青い花は咲いているか

「よう、クルー。待ったか?」

「いンや」

 気だるい熱帯夜。ボロい廃工場の、錆びついたトタン屋根の端から、湿気った金平糖のように星が降ってきそうだった。暗がりに紛れる紺色の作業着をまとった男が、シンナー臭い壁にもたれた薄汚い男を見つけて片手を挙げる。クルーと呼ばれた薄汚い男は、歪んだ裂け目のような口の煙草を燻らせて答えた。

「待っちゃあいねえ」

「そうか、そりゃあ良かった。で?ベキニはまだいないのか?」

 作業着の男はわざとらしく辺りを見回した。クルーは白髪交じりの長い髪の奥から、じっとりと男を見つめる。

「ベキニは今頃部屋で寝てらぁ。昨日でけぇ取引を済ませたってんでよ」

「今日の取引にも行けってボスに言われてたろ、あいつぁ……いいのかよ?俺、知らねえよ」

「いいんだ、放っといてやれ」

 クルーはそう言ったきり、半分灰になった煙草をふかすばかりだった。作業着の男は落ち着かなそうに辺りを見回して、クルーの隣で壁にもたれた。穴だらけの壁が悲鳴を上げた。

「……ミューランド・ブルーの取引だったってぇ話だ」

 隣の男からの視線に耐えかねたように、クルーが口の端から声を漏らした。作業着の男は少しだけ奥二重を見開いて、

「ミューランド・ブルー……そりゃあ……そりゃあまたたいそうな上物のヤクじゃねえか……」

「今日の取引もミューランド・ブルーだそうでぇ」

「聞いてないぜ、そんなの。勘弁してく……」

 作業着の男のセリフを、控えめな携帯電話の着信音が遮った。男はポケットから携帯を取り出すと、着信番号も見ずに電話に出る。

「もしもし、ゲッコーだが。……あ?なんだ?ベキニか?」

 作業着の男、ゲッコーの声が少し大きくなった。

「部屋で寝てるんじゃないのかよ。何の用……あ?なんだ?もう一回言ってくれ」

 眉根にしわを寄せるゲッコーの隣で、クルーはひたすら煙草をふかしている。

「ああ……ああ。まだだ。まだ来ちゃねえよ……じゃあ、あっ」

 ゲッコーは唐突に切れた電話を耳から離すと、真面目な顔でクルーを見た。

「なんの電話かと思ったら『青い花は咲いてるか』だってよ。コレの――」

 ゲッコーは左手の中指を立てて、自分の頭を突く。それはいわゆる、ヤクを表す仕草。

「――ことだろ。なんで来てもいないあいつが取引相手の心配なんかしてやがる。まだ来てねえっつったら、いきなり切りやがった」

 クルーはゲッコーのおしゃべりを最後まで聞くと、静かに廃工場の壁から離れた。

「ちと小便に行ってくらぁ」

 彼にしては早足で、猫背の後ろ姿に片手を挙げてゲッコーに待ったの合図をする。ちょうど廃工場の角を曲がってゲッコーの姿が見えなくなったところで、クルーのズボンのポケットから消えそうな携帯電話の着信音が鳴った。

「よぉ、どうしたんでぇ」

 クルーは受話器のボタンを押すと同時に喋っていた。すると電話のスピーカーの向こうから、掠れた男の声が返ってきた。

『青い花は咲いているか?』

 前置きなしの問い。クルーは少し黙っていたが、足は休めることなくまっすぐ歩いて行った。

「青い花はねぇ……」

 そう言うクルーは、やがて開けた大通りに出た。汚い色の街灯が、車一台すら通らないアスファルトの川をのっぺりと照らしている。その対岸には、色あせた看板がかかった小屋ほどにみすぼらしい建物。通りに面したショーウインドウは明かりが消えて、中に飾られている山のような花がみんな灰色に見えた。

「青い花はねぇ……咲いてるねぇ」

 クルーが曇った眼をこらすと、電話の向こうのかすれ声が返ってきた。

『そうか、そうか……そうか……』

「もらっていくかィ?」

 クルーはようやくそこで足を止める。まっすぐに対岸の花屋を見つめていた。

『いやぁ、いい。咲いてるだけで』

 それを聞くとクルーは黙った。電話の向こうとこちらで、静寂のやり取りが交わされる。そしてやがて、クルーはにやりと笑った。口から灰だらけのタバコが落ちた。

「ちげぇねぇ」

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