ダイブ・イン・コンサート!
ところで、オレは失業した。
つい二週間前までは有職者だったんだ。害虫退治の会社で実働課社員として働いていた。専門はシロアリ退治。カエル急募って話を聞いて入社試験を受けたんだが、まあまあ、面接はゴリ押しだった。なんせオレは頭から尻までイボガエルだが、足だけ人間だし、なぜか舌も人間だ。カエルの跳躍力もないし長い舌もない。オレにはイボしかない。
害虫退治に必要なのはカエルの長い舌なので、最初は舌の長さを隠して他の社員とバリバリ出張していた。だけどそんなだから、だんだん舌の長さも誤魔化せなくなってきて、ついにはハズレ依頼ばっかり引かされるようになった。
クビになる前の最後の仕事なんかは最高にクソッタレだったよ。アリが出て困ってる、何とかしろって依頼があったから、ヘタクソな運転で頑張って管轄外の地域にある依頼者の家まで出向いた。そしたら依頼者の家の隣から、アリの頭したやかましい迷惑爺さんが出てきたんだ。依頼者の家にはアリなんかいねえさ。そんなもんオレの仕事じゃないし、腹が立って警察に通報したらクビになった。
退職金は出なかった。本来給料日なはずの日には収入もない。貯蓄もするたちじゃない。そんなだから、オレは非常に金に困っている。特に今は。
なぜか?
オレには一人親友がいて、そいつは両肩から先がアフリカゾウの鼻なんだ。そんで、両鼻の先それぞれ二つの突起で器用にピアノを弾く。色々あって大変だったみたいだが、最近やっとちゃんとした音楽メディア事務所に、お抱えの演奏者として入ることができたらしい。担当のマネージャーまでついたそうだ。
事務所所属になったそいつの初めてのコンサートが三日後にあるので見に行ってやりたいところ、コンサートホールの席は一番安くて三千円。オレの所持金は千円。これじゃあと二日分の飯代も考えれば、ホールまでの往復交通費も出せない。
親友だからってコンサートの席代をおまけしてもらうわけにもいかないし、三日後までになんとか金を用意しなきゃいけないわけだ。当然のように再就職は全然うまく行っていない。最悪他の友達に借りるしかないが、極力それはしたくない。どうしたものか。
うだうだ考えながら、金を用意する術もなく二日が経った。
陽は落ちて、とあるアパートにある自室の窓からは車っ気のない二車線道路と、蛾だらけの白い街灯が見える。向かいの飲み屋は珍しく静かで、その右隣のコンビニの前ではバッタ足の女子高生が一人、タバコをふかしていた。
オレは窓際のベッドに座り、狭くてモノがひしめく自分の部屋と窓の外を交互に眺めながら、背中のイボを磨いていた。もう友達に金を借りるしかないかな。職を見つけたらすぐ返すんだ。どうせ次の職が見つかるまで、あと五百円になった金で生き延びられるわけがない。借りなきゃならないのも時間の問題だったんだ。職も金もないオレには、本当にイボしかない。
と思っていた矢先、突然携帯が鳴った。電話だ。イボを磨く手を止めて番号を見ると、知らない携帯からだった。通信料がかかるからハローワークに電話するのも渋っているところなので、無視を決め込むことにした。
が、よく考えたら、かかってきた電話はかけた側に通信料がかかるんだったっけな。オレは電話に出た。
「もしもし?」
『もしもし、あ、あの、鎌田さんですか?』
「そうですけど」
『よかった!どうも、ご友人の茜部さんのマネージャー、桑原と申します』
上ずって早口の男の声だった。どうやら、某親友に事務所でマネージャーとしてついている者らしい。
「はあ。茜部に何かあったんですか?」
『それがですね……茜部さんのコンサートが明日開催されるのはご存知ですか?』
「ええ、そりゃ」
『実は、茜部さんが鼻風邪を引かれたみたいで……』
「へえ」
『くしゃみのせいでゾウの鼻から鼻水が止まらなくて、ピアノが弾けないとおっしゃるんですよ。だから明日のコンサートには出られないと……』
オレは体を傾げた。
「大問題じゃないですか」
『そうなんです。鎌田さん、なんとかしていただけませんか?』
「なんとか?オレは医者じゃないんですよ」
『ええ、分かってます。なんなら医者にも行ったんですが、こんな軽い鼻風邪なら三日あれば治るって言われてしまったようで……三日で治ってもコンサートは終わってしまいますから困ってるんです。茜部さんが言うには、医者の他になんとかできるなら鎌田さんだと』
どういうことだ。三日で治るって言うだけ言って帰す医者もだが、そこで鼻水止めの薬だけでも要求しない茜部も茜部じゃないか。
そのうえ、何でオレが最後の手段なんだ。
「そりゃあ何とかしたいところですけど、何です。オレは明日コンサートが始まる前までに茜部に会いに行って、鼻風邪を治せばいいんですか?あいにくオレは今交通費も持ってないんですよ」
『交通費なら事務所の経費からお支払いいたします。お願いですから来てください、来るだけでも構いませんから!コンサートは十六時開演ですので、午前中に』
電話口の声は時々裏返って、桑原がやけっぱちになっているのが伺えた。オレはだんだん可哀想になってきた。まったく、明日オレに予定でも入ってたらどうするつもりだったんだ。
「わかりました、そんなにおっしゃるなら行きますよ」
結局、オレはコンサートホールに出向くことになった。
帰りの交通費は現地で出してもらうとして、片道の電車賃だけならなんとか払える。一時間近くかけて、ホールの最寄駅に着いた。
件のホールは駅の目の前で、ボロい駅舎の屋根から煉瓦造りの巨大な建物が見えている。二つしか改札口がないわりに利用者が多くて、出口には列ができた。最後尾に並んだオレが改札口を出た時、突然駅舎の陰から声がかかった。
「すみません!鎌田さんでしょうか!?」
「えっ?」
振り返ると、きっちりスーツを着た小柄な男があせあせとこちらに近づいてくる。人間の頭の横にイカのミミ、三対の手と二対の足のところどころに吸盤があって、服を着るのが大変そうだなと思った。
「いやあ、本日はわざわざありがとうございます!私、茜部さんのマネージャーの桑原と申します」
桑原はさっとスーツのポケットから名刺を取り出して、恭しく渡してきた。オレはそれを片手で受け取ると、名刺なんか初めてもらったもんだから、裏も表もじっくりと眺め回した。
しかし桑原が早く出発したくてうずうずしているようだったので、俺は名刺を適当に尻ポケットにしまう。こいつは今度友達に自慢させてもらおう。何でもいいから、さっさと用件は済ませたい。
「んで、茜部はどこです?コンサートホールですか?」
オレがそう言うと、待ってましたと言わんばかりに桑原は顔を輝かせた。
「そうなんです!ただちょっと塞ぎ込んじゃって、朝からトイレにこもったきりですが!とにかくこちらです!」
桑原はホールの方へ手を差し伸べながらすたすた歩き出した。案内されなくても見えているんだが。
桑原について歩くことほんの二分ほど、コンサートホール前の庭に着いた。レンガで固めた広場の真ん中に小さな噴水、周りにある申し訳程度の植木では緑が茂っている。巨大なホールの影が噴水の近くまで迫っていて、そのずっとずっと奥の薄暗がりに小さな入り口があった。きっとスタッフ用の通用口だろう。
ついていくままにその通用口をくぐると、白い無機質な廊下に入った。ところどころにボロい長椅子が置いてある。妙にひんやりとした窓のない廊下を長々と歩いて、たどり着いたのは
「男子トイレ?」
オレの口から思わず言葉がボロンした。
「そうです。ここに茜部さんがいらっしゃるので、その……あとはよろしくお願いいたします」
桑原はそう言って、それはそれは申し訳なさそうに頭を下げる。そしてオレがウンともすんとも言わないうちに、踵を返して去っていった。
「……なんだありゃ」
他人にモノを頼む態度かよ。と思ったが、まあここまできたら仕方がない。オレは男子便所にのそのそ入った。
茜部の居場所はすぐわかった。二つしかない個室の一つに鍵がかかっていて、そこからたまにずびずび、とかぐずぐず、とかはっくしょんとか聞こえる。
「茜部、いるのか?」
「鎌田あ?鎌田だよなあぁ?」
下手くそなラッパみたいに情けない声が返ってきた。がちゃっ、と個室の鍵が開く。
若くして少し禿げ上がった額、その下の顔は半泣き。オレより小さい人間の体にどうにも不釣り合いな二本のゾウの鼻。そこから、今しがた鼻をかんだトイレットペーパーがぴろぴろぶら下がっていた。茜部のあまりにもあんまりな姿に、オレはため息をつかずにはいられない。
「泣くなよ。余計に鼻水が出る」
「うん」
ずび、と茜部はゾウの鼻を啜った。
「なあ鎌田ぁ、俺はどうしたらいいと思う?医者にも三日で治るって言われちまった」
「三日で治ることは悪かねえだろ」
「俺、頑張ったんだよ。今日のためにめちゃくちゃ練習した」
「知ってる知ってる」
「なのにこのザマだ。俺はきっと事務所をクビに……へっ……」
めそめそまくし立てる茜部から、慌ててオレは一歩引いた。
「へっくしょーい!うえぇ……」
口からのくしゃみと同時に、ゾウの鼻からはまたぞろ滝のような鼻水が出た。茜部はズビズビ言いながら、一生懸命ゾウの鼻をかむ。
オレは茜部が鼻をかみ終わるのを待って、ゆっくりと言った。
「なあ、茜部。風邪が治らなくたって、ゾウの鼻から鼻水が出るのをなんとかすりゃいいんだよな?」
茜部は赤く腫れた目でオレを見上げる。
「そうだね」
「んなら話は早い。そんなとこにいないでちょっと出てこいよ」
オレの言う通り、茜部は個室から出てきた。
「鼻水をなんとかするって、どうするのさ?薬はもらい損ねたし、日曜だから医者も閉まってる」
「わあってるよそんなこと。バカだなお前は、考えてもみろ。お前のその顔の鼻は何のためについてんだ?」
きょとんとする茜部。オレはさらにまくし立てる。
「何のためについてんだ、え?こういう時にゾウの鼻から鼻水が出ないようにするためだろ!」
「ち、違うと思うけど」
茜部はわずかに呆れを含ませた声色で、おどおどと言った。
「つまりどうすればいいんだ?ゾウの鼻から出る鼻水を、顔の鼻から出せばいいのか?」
「そう、そういうことだ」
「ええ……無理だろ、そんなこと。やったことないし」
「無理なわけあるか。ほら、こう……くしゃみをする瞬間に、顔の鼻に意識を集中して……ほら」
「無理無理!絶対無理!くしゃみする時はくしゃみするのに必死だろ!」
「わあった、わあった」
この野郎、やる前から無理無理言いやがって、という気持ちを抑えながら、オレは両手でどうどうと茜部を諌める。
「そんなに言うなら、似たようなことができる経験者を呼んでやる。待ってろよ」
「経験者?」
繰り返す茜部を無視して、オレはトイレを出た。携帯を取り出す。電話代がもったいないが仕方がない。後であのイカにでも請求しといてやろう。
手慣れた番号を回す。相手は元職場の同僚だが、ヤツのシフトはまだ忘れていない。日曜は暇を持て余してるはずだ。案の定、かけてから三コールで繋がった。
「おい小林。オレだ」
『あ?誰だ?鎌田か?』
低いが軽い、ガラの悪そうな男の声が返ってくる。ここまで順調。
「そう、鎌田だ。お前、今暇だよな?」
『暇だが、何だ?無職よりは暇じゃねえぜ』
「その話はするな。お前にちょっと頼みごとがあるんでな、お前の家ってコンサートホールに近かったろ?」
『ああ、まあ近いさ。歩きゃあ三分だ』
「オッケー、じゃあ三分で来い」
『あ?コンサートホールにか?』
「そう。頼むぜ。じゃあ三分後に」
オレは乱暴に電話を切った。
待つこと三分。律儀にも本当に小林は来てくれた。面倒だが仕方ないので、ホールの正面で待っていると、広場の端からしゅるしゅると長いものが近づいてくる。
「よお、無職の鎌田」
剽軽なテノールで話す小林は、浅黒い人間の頭をデカいアオダイショウの体に乗っけている。髪はなんていうか、チリチリ三つ編みのファンキーなレゲエヘッドだ。いかにも暇そうな見た目をしている。
「その話はするなって言っただろ。いいから用はこっちだ」
オレはとにかく茜部のいる男子トイレまで小林をしょっ引いて来た。ところでこいつだが、足と舌だけ人間のオレとは真逆で、首から下がヘビ、そんでご丁寧に舌もヘビだ。男子トイレの中では、茜部が個室の鍵を開けたまま隅っこでぐずぐずやっている。
「よう茜部、経験者を連れて来たぞ。こいつは小林、オレの元職場の同僚だ。んで小林、こいつは茜部だ。今日これからここでコンサートをする」
茜部が個室からのっそり出てきて、「どうも……」と情けない会釈をした。
「よっ」
一方さすが小林、初対面の茜部に馴れ馴れしく話しかける。オレの方を顎でしゃくって、
「こいつに呼ばれてきたんだけどよ。兄ちゃん、何の用だか知ってるか?」
「いや、俺はよく知らない……」
バカ野郎茜部、たった今お前のために経験者を連れてきたって言っただろうが。オレはとりあえず割って入る。
「そう、その用だがな。こいつは今、くしゃみの時にゾウの鼻から鼻水が出るから困ってんだ。付け焼き刃でも何でもいいから、今すぐ顔の鼻から鼻水を出せるようにしたい。そこで、経験者の小林を呼んだわけだ」
「俺が経験者?俺、そんなのしたことな……」
「お前、ヘビだろ?お前は舌でにおいを嗅ぐ。でもまあ、たまには人間の鼻でにおいを嗅ぎたい時だってあるだろ、え?そういう時どうする?」
「いや、そんなことねえけど……そういう時は口を閉じるさ。シューッ」
小林はヘビの舌をちろちろ出し入れした。オレはイラっとして、
「そういうのじゃなくて。もっと他にないのか?口を閉じるはナシな」
「ナシ?ナシって言われても……あー、なんだ……ほら。鼻から息を吸う、とか?」
「いいね、それだ!」
オレは茜部の方を向き直る。茜部はやたらぽかんとしていた。
「聞いたか茜部?鼻から息を吸うんだ。経験者が言うんだから間違いねえ。な?ゾウの鼻から息を吸って、顔の鼻から思いっきり出せ!」
「えっ、ええ?そんな無茶苦茶な……へっ……へっ……」
いいタイミングで茜部がくしゃみをしそうなので、オレは全力で煽り立てた。
「今だ、下の鼻から息を吸え!上から吸うなよ!」
「んぐっ……くしゃみ止まっちまったよ!だから無理だって!」
「じゃあもう一回だ。無理なんて言ってたらコンサートには出れねえよ」
「わ、わかったから。頑張るよ……」
それから小一時間、茜部がくしゃみをするたびにオレが煽り立てるだけの時が過ぎていった。
「ほら、下から吸え!そう!そうだ!いいぞ!それで上から……」
「へっくしょい!」
茜部の顔とゾウの鼻から、同時に鼻水が噴出した。
「おお、やるじゃねえか兄ちゃん」
隣でぼけっと退屈そうに眺めていた小林が、思わず感心の声を上げる。オレもやっと肩の力が抜けてきた。
「そーうだ茜部!上の鼻から出るようになったじゃねえか!あとは下の鼻から出ないようにするだけだ!」
本人も嬉しいらしく、茜部はへらっと笑って鼻水を拭いた。
「うん、何とかなる気がしてきた」
「オッケー、んじゃもう一発いこう」
茜部は嬉々としてくしゃみの練習を続けた。こうなってしまえば、こいつは何とかなる。問題なのは、茜部が無理だ無理だと言ってる時で、そんなうちは本当にこいつは何をしてもダメなのだ。
そして何ともびっくりなことに、それから半時間弱でゾウの鼻から鼻水を出さずにくしゃみができるようになった。
「ほらな?やっぱりできるじゃねえか!」
「や、やった!俺、これでコンサートでピアノが弾ける!」
退屈してシラケる小林を尻目に、オレたちは二人で盛り上がった。茜部はくしゃみをするたび、ゾウの鼻から鼻水が出ていないことを確認しては大喜びしている。オレは茜部と肩を組んで、
「あとはマスクをすればステージに立てるだろ!ゾウの鼻に残った鼻水は全部かんで出しておけ」
時計を見ると午後二時。開演まであと二時間だ。ここまでくるとオレの気も軽い。あとは本番まで、茜部が上手くくしゃみができることをまくし立て続けてやればいいだけだ。
とりあえず、コンサートには問題なく出られることを桑原に連絡してくるよう、茜部に言ってやった。茜部はスキップでもしそうな足取りで男子トイレを出て行って、三分で戻ってきた。
「鎌田、そういうことならお前も舞台裏についてきてくれって桑原さんが!」
茜部は心底嬉しそうだ。まあオレには願ってもない話、なんせコンサートに入る金がなくて困っていたので、聞けるなら舞台裏でも何でもいい。
「オッケー、ならお前のために舞台裏までついてってやる。だからお前はさっさとゾウの鼻をかめよ。オレは小林を送ってくる」
オレがそう言うと、茜部は笑顔で何度も頷いて個室に入って行った。行くぞ、と小林に親指で合図して、オレと小林は並んで男子トイレを出る。
「これ、俺いらなかったんじゃねえの?」
小林はぼそっと漏らす。
「言うな。こうでもして適当に証拠をこじつけてやらないと、あいつはいつまでも無理だ無理だって言ってきかねえんだ」
「あっそ。そう言うもんなのかねえ」
小林は歩きながら器用にヘビの尻尾で鼻をほじる。ちょうどコンサートホールの外に出て、急に視界がひらけて明るくなった。オレと小林は目を瞬きながら、ホール前の庭を突っ切る。
なんならこのぶんだと小林もタダで舞台裏に入れてもらえそうだが、聞いていくか?と尋ねたら「俺はピアノクラシックは聞かないんでね」とか格好つけたことを言って、そそくさと帰っていった。どうせ帰っても寝るくらいしかすることがないくせに、シケたやつだ。それに、茜部が弾くのはクラシックじゃなくてジャズだし。
まあ、そんなことは別にいい。オレはコンサートホールに戻って、茜部が鼻をかみ終わるのをひたすら待っていた。結局一時間は鼻をかみ続けていたと思う。
茜部が笑顔で個室から出てきた時点で十五時。ホールの開場が始まった頃だったが、茜部は悠々と衣装を着て、練習室でリハーサルを済ませ、舞台裏でお上りさんのように歩き回っているオレを放って、さっさとステージに出ていった。
オレは舞台裏のスタッフが出して寄越したパイプ椅子に肘をかけ、床にあぐらをかいて茜部のコンサートを聴いた。なんたって芸術的なコードとエッジの効いた装飾音がたまらねえ。おかげでコンサートはあっという間だ。客席の歓声に混じって口笛を吹き鳴らしたら、スタッフに怒られた。
茜部が演奏中にくしゃみをするたびなぜか観客から拍手が沸き起こっていたが、とにかくコンサートは結局無事に終わった。
本番を終えて戻ってきた茜部は大喜びでオレに抱きついて、今日は俺の奢りでディナーに行くから!としつこく言っては控え室に消えていった。
やれやれ、男に抱きつかれるなんて気持ち悪い。恥ずかしいにもほどがある。一仕事終えたオレが、さてホールを出てその辺で茜部を待つかと思っていたところ、後ろから聞き覚えのある足音が追いかけてきた。
「鎌田さん!」
「あ?」
振り返ると、案の定桑原が息を切らして立っていた。
「いやあ、本件は本当に助かりました。こちらですが……」
桑原は懐から封筒を取り出す。
「往復交通費と、ささやかながら謝礼です。お受け取りください」
「ほほう……」
オレはニタリと笑って、封筒を開けると中身をまじまじと見た。しばらくは生きられそうな金額が入っている。
よしよし、オレは気分が良くなって、閉じた封筒で顔を仰いだ。
「それで、鎌田さん……少しお話がありまして……」
気分のいいオレの頭に、申し訳なさそうな桑原の声がガツンと響く。お前の話なんか、どうせろくなもんじゃない。
「話?」
「ええ。実は茜部さんからお聞きしたのですが……鎌田さん、今求職中でいらっしゃるんですよね?」
茜部の野郎、余計なことを喋りやがって。桑原に言われると、小林に言われるより百倍腹が立つ。
「ああ、まあ。そうですけど?」
「でしたらちょうどいいお話がありましてですね。先ほどコンサート中に事務所に打診したんですが、鎌田さんが茜部さんのマネージャーとして、うちの事務所に入るのはどうかと。今回のことを上に話したところ、大喜びされましてね。私は下っ端の事務職に戻されてしまいますが、私、実はその方が得意でして。なんせ手が六本ありますから、仕事が捗りますので……」
お前は一体、担当アーティストの本番中に何をしているんだ。と言いたくなったが、そんなことより職の話だ。
「ええ、じゃあそういうことでしたらオレはマネージャーにでも何でもなりますけど。いいんです?上にオレの顔くらい通しておかなくて」
「大丈夫、問題ありません。うちの事務所だって人手不足でね、もう許可は下りていますから。では、そういうことでよろしくお願いします。後日、先ほどお渡しした名刺の連絡先から、入社のためのご連絡をさせていただきますので」
「はあ」
オレが適当な返事をしている間に、桑原はさっさと礼をして去っていった。
まったく勝手な野郎だ。あとからよくよく考えたら、あのイカ野郎、オレをハメて自分は好きな仕事に異動しやがったんだな。くそったれ。
まあ、相手は茜部だ。ハローワークに足を運ぶ面倒もなくなったし、安月給でハズレ案件ばかり引かされる前の会社よりはやりやすいだろう。イボしかない男より数倍マシだ。
だがしかし待てよ、あいつのマネージャーということは、オレの生活はあいつの活動の如何に懸かってんじゃねえのか?
冗談じゃない。頑張ってくれよ、茜部。
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