スピカはきっとそこにある

 今夜もピイヨはクリューゲルヒルの丘に来ていた。

 丘のてっぺんはこの世のどこよりも暗い。まばらな森さえはげちょろけた茶色の地面に、枯れ枝をにぎって、ピイヨは座った。土に点をかいた。鳥一羽も邪魔することのない星の光を、ピイヨはそのまま地面にかいた。

 クリューゲルヒルの丘からは、いつもスピカがてっぺんに見える。ピイヨの空のてっぺんがスピカだったのかもしれない。乙女座の一等星スピカを真ん中に、全天星図が広がった。トレミーの八十八星座通りに、ピイヨは点を線で結ぶ。ふたごは木の星座にみえた。北斗七星は帽子にみえた。獅子は鴨にみえた。みえた通りに絵を描くと、ピイヨの全天星図ができあがる。でも、いつ何度見ても、スピカの光る乙女は乙女にしかみえなかった。

 クリューゲルヒルの丘を下りると、ピイヨの家がある。ピイヨの家には何人か人がいた。そこで食事をして、毎日紙に星を描いた。本も読んだ。本に書いてあった「望遠鏡をかついで星を観に行く」っていうのがしてみたいと思っていたら、家の人が望遠鏡を持ってきた。今日もピイヨは十センチレンズの望遠鏡をかついで、クリューゲルヒルの丘に行く。かついで行っても覗くわけじゃない。星からやってくる何万光年の光は、自分の目で受け止めたかったのだ。

 やがて春が終わると、スピカはどうしても見えなくなった。それでもクリューゲルヒルの丘はすごいもので、何ヶ月か待っているとまたスピカが帰ってくる。それまでは仕方がないから、デネブの青や、リゲルの青で我慢するしかない。シリウスの青も好きだが、ピイヨにとってほんとうの青はスピカの青だけだ。

 ピイヨは家だけじゃなく、学校にも行った。なんでか紙がたくさんもらえる学校で、ピイヨは全部の紙に星をかいた。よく怒鳴られたが、別にピイヨには関係ない。そういう日は家に戻ると、きまって家の人が大声を出してピイヨの星図を破っていった。人びとは口ぐちにこう言う。ピイヨは字も書けないね。ピイヨは本も読めないね。ピイヨは「ママ」も言えないね。ピイヨは何にも聞いていないね。ピイヨは何にもできないね。

 そんなわけはあるか。「できない」の意味はピイヨにもわかった。そんな日もピイヨはクリューゲルヒルの丘に行った。何ができなかったところで、ピイヨには何も必要ない。点と線と望遠鏡で、星を語るのに必要なものはぜんぶだ。星図は頭の中にさえあればいい。ピイヨに手足があるように、アルクトゥルスにも、デネボラにも、スピカにも手足があって、ピイヨと同じように空に星座を描いているに違いないとピイヨは思っていた。雨が降ってもピイヨは地面に星図を描いた。雪が降っても描いた。水や氷が天から降ってくるということは、水や氷の星があることの何よりの証拠だった。スピカが見える春にはよく雨が降るから、スピカはきっと水の星にちがいない。


 そうやって、やがて何年もがたったある日、クリューゲルヒルの丘はなくなった。いや、なくなったのではない。入れなくなったのだ。ピイヨには越えられない、高い柵が立った。昨日描いた星図はあそこに置き去りになっているのに。

 ピイヨは引っ越すことになった。引っ越し先は明るいところで、驚くことに夜になっても暗くならない。シリウスでさえ見えない。ピイヨはまた望遠鏡をかついで、新しいクリューゲルヒルの丘を探しにいった。そして、砂利の敷き詰められた空き地が新しいクリューゲルヒルの丘になった。丘というにはお粗末だが、星図が描ければそれで十分。ピイヨは毎日そこに来た。

 引っ越しても、やっぱり学校に行って、家に戻ることを繰り返した。行く学校も戻る家も、引っ越す前とは変わったが、まわりの様子はちっとも変わらない。ピイヨは足し算ができないね。ピイヨは友達の名前を覚えないね。ピイヨは何にもしないね。ピイヨはなんにもできないね。

 白い服を着た人がたまにやってきて、ピイヨの前で手を振ったり、四角いカードを近づけたりした。そうしてピイヨは耳が聞こえないんじゃないかとか、普通の人には見えないものが見えているんじゃないかとか、憶測を交わしていくのだった。スピカが他の誰にも見えないなんて素敵な話だったが、そんなことを聞くたびに、家の人は涙を流していた。ともあれ、どんなことがあってもピイヨは毎日クリューゲルヒルの丘に行った。ところが、ある夜クリューゲルヒルの丘に行って帰ってくると、家には誰もいなかった。

 別にかまやしない。ピイヨはひたすら星図を描いて、夜になったらクリューゲルヒルの丘に出かけた。しかし、何回か続けるうちに困ったことが起きた。家の人が戻ってこないから、あまりにお腹が空いてクリューゲルヒルの丘まで歩けなくなってしまったのだ。

 ピイヨは慌てた。食べ物はどこにあるんだっけ。どうしたら食べられるんだっけ。紙がなくなったら、どこに行けばいいんだっけ。丸くなった鉛筆は、どうやったら書けるようになるんだっけ。スピカを見に行くには、何が必要なんだっけ?

 ピイヨは冷蔵庫を開けて、テーブルの上で見たことがあるものを食べた。お腹はいっぱいになった。次はなくなった紙を探して、家中をあさった。一枚もない時は、どうすればいいんだろう。家の外に求めるしかない。どうやって求めればいいんだろう。鉛筆も全部ちびて、家にあるものは何もかもなくなってしまったように思える。

 ピイヨは考えた。ずっと考えた。驚くほど、ピイヨは何も覚えていなかった。家の人がどうしていたのか何も思い出せない。

 そうしている間に、夜が明けてしまった。せっかく歩けるようになったのに、結局クリューゲルヒルの丘には行かなかった。星を語るのにこんなにたくさんのものが要っただろうか。そんなことはなかったはずだが、今はなんだかこのままじゃクリューゲルヒルの丘には行けないような気になっていた。しかしこのまま家にいても、いっこうに解決しないのもなんとなくわかった。

 ピイヨは手元にあったありあわせの服を着て、ありあわせの靴をはいて、外に出た。知らないところばっかりだ。せいの高い信号機がこちらを見下ろしているように感じて、ピイヨは身を屈めて歩いた。どこへ向かうべきかはわからない。視界には自分の足が、行ったり来たりを繰り返す。足の裏の感覚が、それに合わせて地面を踏みしめた。地面を踏みしめる感覚で、ピイヨはふいに自分がある星の上に立っていることを思い立った。

 そうか、そうだ。シリウスもデネボラもみんな星であるのなら、クリューゲルヒルの丘の空にあった全天星図の中にはこの星だって描かれているはずじゃないか。ピイヨが星図を描けない時も、ここはスピカと同じ……

 ピイヨは声をあげて、はじめて自分にこう言った。

 だいじょうぶ、だいじょうぶ。スピカはきっとそこにある。

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