はバランスを崩して頭から危うく川面に突っ込みかけた。

 石橋の下を抜け、大通りの端を過ぎ、街の入り口に立つ看板の隣を通ってスピードはどんどん速くなる。自力で止まるのはもう不可能、街並みがみるみる後ろに遠くなり、犬だけが横にいた。行く先では川が急カーブを描いている。

「うわっ……うわ!どうしよう!どうし……うわああああ!ちょっとまって!わああああ!」

 このままでは曲がれない。足や手を踏ん張ったら、身体が虚しくくるくる回った。怪我をしてでも転げるか。それとも思い切って川岸の雪に突っ込むか。きょろきょろと身を振りかねている間に川岸は目の前に迫ってきて、ついに川の端に足を取られて前へ放り出された。

「んわっ」

 大の字になって落ちたのは、ふかふかに積もった粉雪の上。怪我どころか、毛布に飛び込んだような柔らかさに少女は目をぱちくりした。口に入った雪をぺっぺっと吐き出す。少女はゆっくりと起き上がった。

 顔についた雪を払って見ると、少女の周りを犬がぐるぐる歩き回っている。後ろを振り返ったら、街ははるかむこうにあった。

「遠くに来たなあ」

 少女がつぶやくと、犬は足を止めて隣に腰を下ろす。ふたりは顔を見合わせた。

「街が見えなくなるまで行ってみようか。見えなくなったら引き返そう」

 少女はそう言うと、川べりを奥へと歩き出す。雪に覆われた小高い土手を登った。犬が尻尾をふりふりついて行く。土手は大して高くなく、てっぺんにはすぐにたどり着いた。少女と犬は尾根を踏みしめる。

「わああ……」

 眼前に、世界が開けた。真珠のような薄灰の空の果てでは、純白の地平線がうねる波を描いている。辺り一面まるで真っ白の砂漠だ。なめらかなメレンゲの海みたいでもあった。

 立っている尾根から下る坂に、少女はおそるおそる片足を乗せてみる。本当に誰も踏んでない雪だ。かちこちに固まった街中の雪とはまるっきり別物。両足を乗せて腕を広げると、少女は恍惚とした顔になる。うっとりしていたら犬が後ろからぴょーんと跳んできて、雪飛沫をあげながら尾根を転がり下りていった。少女も「きゃーっ!」と歓声をあげて犬に続いた。

 尾根の下まで降りたら、平らな地面を転げて、走って、その先にあった丘を登って、もう一度周りの景色を仁王立ちで楽しむ。またさっきと同じように坂を転がり下りて、大の字に寝そべったところで息を整える。しばらくそうしていると少女は突然慌てて起き上がり、さらにもう一つ先の小さな雪山に登って後ろを振り返った。

 出てきた街は、雲の色に霞んでほとんど見えなくなっていた。

 遅れて犬が少女の隣にやってきた。犬はぼうっと遠くを眺める少女を見上げると、くるりと足元を一周して座った。

「どうしよう」

 少女がつぶやく。少しでも進んだら見失いそうな街から目を離すと、ちらりと犬の顔を伺う。反対側を振り返った。まだまだ限りなく雪原が続いている。誰の足跡も付いていない少女だけの雪原。この雪の海を一度でも手に入れたいと思わない人間なんか、どこにもいないだろう。それほど、雪原は魔法のように美しかった。

 突っ立ったまま迷っていると、ちらっと一瞬、少女の足下の雪がひとりでに舞い上がった。

「何かいる!」

 少女が目を凝らすと、小さな雪飛沫が少女の立つ小高い雪山を降りていくのが見えた。少女は少しだけ街の方を振り返り、もう一度謎の雪飛沫が降りていった方を見つめて足踏みする。

「……も、もうちょっとだけ!」

 犬に向かって宣言すると、少女は勢いよく飛び出した。雪の小山を駆け下りる。裾野で足を止めて見渡すと、雪飛沫の主はどこにもいなくなっていた。

「あれ?」

 もう一度雪の上を探すと、淡い光の反射で目が痛くなる。後から犬が追いかけて来て少女の顔を見ると、地面を嗅ぎ回ろうと鼻を雪に突っ込んだ。しかし、次の瞬間犬は急に顔を上げ、低い声でわんっ!と鳴いた。

 少女が目をあげる。犬は何やら左のほう、ずっと遠くを見ていた。視線を追うと、そこにはやはり小さな丘がある。そのてっぺんで積もった雪が大きく舞い上がった。見ていると、ざざざ……と微かな音が聞こえてくる。

「……あれ」

 山の上の雪飛沫がみるみる大きくなる。それはやがて津波のように山を駆け下り始めた。

 雪崩だ。ふたりが後ろへ踏み出した時には雪の波がこちらに押し寄せてきていた。見上げるような高さの雪で、周囲はひたすら真っ白になった。


**********


 丘の頂上をまんなかに雪崩の波が周囲を滑り下りると、裾野には一瞬にして靄がかかる。雪飛沫のおさまった丘の頂上がもぞっ、と不気味に動いた。地面の下で巨大な何かが動いている。幾度か雪崩を繰り返して後、そこに残ったのは奇妙な形をした雪の塊だった。はやぶさのような頭に立派な角と大きな耳。長い首と蝙蝠に似た巨大な羽。首の付け根に申し訳程度の前足。鶏に似た力強い後脚。雪の身体をした竜だ。

 小さな山一つ分ほどもある巨大な竜は、体の上に積もった雪をはねのけると、勢いよく飛び立った。舞い散った雪は空中でいくつも結晶をつくり、小鳥や蝶の形になって竜の後を追う。竜は西へ頭を向けると、一直線に街へ向かった。羽ばたくたび淡い陽光に雪の羽が輝く。周囲には雪の生き物たちが編隊を組んで、小さな靄を作っている。竜の身体からは粉雪がぱらぱらと落ちて地に降った。

 街にはあっという間にたどり着いた。街の上には雪雲が低く垂れ込めている。竜はその中に突っ込むと、雲でかすむ灰色の街を下に見ながら上空を一周した。雲の中を吹く風が竜の身体を削る。街にはぼたぼたと、大粒の雪が降り出した。

 街の人々が空を見上げる。道にも線路にもみるみるうちに雪が積もり、街の汽車は止まってしまった。仕事を諦めて仕方なく駅から家へ戻る男たちを、街の子供達が大はしゃぎで迎える。かまくらの小さな別荘を増築する子供もいる。野ウサギや狐は雪の中に身を隠し、貧家の若者たちは新雪を家の中に持ち帰ると水瓶に蓄えた。

 街の真ん中、高い高い時計塔の上で、竜は雲に隠れてそれを見ていた。周りに群がる雪の生き物たちがひとつひとつ街に降りていっては、再び竜のところに戻ってくる。腰の曲がった老婆の家の玄関前に数羽の雪の小鳥が降りていくと、水浴びをするような羽ばたきで積もった雪をどかして去る。積雪の重みでしなる枝の下、地面で寒さに凍える青鷺のもとには雪の蝶が降りてきて、枝の上の雪を全部身体に纏うと竜のところへ持ち帰っていった。街の様子を見下ろし、行っては戻る雪の生き物たちの動きを眺めて、時計塔の上で竜は満足そうに身じろぎした。

 街中ぐるり全方向から戻ってくる雪の生き物たちの中、東の方から戻ってきた雪の鳥が一羽群れから飛び出した。雪の鳥はしつこく竜の顔の周りを飛び回る。竜は巨大な嘴をぐわっと開けて雪の鳥を一飲みにした。そしてすぐさま時計塔を蹴って飛び立つと、生き物たちの雲を後ろに従えて、鳥がやってきた方向へ猛スピードで向かった。

 すぐに街は遠くかすみ、眼下一面に雪原が広がる。竜は急に真下に方向転換すると、雪原の中へ突っ込んだ。海に飛び込むように巨大な飛沫を立てて、一瞬で長い尾までが見えなくなる。弱い風に飛沫が流されたあと、まっさらになった雪原に巨大な竜の姿はない。かわりに飛び込んだところから、子犬ほどの大きさになった竜がぴょんと飛び出した。

 さながらはやぶさのように速く、竜は地面すれすれの高さを、小さな姿でさらに東へ東へと向かう。しばらくして、行く手の雪の上に黒い影。急いで近付くと影の正体が見えてくる。黒くて大きな犬とコートを着た少女が、並んで雪の上に倒れていた。

 ふたりの周りには雪の小鳥たちが数羽集まっている。ぐるっとふたりを囲むように小鳥たちが退かした雪が小山を作っていた。ふたりはおそらく雪の中に埋まっていたのだろう。竜がさらに近付くと、ふたりとも息をしているのはわかった。

 雪の小鳥たちが心配そうにふたりの周りで跳ね回る。温かい生き物は、冷えると死んでしまうのだ。どうしたものか、と言いたげに竜はふたりの間をそうっと歩いた。少女の肌は青ざめて、唇は紫色になっている。鼻でやさしくつついてみてもピクリとすら動かない。

 竜は次に犬の方へ鼻を近づける。真っ黒な毛は雪にまみれて灰色がかっていた。やわらかい垂れ耳の隙間から、雪でできた鼻先をそうっと差し入れる。

 耳の内側に触れた瞬間。犬が薄く目を開けた。竜は慌てて鼻を退ける。雪の鳥たちが犬の顔を確認しに、犬の顔の前に集まってすったもんだし出した。

 犬は目を瞬くと、大きな瞳で雪の鳥たちをぐるりと見て、横目に少女を確認する。竜はせこせこと雪の鳥たちの前に出ると、数秒迷うようにその場でくるくる回っていたが、やがて犬に尻を向けると尾を振って犬を見た。犬は竜の尾の先をひくひく嗅ぐと、黒い瞳をぱちくりして竜を見返した。二匹がしばらく見つめ合う。やがて竜は静かに飛び立つと、少女の上を一周して、ふたりと雪の鳥たちを置いて高く舞い上がった。竜の見つめる東の方には、ずっとずっと雪原が続いている。はるかに遠い東の地平線を、竜は鉄砲玉のごとくめがけていった。


**********


 無限に続く雪の砂漠を飛ぶこと数キロ。小高い丘と緩やかな盆地をいくつも超えた先で、地面が突然途切れた。崖だ。さほど高くはないが、到底地を歩く生き物が飛び降りられそうな高さでもない。崖の下にはまだ延々広がる雪原、右手に今にも凍りそうな青い川、そしてちょうど正面の位置にぽつねんと、黒くうごめく人の集団が見えた。

 竜は崖の端に降りると、集団を見下ろした。大きな白い防寒テントがいくつか、その間をお揃いの黒い服に毛皮を羽織った人間たちがゆっくり行き来している。小柄な馬が何頭も、それぞれ荷馬車のそばで身を寄せ合っていた。薄雲の上で日は沈みかけているようだ。仄暗くなりゆく景色のうちで、キャンプのところどころに燃える松明の火がぼんやりと未知の星座を描いていた。

 竜は足下の雪に潜って、身体をさらに一回り小さくすると、キャンプの方へ勢いよく飛び立った。崖から斜めに急降下。雪に隠れるように、地面すれすれを飛ぶ。静かに静かにキャンプに近づくと、テントの陰に着地した。聞こえてくる声は、みんな人間の男のものばかり。見回すとテントを回り込んだ正面の方に松明があるのがわかる。テントの幌の上から、松明の火がちろちろとのぞいているのだ。

 竜はテントの壁を這うように飛び上がると、幌の上から松明に近付いた。眼下では、数人の男たちがうるさく話しながら歩いている。その全員がちょうどこちらに背を向けた瞬間、竜は幌の端から松明の火に転がり込んだ。じゅっ!と音がして激しく湯気が立ち上る。火が小さくなって辺りが暗転し、竜の姿も消えてなくなった。

 が、次の瞬間。くすぶる火がぼうっと巻き上がり、中から火の身体になった小さな竜が出てきた。周囲がぱっと照らされて、男たちが振り返る。竜はその直前にテントの幌の上へ転がって隠れた。どうやら男たちには気づかれなかったようだ。彼らは顔を見合わせて雑談を始めた。

 竜はそれをこっそり見届けると飛び立った。上へ上へ、遥か上へ、地上から見たら小さな星とみまごうほど上へ。炎の身体が吹き消えそうに風の荒れる上空までくると、今度は少女たちのところへ戻るべく西へと進んだ。

 小さな身体では、来た道のりもやたらと長い。みるみる暗くなる雪の中で、いまや竜の身体だけが光っていた。竜は急降下すると、自分の身体をランプがわりに少女たちのもとへ向かう。行きよりも随分長い時間が経った頃、突然前の方に動くものがあった。雪の中から、ちろちろと何かが飛び上がったり跳ねたりしている。

 竜が近づくと、それは雪の鳥たちだった。そしてその隣には黒い犬と小さな少女。辺りが完全に闇に沈んだ頃、竜はふたりのもとに戻ってきた。

 犬は力なく横になったまま、重たそうな瞼を上げて竜を見た。少女はやはり動かない。竜が出発した時より顔が青くなっているように見えた。ふたりの上に浮かびながら、竜は尻尾を振って考えるそぶりをした。雪の鳥たちがその下に並んで、おとなしく竜を待っていた。

 しばらくすると竜は、犬の側に降り立った。毛が焦げないようギリギリまで近付く。羽で暖かい風を送ると、犬の身体についた雪はみるみる溶けて毛並みに黒い艶が戻った。竜は犬の周囲をぐるぐる回って歩きながら、犬の毛を温め続ける。しばしの時間をかけて、犬の尻尾が動くようになり、重いまぶたがぱっちりと開いて、犬はついにのっそりと立ち上がった。

 雪の鳥たちは大騒ぎでふたりの周りを跳ね回る。犬はそれを鼻先でしっしと避けると、今度は少女のそばに寄っていった。少女のコートの襟元をくわえて丸まった姿勢にすると、背中側にぴったりくっついて、ふかふかの毛並みで少女を包み込んだ。前足に少女の頭を乗せると子犬を育てる母犬のように、少女の顔を時々嗅いだり頬ずったりしながら温める。竜はその上を飛び回り、熱い風を送った。


 **********


 長い長い時間が経った。天上では暗灰色の雪雲がきれて、空の深い闇がのぞいた。雲はだんだんと速い風に流される。やがては空一面に、飲み込まれそうなほどの星の世界が広がった。満月が真上にぽっかりと浮かんで、青い光が雪に反射した。

 月が傾きかけたころ、少女がゆっくり目を開けた。

 白い頬にはほんのり赤みがさして、青かった唇には血色が戻った。犬が少女の額に鼻を押し付けると、少女はびっくりして身体を起こした。

「えっ……」

 自分の周りを見回して、少女は思わず声を上げた。プラネタリウムみたいな星空、雪でできた動く小鳥、竜の形をした火が飛び回っていて、少女の隣には犬が横になっている。少女は不思議そうに自分の腕を抱いた。

「もう夜?雪崩のあとどうなったの……」

 犬に向かってつぶやく。

「もしかして、天国じゃないよね」

 少女の頭上で竜が激しく頷いた。少女はそうっと立ち上がると、竜をまじまじと見た。

「生きてるの?」

 竜は空中でくるりと回ってみせる。少女は目をキラキラさせた。もこもこの手袋を取ると、

「おまえ、あったかいね」

 真っ赤に霜焼けた手を竜にかざして温め始めた。足元で、犬ものそのそと立ち上がる。 少女の足の周りを一周すると、温かくなった手で少女は犬の頭を撫でた。

「おまえたちがあっためてくれたんでしょ?ありがとう」

 犬を思いきり抱きしめる。犬は少女のコートの襟元に鼻を埋めて尻尾を振った。竜はふたりの頭上に円を描いて飛ぶと、東の方へ少し進んでふたりを見た。

「どこ行くの?」

 少女が尋ねると、竜は大きく尻尾を振ってさらに少し進む。立っているところは灯りが届かなくなって、ふたりは夜闇に取り残された。

「……行こうか」

 少女は犬に言って、竜の後を追いかけた。隣に犬がぴったり寄り添い、さらに後ろには雪の鳥たちが続く。竜の灯りをたよりに、少女たちは東へ向かった。

 竜はどこへ向かうのか、ふたりはひたすら道無き道を歩く。周りは、やはり代わり映えのしない一面の白。月の光を反射して、ぼんやりと怪しい明かりで満ちていた。

 竜は迷うことなくずっと東へ進み続ける。少女は時折きゅるきゅる鳴る空きっ腹をさすったり、心配そうな視線を犬にやったりしながら歩いた。犬はちろちろ揺れる竜に魅入られたかのように、ひたすら竜の後を追った。

「ねえ、どこに行くの」

 少女は我慢ならなくなったのか、竜に尋ねた。竜はゆらりと尻尾を揺らして振り返りもしない。

「ねえってば。いつまで歩くの?」

 竜はやはり尻尾を揺らすだけだ。

「もう疲れたよ!休もうよ!」

 少女は叫んだ。すると今度は竜が振り返った。少女の泣きそうな顔をちらりと見ると、すぐさま前に向き直る。

「もぉう!」

 怒りに任せて少女が地団駄を踏んだ、その時。

 竜がはたと止まって、雪の上に降りた。犬も少女も、後ろで足を止める。歩いていた時は気がつかなかったが、はるか行く手の先では空が白み始めていた。

 太陽が昇るにつれて、青白く光る雪原はやがて朝日の朱に染まる。陽の作る景色を見て、少女はまっさらな地面が少し先で途切れているのに気がついた。もそもそと雪を踏んで、竜の隣へ足を進める。

 少女は崖っぷちにいた。両手を地面についておそるおそる下を眺めると、真っ白い景色の真ん中に、まるで絶海の孤島のような白いテントの集まりがあった。

 突然凍てつく空気を劈いて、そこからラッパが聞こえてきた。雄々しい音色は物音一つしない雪原に響き渡る。

「わ……わあ……」

 少女はまん丸な目を輝かせて、ほんわりと白いため息の塊を吐いた。ラッパの旋律はやがて二つに分かれ、輝かしい和音を奏で始める。吹き手は二人いるようだが、完璧な音の重なりはまるで一人で演奏しているみたいだった。

 聴き入っていた少女が、ゆっくりと立ち上がる。隣にいた竜を見て尋ねた。

「お前は、あそこを知ってたの?」

 竜は尻尾をぐるんぐるん回さんばかりに振って、足元の雪に潜った。

「あっ!?」

 少女が叫んだのもつかの間、じゅうっ!と雪が蒸発してもうもうと湯気が立つと、竜の姿はなくなった。そして次の瞬間、周りの雪が大きくもぞっと動く。少女と犬は慌てて一歩後ずさった。雪の下から長い尾が、大きな羽が、鋭い嘴が飛び出して、少女の数倍はある大きさの雪でできた竜が現れた。

 竜は小さな吹雪を巻き起こしながら羽ばたくと、宙に浮き上がる。ぽかんとしている少女を小さな両前脚で、尻尾を振る犬を屈強な両後ろ足でつかむと、そのまま崖から飛び立った。

 口を塞いで、声にならない叫びをあげる少女。風を受けて目を瞑る犬。竜は空を切って崖の上を飛び越え、キャンプのすぐ向こうに見える青い川のほとりに向かった。崖に近い川のほとりは茶色い大岩や土の山でごつごつしている。竜は大岩の一つに空から近づくと螺旋を描いて降下し、二人をそうっとその陰に降ろした。

 地面に降りた少女は、胸を押さえながら白い息を小刻みに吐く。犬も驚いたのだろう、しばらく四肢を踏ん張ってびくともしなかった。やがて少女がほーっ、と長いため息をつくと、犬はちらりと少女に目をやって、ふたり同時に岩の上に浮かんだままの竜を見た。

「あ、ありがとう」

 少女が震える声で言う。犬はペロリと鼻を舐めた。

 すると、竜は大きく首を引いて思い切り嘴を開いた。声のない叫びを上げたように見える。竜は岩の上から高く飛び上がり、そのまま振り返りもせず、もと来た崖の方へ戻っていった。巨大な姿がミニチュアみたいになり、豆粒のようになって、やがて雪飛沫をあげて崖の上へ消えた。

 ふたりぼっちになった少女と犬は、ぽかんと竜の消えた方を見ていた。

 しばらくして、

「もう、行こうか。さっきのキャンプは人がいるはずだよ。温めてもらおう、ね」

 少女はぼそりと犬に言って歩き出す。犬は竜の消えた方をまだ見つめていたが、やがてゆっくりと足を動かした。

 竜が降ろしてくれた大岩を回り込んで少し歩くと、キャンプはすぐに見えた。日はもう随分昇ってきて、真っ赤な朝焼けは白金の陽光へと変わりつつある。白いテントも白い雪も、夜の後には一層眩しい。

 少女は疲れきった身体の力を振り絞って、キャンプへ駆けた。そのいくぶん後ろを、犬がとことことついていく。近づくにつれてだんだん人声が聞こえてくる。少女と犬は、ほどなくキャンプにたどり着いた。


 そこは黒いお揃いの服を来た人々と、たくさんの馬や荷馬車で賑やかな、軍隊のキャンプだった。歩いているのは屈強な男ばかり。その一人に発見された少女は、すぐ彼らに保護された。

 テントの中に連れられた少女は柔らかな藁の簡易ベッドに座らされ、冷えた身体を何重にも毛布で包められ、男たちがこぞって温かい朝食のスープを少女に譲った。温まった少女は眠くなり、そのまま泥のようにベッドで眠った。

 少女の目が覚めたのは、もうあたりがすっかり暗くなった頃だった。犬が見当たらないことに気がついた少女は、キャンプ中を探し回った。しかし犬はどこにも見つからない。男たちに尋ねても、知っている者はいなかった。少女は諦めて、日が出てからキャンプの外を探しにいくことにした。

 昼間と同じベッドを借りてもう一度眠りにつき、一夜を明かす。少女は崖の上で聞いたのと同じ素晴らしいラッパの音で目がさめると、男たちの制止も聞かずすぐさまキャンプの外へ飛び出した。周りの雪原は見晴らしが良くて、真っ黒な犬なら見渡せばどこにいるかわかるはずだ。案の定雪原に犬の姿はなかった。いるとするなら、川のほとりの岩や土の山の陰。そう結論したのか、少女は川のほとりへ走って向かった。

 しかし、目につく岩や土の山の陰を全て探しても犬はいなかった。崖を見上げてみるものの、到底上へ探しに行けそうな高さではない。少女はしばらく辺りを見渡して悩んだが、やがて諦めてとぼとぼと帰っていった。キャンプに戻ると、男たちには勝手に外へ行くなと何度も言いつけられた。

 少女は仕方なく、キャンプで犬を待つことにした。手持ち無沙汰になった少女はその日のうちに、崖の上で聞いたラッパの音色の主を探し出した。やはりあの日のラッパ吹きは二人いて、どちらも例に漏れず屈強な男だった。少女が自分の出て来た街を言うと、二人はこの軍隊が少女の街があるところとは別の国から来たことを話した。国境の視察をするために、雪の中を旅しているらしい。少女は二人と仲良くなると、その日の夜にはラッパを握っていた。

 数日後、少女はラッパを持って、その軍隊と一緒に崖の下を去った。

 犬は結局、戻ってこなかった。


**********


 数年の月日が流れた。

 一面の新雪に、ざっくざっくと音を立てながら、たくさんの馬が蹄の跡を刻む。雲ひとつない晴天のもと、白一色の地に黒い点がいくつも隊列を作って進んでいる。馬には黒い軍服を着た男たちが跨っていた。馬の上で掲げた長い槍に、旗をたなびかせている者もいる。人の乗っていない馬は荷馬車を引いていて、そこには山のような荷物が幌をかぶっていた。そしてその荷馬車の一つ、荷物の山の陰に、黒い軍服を着た少女がラッパを抱えて腰掛けていた。

 隣には、狼に似た精悍な顔に三角耳をピンと立てた大きな黒い犬。荷馬車のへりに前足をかけて身を寄せる三角耳に、少女はぼそぼそと語りかけていた。

「――っていうことがあったのさ」

 少女は三角耳をちらりと見る。

「誰も信じちゃくれないだろうから、お前にしか話さないんだけど。お前みたいに真っ黒で、でっかいやつだった。お前と違って耳と毛は長かったし、全然吠えなかったけどね」

 三角耳はふんっと鼻を鳴らした。少女はぐしゃっと彼の頭を撫でる。

「もちろんおまえの耳と毛も好きだよ、そうじゃないんだ。聞いて欲しかっただけさ、私がここまで来る間に黒い犬と竜に会ったってぇ、そんだけの話」

 少女は抱えたラッパにほうっと息を吹き込んだ。

「そういえばもう全然戻ってないんだな、前いた街には……どうなって――」

 突然口をつぐむと黙り込む。三角耳が不思議そうに少女を見た。

「いや、どうせ誰も覚えてないな」

 三角耳は首を傾げた。少女はおもむろにラッパを構えると、悠々と勇ましいメロディを奏で始める。少女のラッパは隊列を前から後ろまで行き届き、さらには風に乗って見渡す限りの雪原に響き渡った。

「上手くなったねえ、嬢ちゃん」

 少女の荷馬車の横を馬で歩いていた男が、にっこり笑って少女に話しかける。少女はラッパを下ろして笑い返した。

「まあね。好きだからさ」

「嬢ちゃんが軍内に楽隊を作ってくれたおかげで、俺たちは毎日ラッパが吹ける」

 男は馬の横に下げたラッパを小突く。男もラッパ吹きらしい。少女も真似してラッパを小突いた。

「知ってらあ。そのために作ったんだ……いや、むしろ驚きだったよ。あんたたちみたいに上手いラッパ吹きがいるのに楽隊はないなんて」

「俺たちにゃあ思いつきもしなかったさ。あいつも俺も嬢ちゃんほど上手くも賢くもねえからさ」

 男はそう言って前を行く別の男を顎でしゃくる。少女がキャンプに来た時にラッパを吹いていたのは、彼とその男だった。少女は頷いて、

「はん。あんたたちより上手い人、私は聞いたことないね」

「まっさかぁ」

 男は笑った。

「お嬢ちゃんの方が数倍上手いぜ」

 少女は少し黙ったあと、片頬をくいっとあげて首を振った。

「そういうことにしとくよ……」

「よーし!」

 少女の声を遮って、隊列の先頭から号令が届いた。男と少女が同時にそちらを向く。

「総員止まれー!ここいらにするぞ!」

 がこん!と突然荷馬車が揺れて止まった。衝撃で少女の尻が一瞬浮き上がり、荷物の山が軋む。周囲の馬たちも、一斉に足を止めた。

 少女は荷物の山をくくりつけたロープを手早く解くと、荷馬車から飛び降りた。三角耳も隣にひらりと着地する。少女が荷馬車の幌を取ると、中から霜のついた藁が出てくる。取った幌を片手に、少女は馬から降りた男を振り返った。

「なあ、あんた!」

「あんだ?」

「ちょっとこれよろしく!」

 少女は幌を男へ投げた。

「見てきたいもんがあるんだ!すぐ戻る!」

 そう言って片手をあげると、ぽかんとする男と三角耳に背を向けて少女は走り出した。ラッパを抱えたまま、キャンプの準備を始める隊列をするりと抜け出す。その先には、過去に見たままのまっさらな雪原と――「彼ら」と別れた崖があった。

 記憶にある限り最後にあの犬と一緒にいた、川のほとりへ。崖に突き当たって左に曲がると、覚えている通りそこにはごつごつした大岩や土の山、その奥に凍えるような青さの川が見えた。

 少女は一瞬立ち止まって、深呼吸ではやる気持ちを鎮める。早足で河岸へ向かうと、竜に降ろされたあの大岩の陰に回った。当然のようにそこには何もいない。表情にわずかな落胆の影を落として、少女はゆっくりと川辺に進んだ。

 極寒の雪国にはあまりにも冷たい、川の流れる水音が静寂に吸い込まれていく。対岸をまっすぐ見つめた少女は、何か叫ぶように唇を開いた。が、しばらくそのまま言葉に詰まって――ため息とともに口を閉じた。

「おまえ……おまえ」

 ぼそりと呟く。少女はあの犬に、呼ぶべき名前をつけていなかった。

 そのかわり少女は持っていたラッパを構えると、数度息を入れて管を温めた。大きく息を吸い込み、煌びやかな旋律を吹き始める。崖から初めて軍のキャンプを見た時、朝焼けの中で聞こえてきた早朝ラッパだ。

 その瞬間、対岸に異変が起きた。川岸から離れた地面の雪がもぞっと動いて、水面を破るように雪の中から何かが飛び出した。四本足でこちらに走ってくる。少女はラッパを下ろすと、眉根を寄せて目を凝らした。

 近づいてくるそれは、大きな犬の形をしていた。たれ耳とウェーブのかかった長い毛をふさふさ揺らして、一心不乱に走る。

 犬はやがて少女の対岸にたどり着くと、ざぶん!とためらいなく川に飛び込んだ。大きな水しぶきの中に雪の身体が溶ける。犬の姿が見えなくなったその時、もう一度ばしゃんっと飛沫が上がって、川底の水の黒色になった犬が思い切り少女に飛びかかった。

「うっうわっ!?冷たっ」

 少女は仰け反ると思わずラッパを放って、犬を受け止めた。犬は雪に倒れた少女の腕から転がり出ると、ラッパを拾って少女のもとへ駆け寄った。

「お、おまえ」

 少女はびしょびしょになった服の前を触りながらゆっくり立ち上がる。目の前には、ラッパをくわえて得意げに尻尾を振る黒い犬がいた。

「おまえって……あの?どこに行ってたんだ……」

 少女は犬の前にかがむと、ラッパを受け取って犬を抱きしめた。歯の根も合わないほど震えながら、犬の首に頬ずりする。

「冷たくなっちゃったなあ、おまえ」

 犬は少女の腕をすり抜けると、きんきんの舌で少女の顔を舐め回す。そしてくるりと少女に背を向けて歩き出した。

「まってまって、どこ行くの!そっちは私たちのキャンプだよ」

 かじかむ足を縺れさせながら少女は立ち上がると、犬の後を追いかける。犬は今や小走りで、崖の下をまっすぐ進む。ついにキャンプの見えるところまでやってきて、ぱたりと足を止めた。

「ねえ、もしかして私と一緒に行く気なのか?それは……」

 犬は少女の言葉に振り向きもせず、口を開いて声なく吠える仕草をした。

 すると、突然崖の上からばらばらと雪の塊が落ちてきた。見上げると、巨大な雪の竜が崖の上からこちらを見下ろしている。

 少女は息を飲んだ。最後にあの竜を見た時の、さらに何倍も大きい。小さな家なら踏み潰してしまいそうだ。竜は翼でごうっと風をきって、快晴の空に飛び立った。キャンプの上をぐるりと回って、急降下すると少女の目の前に静かに降りた。

 羽の風圧で巻き上げられた雪を手で避けて、少女はおそるおそる竜を見る。はやぶさのような首をぐいっと下ろすと、竜はこうべを垂れて少女に視線を合わせた。

「あ……う……どうも」

 少女は言葉をひねり出す。

「おまえも生きてたんだな」

 すると竜は、少女に嘴を擦りつけた。よろめいた拍子に少女が嘴にしがみつくと、竜はそのまま首を上げる。少女の足が地面から離れて、竜の上に乗っかった。

「うわあああ!」

 少女が叫ぶと同時に、竜の足下から突然わあっと大きな歓声が上がる。必死で頭によじ登った少女が下を見ると、キャンプからぞろぞろと男たちが出てきていた。

「何してんだ嬢ちゃん!?」

「見ろ!なんだあれ!」

「すげえぞ!」

「大丈夫か!?」

 男たちは口々に叫ぶ。怖がる声も驚く声もあった。竜は後ずさると、崖を背に飛び上がる。すると拍手喝采が起こった。好き勝手な歓声の中に、やがて同じ言葉が伝播していく。

「竜使いだ!」

「あんた、竜使いなのか!?」

「本当にいるのかよ!」

 少女は揺れる竜の頭を少し滑り降りると、目の後ろ、小さな耳の穴に向かって叫んだ。

「おろして」

 竜は男たちの上を飛び越えると、川岸の近くに着地する。伏せて頭を地面につけると、少女はなんとか雪の上に滑り降りた。

「あ……ありがとう。ごめんね、騒いで……またいつか会いにくるから。あいつを頼むよ」

 少女は、崖の麓に腰を下ろしてこっちを見ている犬を指差す。竜は頭を上げて、雄叫びをあげる仕草をすると、小さい吹雪を巻き起こしながら飛び立った。犬が走ってきて、大きな竜の影を追う。少女の横を通り抜けた竜と犬は、川の対岸へ向かって去っていった。

 ぽつんと残された少女は、一目散に走り出した。

 少女がキャンプに着いたとたん、男たちが拍手しながら彼女を取り囲んだ。

「なあ嬢ちゃん、今のはなんだ?」

「すげえよあんた!竜使いだったのか!?」

「どうやってやるんだあれ!」

「もしかしたら本物の魔女なんじゃねえの!?」

 誰も彼もの顔がほころんでいる。目を輝かせている者もいる。少女は中途半端な笑みを浮かべて、「ど……どうも、どうも」と男たちを制止すると、人だかりを割って外に出た。

 男たちの好奇の目が追いかけてくる。少女はまだ荷馬車の横で待っている三角耳の黒い影を見つけると、隣へ走り寄った。

「準備しよう」

 三角耳に言うと、少女は荷馬車に足をかけて登った。眉間にしわを寄せた少女の難しい顔を、三角耳は見つめる。少女は藁の山の下から鍬を引っ張り出しながら、

「ふたりの秘密にしとこうな、さっきの話……私が竜使いなわけないよ。傲慢だろそんなの……そう思わない?それに、あの竜はきっと」

 少女は鍬を持つ手を止める。

「……いや、やっぱいいや」

 少女はそう言って、三角耳にしか見えない角度で苦笑いした。

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