ディア・ミスターステップ


 山裾に広がる段畑の麦が黄金に色づく季節だった。生ぬるい秋晴れの空気が、段畑を見下ろす山の傾斜に建つ我が家にも立ち込めていた。この家は、旦那と二人で暮らすにはいささか広すぎる。大窓から入る午後の陽は、まだ日向ぼっこするには熱いが、それでもこれから冬に向かいゆく頃である。どこからか漂ってくるわびしげなにおいはごまかせない。誰もいない家には、隅っこのほうに、そういうわびしげな冷たい空気がたまっているような気がするのである。

 居間の端で揺り椅子をぎいこ、ぎいこやりながらぼうっと惚けることしばらく、不意にぴんぽんとチャイムが鳴った。やっ、立ち上がって玄関を開けると、そこには長らく前に見たきりの、髪の短い太ったおばさんが悲しそうな顔に深いしわを刻み、一枚の小さな封筒を大事そうに両手で持って立っていた。

 おばさんの言うには、つまり、私の古い知り合いが病気で死んだらしい。仲の良かった彼ともかれこれ何年も会っていなかったので、もう二度と会うこともないだろうとは思っていたが、死んだと聞くとずんと重い。彼が死ぬ前、私宛にこっそり書いた手紙をおばさんはわざわざ持ってきてくれたのであった。開けて内容を確認するのも忍びなかったそうだ。

 手紙を受け取って揺り椅子に戻り、封筒に書いてある名前をしげしげ眺めた。親愛なるミス・ホーネットへ――ジョン・パルヴィエット・ステップより。パルヴィエットという彼のミドルネームは高貴な感じがしてとても好きだったのだが、彼はいつも自分には釣り合わないとか言ってジョン・ステップとだけ名乗っていた。パルヴィエットがないと、どうにも平凡で間が抜けている。平凡で間抜けている方がいいらしい、彼はそんな男だった。その彼がわざわざきっちりミドルネームまで書いた封筒で手紙をよこすのだから、よっぽど改まった手紙なのだろう。大事なことを死ぬ前にだけ言い残すのはずるい。辞世の句を送りつけられる身にもなってほしいものである。のりづけしただけの飾りっ気ない開け口をべりべり剥がす。中身を見る前に小さく一息ついて、封筒を開けると、二つ折りになった象牙色の便箋がぺら一枚だけ出てきた。封筒を膝に置いて便箋を広げる。ごく細い、罫線の幅にきっちり収まる大きさの字で乱れなく手紙は書かれていた。

“親愛なるホーネットさんへ。お久しぶりですね、一体何年ぶりでしょうか。急ぎどうしても伝えたいことがあったので、私は手紙を書こうと思い立ったのです――”

 次の行に目を移したとたん、突然ふわっと体が浮いて目の前が白い光で満たされた。まぶしくて瞼をぎゅっと瞑る。ふかふかのベッドの中で夢を見ているように、温かい風にふよふよと体が巻き上げられる感覚がしばらく続いた。そしてまた唐突に、かかっ!と音がして、両足が固いものにがっちりくっついたようだ。そろうっと目を開けると、そこは今いた家の中ではないが、えらく見慣れた場所であった。私はそこに立っていた。

 古い記憶をごちゃごちゃやって、ここがどこだったか思い出す。ああ、思うに、たしかここは私が十年以上前に住んでいたアパートの狭いエントランスホールである。生ごみの臭いただよう、打ちっぱなしのコンクリートでできた薄暗いホールの向こうには、金色の麦畑が一面に波打っていた。妙に右肩が重いと思って自分の姿を確かめると、ここに住んでいたとき通っていた職場に着ていく黒のスーツを着て、ヒールのパンプスを履いて、ぴかぴかの黒いかばんを右肩から提げている。左手の腕時計を見たら、ちょうど仕事に向かう時間であった。するとあたかも当然のように、私の足がかっかと職場への道を歩き出した。

 どうやら十年以上前の身体に戻ったようだ。年取った今の身体にいては想像もつかないほど全身が軽くて、一歩踏み出すたびにすごい速さで前に進む。このころまだ長かった髪が、頭の後ろでくくられてさわさわと麦畑の風に揺れていた。心身に染み付いた通勤ルートを、私は一切合切の疑いなく、昨日もこうしていたかのような心持ちに若い身体の感覚を享受しながらずんずん歩いた。朝の小寒さと、霧の名残がひんやり顔の化粧をさわった。行く手では麦畑が途切れ、道は山の中へと入っていく。その山の入り口に、小さなバス停が見えた。

 見慣れたバス停は、錆びたトタン屋根の待合所と自転車置き場が落ち葉をかぶって寂しく立っているのみ。バス停に着いて時刻表を眺めると、まだバスが来るまでに十分あった。待合所のベンチに座ると服が汚れるので、立ったまま待つ。晴天には真珠色のヴェールにも似た薄い雲がかかり、耳を澄ませば湿気た落ち葉が腐る音まで聞こえる気さえした。

 ぼうっと待つこと五分ほどだろうか、ぎいっ、がしょんと音がして自転車置き場にだれかの自転車が止まった。目をやると、古ぼけて色あせた革鞄に時代遅れの茶色いスーツを着た、猫背気味の男が立っている。ぱっとしない栗色の短い髪は七三分けになでつけた形跡があるが、今はまったく好き勝手乱れていた。黒くもなく白くもない、形容しがたいほど特徴のない色の肌に頬だけが朱っぽく上気し、四角い銀縁眼鏡の奥ではこげ茶色の細目がへんにゃりと笑っていた。まるで山中の人知れぬ地蔵が人となって歩いているような風貌だ。

「遅いね」

 私は彼にそれとなく声をかける。ふっと自分の顔が笑ったのがわかった。十年以上前の私がそうしていたのだろう。すると彼は、笑った顔をさらにくしゃくしゃにしてこっちに向かってきた。

「疲れたあ」

「もう?」

 くすくす笑ってやったら、彼は鞄をかけていない右手をぶんぶん振った。

「こないだの台風のせいで、いつもの道通れないんだよ。迂回する道は急な上り坂があるから、朝からは、ちょっときつい」

 軽く高く丸い、少年のような声である。横に並んだ彼の顔は私と同じ高さにあり、こっそりじっと眺めていると、散らかった前髪が目じりのまつ毛にちょっと絡んでいるのが見えた。目にかかる髪を邪魔そうにするそぶりもなく、彼は道の反対側に茂る枯れかけの木の葉と天気の良い空を眺めて、さわやかなため息なんぞをついている。今日もいい天気だなあなどと言いたげである。こげ茶の瞳が空のヴェールの色にきらっと光って見えた。ほどなくして、彼の向こう側、山の手の方からベージュ色のバスがやってきた。

 台風の時にぬかるんだ道を通ったのだろう、バスは泥だらけだった。ドアが開くと、彼はしぐさでお先にどうぞ、とやった。バスに乗り込むと中には誰もいない、いつも貸し切りだ。前の方の一人がけ席を通り過ぎて、後ろの方の二人がけ席に陣取る。彼はただ単なる何気ない気づかいでお先にどうぞ、とやるのだろうが、私にとってこれは好きな席を選ぶ特権でもあるのだ。他にたくさん席があるのに、やっぱり予想通り彼は私の隣に座った。バスが発車する。窓の外の景色は一瞬で黄金に染まり、麦穂の波より速いバスに乗っているとまるでツバメになったかのように心が軽い。ふと振り返って彼の方を向くとわずかに汗の匂いがして、お地蔵も汗をかくんだなあと思った。

「今日も残業?」

 彼がわざわざ私の目を見てそう言った。私はぷっと吹きだした。

「まだわかんないよ」

「そりゃそうか」

「でも、明日予定があるから残業はしたくない」

「街に行くの?」

「うん」

「そうか。いいねえ」

 彼はちょっと真顔になって、バスの運転席の方を見つめた。

「朝が早いわけじゃないんだ、帰ったらお酒飲んで早く寝るの。そうすると次の日調子がいい。だから早く帰りたいんだけどねえ……」

 私が彼に向き直って言うと、彼もこちらを振りむいた。目を丸くしている。

「朝じゃないとバスがないんじゃない?」

「いや、迎えに来てもらう。昼くらいに」

「例の友達でしょ」

 彼はわかったぞ、とばかりに口角を上げてみせる。まだ朱く上気した頬が目立つ。私は鞄を放り出して、前の席の背もたれにもたれかかった。

「そう、大学の頃の。だから昼までは暇」

「昼ごはん」

 彼がぽろりとつぶやく。私は首をかしげて、

「うん?」

「昼ごはん、食べてから行く?」

「うん」

「じゃあ、一緒に食べる?」

 彼はなぜか正面を見つめていた。わははと私は笑った。

「この辺に食べるところなんかある?」

「あるよ」

 彼はおおまじめである。

「この間君の家の方にできたんだよ。僕、そこの……スパゲッティが食べたい。うちの隣のおばさんが美味しいって言ってた」

「いいよ」

 腹を抱えたまま、私は右親指を立てた。

「じゃあ明日の十一時にバス停ね」

「オッケー」

 彼の顔はほころんでいた。頬はさらに朱くなって、瞳は田舎の夜の星を砕いてなお足りないほどきらきらしていた。まさかそんなにスパゲッティを食べられるのが嬉しいわけでもあるまい。いや、彼なら本当にそれだけで喜んでいるのかもしれなかった。楽しいものにも、嬉しいものにも、美しいものにも、快いものにも目がない、彼はそういう人間である。パンドラの箱が開いた時、箱の中に残ったのは彼だったのではないかとさえ私は思う。彼のそばにはいつも初夏あたりの薫りいい風が吹いているみたいだった。

 二人無言で窓の外を眺めていると、バスはやがて駅に到着した。彼を先にして、定期券を車掌に見せるとバスを降りる。彼とは駅でお別れだった。彼の職場は駅前のちゃちいビルで、私の職場はこの駅から電車に乗って小一時間かかる。しょせん、同じ時間に同じバス停から同じバスに乗るだけの関係だ。私はパンプスのヒールが欠けそうなくらい、跳ねるように駅へ向かった。

 その夜は、結局残業もなく早く帰ってこれた。彼に言った通り私は職場の近くで酒の缶を買い込み、一人で開けては呑んで、すこんと気持ちよく寝た。


 次の日は雨あがりだった。夜のうちにたいそう降ったらしい、窓の外は至るところがびちゃびちゃの泥だらけ。十年以上後、手紙を読む前の自分の記憶が、この後大変なことが起こるんだったとよみがえっては訴えてくる。しかし彼の約束を破るわけにもいくまい。この後のことなど知らない十数年前の私が妙に浮かれている。それにつきあって、私は足音高く家を出た。

 バス停には、待ち合わせの十五分前に着いた。彼はもうすでにそこで待っていた。私を見ると昨日と同じようにへんにょりと笑う。今日の彼はけば立った緑のニットを着て、やっぱり映えないラクダ色のズボンを履いていた。髪もまた、昨日と違うのは七三になでつけた形跡がないことくらいである。私たちは軽く片手をあげてあいさつを交わすと、どちらからともなく並んで、私の家の方向へ戻り始めた。歩きながらしょうもない話をした。彼はこれから行く店の、どのスパゲッティがどう美味しいのか、彼の隣家のおばさんから聞いた話を熱心に私に話した。今更説得しなくても、理由がなくたって一緒に昼ごはんくらい行くのに、と言った方がいいのかと思うくらいだった。ただし、やっぱり昨日のようにちょっと朱くなった彼のほっぺたをもう少し見ていたかったので、私は面白おかしく彼の話を聞いていた。

 バス停から歩いて私のアパートを通り過ぎ、さらに十分ほど行ったところに目当ての店はあった。ど田舎を歩いてきた直後では、目が回りそうなくらいおしゃれで新しい、白木づくりの小さなカフェだった。二人で勇み足になりながらカフェに入り、道に面した窓のそばのテーブルに座る。店内の席は近所の見知った顔で半分くらい埋まっていた。彼は迷うことなく話題のスパゲッティを頼んだので、私も迷うことなく同じスパゲッティを頼んだ。

 のんびり仕事の話をしながら、料理が来るのを待つ。彼は昨日の仕事で重要書類の送り先を間違えて、麦畑の向こうの街にある郵便局まで二往復したという。ドライブは楽しかったかと聞いたら、顔をくしゃくしゃにして心底嬉しそうに、麦畑がきれいだった、雁の隊列を見た、道端を幼い三兄弟が散歩していて可愛かった、などぽつりぽつりと控えめに語った。私はにやにやした。途中で料理が運ばれてきて、その話は中断された。小エビがわんさと入ったペスカトーレを、彼はゆっくり、夢中になって食べた。

「甘いものでも……」

 やっとスパゲッティを食べ終えた彼が、空いた皿の端を見つめながら言った。スパゲッティは美味しそうに食べていたのに、妙に真剣な顔つきである。眉間に皺など寄っている。

「食べる?」

「そうね」

 私はそれさえも面白かったので、少し時間をかけて考えるそぶりをした。彼が目を上げたのを見計らって、

「プリン、食べる」

 と言ったら、彼はすっと口元を緩めると、素早く店員を呼んでプリンを二つ注文した。

 数十秒。無言の間が続いたあと、何かをしゃべる間もなくプリンが来た。彼は神妙な顔つきでプリンの器がテーブルに置かれるさまを眺めていた。店員が去っていくと、彼は再び少しずつ味わってプリンを食べた。私も彼に合わせて食べた。

 かちゃん、とスプーンを置く音を最後に、二人同時にプリンを食べ終わった。彼の顔色をみるに、あまり味が気に入らなかったのだろうか。眺めていると、彼は小さく口を開いた。

「ホーネットさん、時間大丈夫?」

 友達のことをすっかり忘れていた。腕時計を見ると、待ち合わせまで五分しかない。

「全然大丈夫じゃない、ごめん」

 私は急いで立ち上がった。お代を財布から出して支払いを頼むと、彼は目をぱちくりぱちくりした。その後の彼の言葉を、ちゃんと聞いている時間がないのがすこぶる惜しい。そのまま走って店を出てしまった。

 友達は家の前に迎えに来るので、彼と歩いて来た時に十分かかった道を私は走った。道半ばまで来たところで、ぶろろろとディーゼル車の音が後ろから近付いてくる。友達がもう来てしまったようである。私は諦めて速度をゆるめ、歩きながら息を整えた。ほどなく緑のディーゼル車が横に止まった。運転席で見知った若い男が、乗りな、とジェスチャーする。十年以上後には私の旦那になっている人である。

「おーい!ホーネットさーん!」

 助手席に乗ろうとした時、ふいに後ろから彼の声がした。振り返ると、彼が追いかけてきているのが豆粒みたいに見える。私は大きく手を振った。

「お会計してくれてありがとう!」

 叫び返して助手席に乗り込む。運転席の友達が、だれ?と訊ねてきたので近所の知り合い、と答えた。発車するディーゼル車のドアミラーに、ちょっとだけさっきより大きくなった彼の姿が映りこんでいる。彼はまだ追いかけてきていた。焦ったような、のんびり屋の彼にはめずらしい顔色をしている。待った方がよかろうかという気持ちが心をよぎったが、運転席の友達が一緒にご飯食べてたの?と訊ねてくるものだから、そう、近くに新しいカフェができてさ、などと答える。その間に車はスピードを上げて、彼の姿はどんどん小さくなり、やがて山の中へ向かうカーブを曲がると見えなくなった。彼は見えなくなる瞬間まで、私たちの車を追いかけてきていた。

 この時ちゃんと車を降りて、彼に答えていればよかったのにと、十数年後の私は車の中で幾度も幾度も思った。当時の私がすることは、十数年後から舞い戻った私にはどうにも変えられないらしかった。私はばかみたいに、当時の私がすることを、ぐちょぐちょにぬかるんだ細い山道を排気ガス吹きだしながら走るディーゼル車の中で見守っていた。そして、記憶通りのことがまったく記憶通りに起こる。山道を登り始めて少ししたところで、水を吸ってもろくなった道がディーゼル車の重みに堪えきれず、ずぞおお、とんでもない音を立てて崩れたのである。上と下がひっくり返り、天と地が交互に入れ替わる。私も運転席の友達もめちゃくちゃに喚いた。体中隙間なくぶつけて粉々になりそうだった。酒樽よろしく山の斜面を転げ落ちたディーゼル車は、何かにがつん!とぶつかって止まった。同時に私の身体の中からめきっと嫌な音がした。

 車内は恐ろしいほど静かになった。しばらくして、こつん、こつん、こつこつこつ、車の外装が鳴ったかと思うと、ばしばし激しい雨が降り出した。これではたまに上の道を通る人がいたところで、いくら大声を上げても気づいてはもらえまい。自力で助かろうにも一番近い公衆電話はもっと山の上か、私の家の近くにしかないのである。そのうえ私のひざが砕けているのはわざわざ動かさなくてもわかったし、隣の友達を見ればそっちも似たり寄ったりな状態だということがすぐにわかった。私はめそめそ泣きだした。友達は私のことを慰めてくれたが、しばらくして、どうしようもないんだから泣くなとかりかりしながら言った。私はあきらめて黙り込んだ。頭や腕の打撲傷とミラーの破片でできた切り傷からじわじわと血が流れて、次第にくらくらしてくる。気分悪さで吐く前に眠ってしまおうかと、目を閉じたそのとき、遠くから救急車のサイレンの音が聞こえた。ああ、こっちにこい、上の道から覗くだけでいいから、近くを通るだけでもいいから、と思っていると、どうやら本当にこっちに近づいてくるらしい。やがてサイレンの音は雨音をつんざくまでになり、あたりの木々に反響してぐわんぐわん空気が揺らいだ。

「ホーネットさあーん!」

 耳慣れた彼の甲高い声が、サイレンの合間にちらと聞こえたような気がした。直後にサイレンの音が上の道で止まる。助かった、という確信と同時にぷつんと記憶が途切れた。


 あのあと、私たちは麦畑の向こうの街にある病院まで搬送されて、そこで目覚めた。体力の消耗とストレスで眠りこけていただけで、もちろん命に別状はない。ただ全身くまなく打ち身で、膝やら肩やら肋やらの骨が砕けたので、しばらく安静のため入院することになった。どうせ一人暮らしの家に帰っても動けなくなるのがおちである。れいのディーゼル車も、数週後には回収されて廃車になる運命にあることを私は知っていた。

 白いベッドの上で寝起きし、病室の大きな窓からさんさん入ってくる黄色い秋の陽を浴びながら、たまに車椅子に乗って同じ病棟にいる友達に会いに行っては、いやはやさんざんな目に遭った、しかしこの程度で済んで運が良かったのかもしれないと、今更どうもしようのない話をして数日を過ごした。全身の大きな骨がくっついて来るころにもなると見舞いにくる知人もなくなり、病室にくるのは仕事を持ってくる同僚と検査をせっつく看護婦くらいしかいないので、だんだん嫌気が差してきた。ある晴れた夕方、一刻も早く退院したいがためだけにベッドの上できっちり安静を保っていると、こんこん、ノックの音がして扉の向こうからしゃがれた看護婦の声が面会です、と聞こえた。また仕事が来たのか、昨日来たばかりなのに、と思っていらいら返事をしたところ、開いたドアから入ってきたのは仕事の同僚でも街からきた知人でもなく、おっかなびっくりいつもバス停で会う彼だった。

「久しぶり」

 彼はいつもより猫背で、最後に会った日と同じ毛羽立った緑のセーターを着ていた。それしか私服を持っていないんじゃないかと私は思ったが、とうていからかって良さそうな調子ではなかったので黙っておいた。彼は入ってきた時の位置に立ったまま、力なく右手を振ってみせると言った。

「調子はどう?」

「まあまあ。早く退院したいくらい」

「そっか。友達は?」

「あさって退院だって」

「よかった」

 彼はちょっとだけ口角を上げると、左手に提げている小さな茶色い紙袋を持ち上げて数歩こっちに近づいてくる。

「これ、お見舞い」

 私は折れていないほうの手でそれを受け取る。中を覗くと、広口の小瓶に入った見覚えのあるプリンが二つ、つつましやかに並んでいた。

「これ、あの店のプリン?」

 私が目を上げて彼を見ると、彼は恥ずかしそうにはにかんだ。

「うん。美味しかったから買ってきた」

「美味しかったの?あんまり好きじゃないのかと思ってた」

「え?そんなに見えた?」

 彼は目をぱちくりする。いよいよいつもの通り面白くなってきた。

「うん。なんか、プリン食べてるあいだずっと変な顔してたじゃん」

「ああ、いや、違うよ」

「違うの?じゃあプリンがあんまりにも美味しかったから?」

「いやいや……そんなことはない」

 どうも釈然としない。いつもの彼なら笑っていい加減に返してくるところだ。私は胃もたれしそうな気分になった――この歯切れ悪さの原因も、彼が先日一緒にプリンを食べたときから何を考えていたのかも、結局十数年後までわからずじまいのままなのを知っていたからである。なんなんだ、私だって彼が困っているときは多少相談にくらい乗れるのに、と当時の私が心の中でぶつぶつ言っていたが、一方十数年後の私は何が楽しくて二度もこんな場面に出くわさなきゃいけないんだと叫んでいた。そしてやっぱり、口をついて出たのは当時とまったく同じ、つっけんどんな台詞だった。

「今日は、それだけ?」

「いいや……うん。まあね」

 彼はらしくなく口ごもると、背中を伸ばして私を見た。お地蔵さんの顔がぱっと窓からの陽光で金色に照らされる。ありきたりなブラウンの眉がほっと下がるさまが、麦穂の波と重なった。

「ごめんね、あの時もうちょっと早くあっちの道は危ないって気づいてれば良かったんだけど」

「それを気に病んでたわけ?」

「まあ、そりゃ、少しは、さ」

 彼はへへ、と空笑いした。それだけじゃないくせに、じゃあ一緒にカフェに行ったあの時は何を考えていたんだ、と十数年後の私は問いただしたくてうずうずしたが、当時の私はそれをいとも簡単にあきらめて、

「私だって、追いかけてきてくれた時、ちゃんと止まって話を聞いておけばよかった。むしろどうして止まらなかったんだろうね。君、あんな見たことない顔してたのに」

 などのうのうとのたまった。

「そんな顔してたっけ」

 しかし彼は、今度は心から笑ったようだった。

「車には追いつけないってわかってたからね、やっぱり遅かったんだよ。僕、君が麦畑のほうの街に行くもんだとばっかり思ってたんだ。山の向こうの街に行くつもりだったんでしょ?車が来るのが見えるまで考えてもなかった……」

「そりゃ、言ってなかったもん」

 当時の私は、彼の言うことを無神経に笑い飛ばした。

「でも、もしかして救急車を呼んでくれたのは君?でしょう?」

 すると、彼は何度もうなずいた。

「そうだよ」

「カフェからずっと追いかけてきてたの?」

「まあね。ホーネットさん、あんまりあっちの方へは来ないって言ってたでしょ。大雨の後はよく崩れるんだ、あそこ」

「公衆電話のあたりからあそこまで、二往復もしたの?」

「二往復くらい、ふつうだよ」

「さすがにそれはないでしょ」

「ふつう……は言い過ぎたかも。ちょっと大変だったかな」

 彼は肩をすくめた。そして、くるりと踵を返してドアのほうへ近づく。

「帰るの?」

 当時の私があわてて声をかけた。彼はこちらを振り返る。

「うん」

「ありがとう、来てくれて」

「それは今日のこと?」

 彼の顔にいたずらっぽさが覗く。当時の私はこっそり胸をなでおろした。十数年後のほうの私はますますいきり立った。聞くなら今しかない。このあいだから何を考えているのか、何を思いつめているのか、それだけじゃないはずだ。今だって、彼の目はあんなに重たい。彼の背中はあんなに小さい。まるで麦穂色の細い三日月のように、暗いところに誰にも見えないものを隠し持っている。それなのに当時の私は、彼の垣間見せる冗談めいたいたずらっぽさに騙されて、この間のこともさ、あれで運悪く会えなくなっていたらさすがに寂しいね、などと言うのだ。すると彼は、また会えるといいねと返して、私は会えるでしょ、と笑って答えるのだ。いつも約束して会う仲ですらないから、そんなことを言う。

「この間のこともさ。あれで運が悪くて会えなくなってたら、さすがに寂しいね」

 やっぱりだ。そうこう考えている間にも、当時の私は記憶どおりのことしか言わない。彼はすると、ふたたび背筋を伸ばして、いつもバス停で見るようにへんにゃりと笑った。

「そうだねえ」

 あれ、と思った。十数年後の私は息をひそめて彼の声に聞き入った。

「僕も、そう思う。寂しいと思う。好きだからさ」

「好き?」

 十数年後の私は、ぽろっと聞き返した。

「な、なにが?」

 彼の顔はいつの間にか朱く上気していた。

「ホーネットさんのことが」

 そのとき、窓からの陽光が突然かっと輝いて、私の視界は真っ白になった。彼の姿も瞬く間に掻き消えた。そんな、そんな、そんなことがあってたまるか!声の限りわめいた。十年以上前に戻ったときと同じ、ふかふかの布団に包まれるような心地よさが、四方八方から容赦なく私を襲う。そんな、そんなことを言うのなら、私だって言えたのに。私だって言ったのに、あのあとすぐに言ったのに!ぼてぼてと涙が落ちて、体のいたるところを濡らした。悲しいくらい硬いものの感覚が尻の下に戻ってきて、問答無用で真っ白な視界が開ける。私は、手紙を読む前と同じ揺り椅子に座って、膝の上に封筒を置いたまま、便箋に顔をうずめて泣き叫んでいた。私は知っている。十数年前、彼と二人でまた会えるといいね、会えるでしょ、と会話を交わして別れたあと、私は入院が予想より長引き、その間に彼は転勤が決まって、さっさとあのあたりから去っていったのを、私は知っている。そして、私だけがばかみたいに同じ山のふもとに残った。職場だってぜんぜん近くなかったのに、十年以上もずっとこのあたりに居残ったまま、家だけが大きくなり、そして私だけが人妻になった。彼が、死ぬ前に言い残しておきたかったことが、これか?本当に、こんなことだけのために?パルヴィエットの名前まで使って、本当に、そんなことのためだけに、ジョン・パルヴィエット・ステップなんてきっちり表に書いて、それでよかったと言うのか。彼の愛した平凡さと間抜けさを全部捨て去ってまで――私は顔を上げて、便箋の文面を見た。インクは私の涙で全部にじんで、細こい彼の字は一文字たりとも読めなくなっていた。

 私は彼からの手紙を封筒にしまって、びりびりに引き裂いた。おおかた形がなくなるまで引き裂くと、やっ、揺り椅子から立ち上がって、家の玄関を出て、向かいにある麦畑にそれを全部ほうり捨てた。

 


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